「もちさん。もちさんがはじめて聞いた曲って何だった?」
「ええ? えー……何だったかな……」
聞き慣れた、けれど小気味良いとも思える音が鳴り響く自室の大型テーブルを前に、モニターと睨めっこしていた剣持は唐突にそんな質問を投げかけられたことで一度視線をずらして、首をゆるやかに傾げていた。彼の視線の先にはもう何年も行動を共にしている青の双眸が、煌めきを湛えながら此方を見ている。その体躯はまるでどこにでもいる普通の青年であるはずだが、剣持は彼が人間でないことを知っていた。
高性能歌声生成アンドロイド。様々なシリーズが展開されているその中で、曲を作る剣持の元にやってきたのは「甲斐田晴」という世界で唯一のオリジナルカスタム済みアンドロイドだった。学習能力の高いAIが搭載されており、外見も普通の人間と見間違えるほど。都内で一人暮らしを送る剣持へ昔ながらの友人であり同業者でもあり、世界企業である加賀美インダストリアルの代表取締役から贈られた誕生日プレゼントだ。
アンドロイドの割に我が強く、何とも人間くさく、そして時々達観した口振りをする割には自らが機械仕掛けだということを棚に上げて自己犠牲に走るさまに幾度となく衝突や口論や喧嘩を繰り返してきたものの、今ではなくてはならない同居人であり仕事仲間であると剣持自身は認めていた。否、勿論そんなことを甲斐田本人に言うつもりなど、剣持には毛頭ないわけだが。
一瞬思考の海に意識を投げ飛ばしていた剣持は、あーだかえーだかの鳴き声にも似た声を上げつつも長考した後に、隣でわくわくした表情を隠しきれずにいた甲斐田を一瞥してから少しだけ瞼を閉じた。
「憶えてない」
「ええーっ!?」
「ま、憶えてなくても良いと思ってるし」
「……ええ? そういうもんなの?」
「そうだよ」
剣持が口にしたその言葉と想いは、特段嘘でもなければ憶えていないことの痩せ我慢でもない。ただ純粋に、本心として発せられたものだった。
「だって、僕は人間だし。生きている以上、記憶はどうやったって薄れていくもんでしょ」
「それはそうだけど……でも寂しくないの? 僕はもちさんから初めてもらった曲、ずっと憶えていたいって思っているけど」
「……それは嬉しいけどね。まあ、寂しい気持ちがないわけでもないよ。憶えていたはずのものを思い出せないってのはさ」
「そうだよね……」
「でも、あの時初めて感じた高揚感とか、興奮とか。そういう感動は、忘れたくても忘れられないものでしょ。曲を思い出せなくても、音を忘れてしまっても、言葉が掻き消えても。感動は、ずっと胸に残り続けてるものだから」
ぽつり。零した一言は、剣持にとって忘れ難い想いだ。既に記憶からちぎれてしまったその音たちが与えたものに突き動かされて、剣持はここまでやってきたのだから。
「だから、寂しいことも別に悪いことじゃないよ。寂寞が、また僕に音を作らせるなら、それは──」
「──なんて、素晴らしいことだろうね」
「……分かってるじゃん、甲斐田くん」
「分かるよ。だって、もちさん専属のシンガーアンドロイドだもん」
「……偉そうに」
感情を得て、音を得て、旋律を得て、言葉を得て。その先に待つものを、ただひたすらに追いかける。また感情を得るために走る先々で出会った人々の輝かしさに、紡ぐ音を増やして、旋律を繋ぎ、言葉を置き。ただその巡りが、どれほどに楽しいか。
あの時の感動はこうして自分が音に線を引き続ける限り、ずっと続いていくだろう。剣持自身は、確かにそう思っていた。そしてこれからも、そう思い続けていくことを辞めないだろうから。
出来ることなら、その先にこの素直すぎる優しいアンドロイドが共に居ればいいと、ほんの少しだけ思った。
「あ! でもさ、もちさん」
「何?」
「もし何かの拍子で初めて聞いた曲思い出したら、教えてよね。僕歌ってみたいから」
「……生意気」
「いっづ!? なんでデコピンしたんだよ! ただの提案じゃん!」
「はいはい、思い出したら考えといてあげるよ」