夏の桜 その日、弦月は通り雨と共に届けられた季節外れの香りに、ふと視線を彷徨わせた。傍らに坐していた神は弦月にとっては馴染みの方であったが故か、その方もまた、さあっと降り注ぐ温かな水滴を眺めては、おやと声を上げる。
「咲いたようだね」
「ええ。今年も見事に」
「空の子は帰らないのかい」
「忙しいそうで。寧ろ帰ろうとしていたんですけれど、無理するなって寝台へ押し込んできました」
「おやおや。散る際までに逢えると良いのだけれど」
「そうですね」
ゆるやかに首を擡げて、弦月は視線を隣の方へと向ける。白布に隠れたその表情を読み取ることは出来ないが、おおよそ口振りと声色が何処か明るく跳ねていたのを聞くに、きっと楽しそうにしているのだろう。その香りから思い起こされる影を瞼の裏側に映し出しつつ、以前隣の方が昔ながらの友であると話していたなと少しだけ思い出してから、成程と目を細めた。
彼らが自らたちのことを気に入ってくれているのは、自分たちが古くからの親友であるからかもしれない。藤の子と、百合の子と、空の子。そう呼んで可愛がってくれている隣の神は、よく話題として他の神の話をすることがあった。そのうちの一柱は丁度今の時期に、蓄えていた神力を花咲かすのである。
降りしきった雨がようやく上がる頃合い。梅が咲き乱れたその中で一際大きく、枝の腕を伸ばす大木。青空の中がいっとうよく似合う、桃色の花弁を降りしきらせた花々は遥か昔からこの土地と人々を慈しんできた。我が皇国でもその名を冠する、桜の雨。
あの神が目を醒ましたら、今年も鮮やかな晴れ間が見える。降りそぼる慈愛の雨々が去る頃には、大空が太陽を抱いて現れるのだ。そうして今年も、夏が来る。
故に、件の方は晴れの名を抱く弦月の親友の一人の可愛がっていた。去年は確か、研究発表のために此方側に来ていた時期に梅雨の終わりが訪れたので、件の方の目覚めに立ち会えたのだ。
目を醒ました桜の方はその親友が居るのに兎角喜び、勢いで勾引かされかけて大変だった。来年も会いに来ますからと約束させたのだから、流石に反故させるわけにはいかない。何せ神との約束はやぶると洒落にならないのだ。主に、拗ねたなどという理由で放たれる神罰とかが一番怖いのである。国一つ吹き飛ぶなんて可愛いものだからだ。
後で連絡してやらないとなあ、なんてことを少しばかり考えていた弦月は、細めていた視線を窓の外へと向ける。やわらかな雨と、桜の香り。今年の目覚めは、いつもより少し早い。きっと多忙に多忙を重ね、休みなど取れず仕舞いである件の親友を慮っているのだろう。気に入りというのはどれほどに遠くとも、案外手に取るように何でも分かるものだよなんてことを、以前弦月は言われたことがあった。勿論、それを言ったのは隣の方だったけれども。
そんなことを思い出していると、隣でくすくすと肩を揺らして笑う方が一柱。どうやら、考えていたことが顔に出ていたようだ。
「心配かい、空の子が」
「……彼奴、すぐ無理しちゃうんですよ」
「そうだねえ。きっとそれを、分かっていたのだろうね」
さあさあと慈雨が降り注ぐ。この時期の雨は、優しく泥や血を拭ってくれるだろう。今日もどこかで祓魔依頼のために駆けずり回っている紫の長い髪のことも一緒に思い出して、何かと自分のことを大事にしない親友二人どものことにまた頭を擡げた。彼を好き好む豊かな雨を降らせた神は、弦月の手も目も届かぬ何処かで傷つくあの青年を見守っているに違いない。きっとあの方に任せておけばよいのだろうと頭の何処かでは分かっているけれど、どうにも弦月の心がそれをゆるさない。
どちらもそうだ。いつでも、いつになっても、いつまでも、心配で仕方がない。自ら一人では何も出来ないのだと、思ってしまう節さえあった。ただそれを優しく慮ってくれるのも、また隣に居る彼の方であった。
「大事になんだね、彼の子たちのことが」
「……はい」
「人の子は脆い。わたしたちはそれを知っている。だからきっと、おまえも心配なのだろうね、藤の子」
「そう、です」
「大丈夫、人の子は脆いが、人の子は強い。わたしたちは、それもよく知っている。藤の子、おまえもそれをよく知っているだろう?」
この国は、神に愛されている。自分たちは思っている以上に、神に慈しまれている。そして自分たちは、考えている以上に強かだ。心配や不安、哀しみや苦しみの合間で、それでも誰かに見守られ、支えられながら常を生きている。
弦月自身も、空の彼も、百合の彼も。
「……勿論です」
「ならば、大丈夫だよ。わたしが愛するおまえも、彼奴が気に入りの空の子も、奴が慈しむ百合の子も。何せ、おまえたちはわたしたちの愛し子なのだから」
「……有難う御座います」
そうしてゆうるりと笑うように頭を傾けた隣の方は、ふうとひとつ風を起こした。それは桜と夏の香りを乗せて弦月の辺りをふわりと舞い彼の髪を揺らしてから、窓の外へと滑り出ていく。きっと下々の街に降り立った香りは国の隅々まで夏の訪れを告げ、他の神々や住まう民草たちに報せていくのだろう。今年も正しく季節は廻り、初夏の兆しは既にやってきているのだと。
神というものは万能ではなく、また万物を生み出すことも出来やしないが。それでもやはり、神というものはすべからく人々を見守る存在であるのだと。弦月は自らの職を鑑みて、改めてそう思った。
「藤の子や、おまえも無理は禁物だからね」
「はい、勿論分かっていますよ」
「また夏の暮れには逢えるのだろう?」
「その前にも来ますよ。僕がそんなに薄情に見えますか」
「薄情ではないのだろうが、おまえはときどき人の身がひどく楽しそうでな。わたしのことを忘れたのではないかと思うときがあるよ」
「それを薄情そうに見えるって言うんです」
「ふふふ、では薄情に見えるなあ」
「……散る前に一度来ますから。晴くんと景くん連れて!」
「おお、ならば雨の彼奴も呼び、桜の奴の袂で花見を洒落込むか。なんだったか、人の子の間ではあれが流行っているのであろう。しゃ、しゃとー……」
「しゃと? ……シャトーブリアン? 神、それどこからの入れ知恵ですか」
「わたしが何か、おまえがよく知っているだろう」
からころと楽しげに肩を揺らして笑う彼の方に、弦月は大きな溜息を吐きながらも笑みをほころばせた。結局のところ、弦月にとってこの職は性に合っているのだろう。人として誰かと関わることも、官史として神と話すことも。憂う人とその世を見守る神々の合間は、案外心地が良い。
この妙に民草の流行りを良く知る風の化身の方に笑いかけながら、弦月は小さく思った。──ああ、今年も夏の始まりを告げる桜が咲いたな、と。