雨だ。そう気づいたのは、室内に響き渡る音楽と男女の談笑が漏れ出す店前の扉前で、ぱたたと誰かの傘が水を弾いた独特の音がしたからだ。更け込んだ深夜二時前後の繁華街は未だネオンが煌めいてはいるが、そろそろ店じまいも始まりそうな様相を纏っている。実際不破の働く店もまた、もうじき閉店となる予定だった。
馴染みの客に謝りながらも足元に気を遣いながら、店外へ出ていくその背中を見送る。何度も何度も手を振っては、ふうとひとつだけ呼吸に似せた溜息を吐いた。いつもであれば姫に請われるがままにアフターに興じることが大体だったが、今日は明日が早いと言い訳をして断ってしまった。ただ、そうは言ったが別に明日は何か用事があるわけでもない。ただ、いつもとは違って妙に気が乗らない。ただそれだけの理由でしかなかった。
「……ホスト失格ってかあ?」
既に去っていった背中はもう見えなかったせいか、不破は誰にも聞こえない小さな声でふと独り言を漏らす。悲観でもなければ自虐でもないはずなのだが、言葉が言葉のせいか、それとも天気のせいか。吸い込まれもせずに雫と共に道端の排水溝へと流れていく。くだらん、と過ぎった思考さえ一蹴しつつも、どこか引っ掛かったままで不破はぱたぱたと屋根を叩く雨音を振り切って店内へと戻ろうとした、の、だけれど。
雨と香水、酒と煙草の匂いに混じって、ふわりとこの街にはおおよそ似つかわない金木犀の香りがする。一瞬不破の脳裏を過ぎった青空を纏う男のことを思い出して振り返ると、そこには明らかにネオンの似合わぬ真昼の青年が立っていた。
「は? 甲斐田?」
「あっ、やっぱり不破さんだ。お疲れ様でーす」
「や、お疲れ……やけど、なんでお前ここにいんの」
「人との付き合いの帰りで。そういえば不破さんの仕事場この辺りだって前に言ってたな~って思ったんで、前通ってみようかなと」
「……飲んでくってか?」
「男が入っていい場所じゃないでしょ、流石に」
「別におらんわけやないけど」
思わず店内へと入ることを勧めはしたものの、正直なところ不破は甲斐田に店へと立ち入って欲しくない気持ちの方が過ぎり始めていた。変な話かもしれないが、この男には煌びやかな夜の街はどこか似合わない。精々居酒屋で馬鹿やって酒を呑んだくれている方がそれらしいとさえ思っていた。男女の駆け引きや途方もない金が一瞬で飛んでしまうような、そういう感情を売り買いするような泥沼へ放り込むにはあまりにも眩しすぎる。そんな、自分より幾分か年上であるはずの男に思う感覚でもないことは不破自身も理解しているけれども。
ただそれを不破が無意識に顔へ出してでもいたのだろうか。甲斐田はどこか悩むようにううんと喉を鳴らしてから、やっぱいいですと断ってきた。
「別に僕が不破さんにお酒入れなくても、不破さんめちゃめちゃ稼いでそうだし」
「そら当たり前やろ。ナンバーワンやぞ、俺」
「だから、代わりに飯付き合ってください」
「……飯ぃ?」
「ラーメンとか。僕一時間とかくらいなら全然時間潰して待つんで」
そんな屈託のない声と表情のままで、甲斐田はにへらと笑みを浮かべそう提案してきた。この繁華街でもトップを争う業績を上げているホストクラブの、ぶっちきりナンバーワンを独走しているホストの不破湊を、店にも来ていなければ酒も卸していないような一介の男が図々しくもアフターに数百円程度のラーメンに。──なんて、そんなことを少し考えた不破は、ふはっと笑い声を上げた。
今はそもそも、ホストなんかじゃない。ここに居るのはただの不破湊で、目の前にいるのは客でもないただの甲斐田晴だ。ホストと客ではなく、ただの友人。仕事終わりに友人と飯に行くくらい、なんらおかしいことなんてない。肩筋を無意識にも張っていたらしい不破はようやくそれに気付いて、ひとつ大きくて深い呼吸を吐き出した。
相変わらずこの男は、陽だまりだとか昼下がりだとか、そういうものがよく合う。つくづく自分とは真反対であるのに、どうしてかウマが合うのは不思議なものだ。だからこそ不破は、甲斐田を気兼ねなく小突くこの瞬間が楽しいのだが。
「ほんだら、ハルに奢ってもらうか」
「あ!? 僕が金払うの!?」
「当たり前やろ。ホストのアフターは客が金払うのがルールに決まってんやぞ」
「エッ、これアフターなの……ってかホストってそうなの……?」
「っ、あっははははは! 嘘に決まってるやん」
「……はあ!? 不破さぁん!」
そうやってこの後輩を転がして、揶揄って遊びながらも。数十分前まで脳裏を揺蕩っていたくだらないはずの愁いが、ほどかれていくように夜へと溶けてしまっていることに気付いた不破は、未だにびいびいと喚いている隣のでかい図体を容赦なく蹴ってやった。勿論、いじりという愛を込めて。
降りそぼる小雨の中、ぱつぱつとビニール傘と屋根を叩く音。少し濡れた革靴は地面の雨粒を纏って、楽しげに歩みのステップを踏む。既に終わりかけの店内に戻った不破の肩も湿っていたが、その表情は上機嫌そうに笑みを浮かべていた。
きっとまた十数分もしない間にはそのジャケットを脱いで、真昼の似合う男と繁華街を歩くのだろう。夜の街を濡らす粒が豪雨になろうとも、紺の空帯は楽しげに笑う二つの傘の輪郭を濃くするばかりだ。