──先生。そう口にした声は、息にも音にもならなかった。静謐さをどこまでも湛え続けているだけの無機質な室内の中で、椅子へと身体をたっぷり預けたその白衣は瞼を落として眠っているかのような横顔を落とし続けている。
冷たいグレーの石壁には所狭しと標本が飾られていた。青、紫、赤、緑、虹色、ホログラム。鮮やかなインクを落としたような薄い翅を細く痛みなどなさそうなピンで留め、飼い殺された蝶々達が呼吸もなく息衝いている。傷一つない美しさは確かに胸を貫かれていて、生命は既に死んでいる。自分もいつかああなるのだろうかと壁に視線を這わせていると、ぎちりと目の前から音が鳴った。静寂は、割り落とされる。
「……加賀美くん?」
ごろりと目の奥が蠢いた気がした。自分の眼球が動いて、視線を落とす。先程まで命ごと縫い留められているのだろうと思っていた先生は、息を取り戻したように此方を見上げていた。先生は未だ向こう側には辿り着いていないのか、そんなことを過ぎらせては、何処からか落胆が身体の端から滲んだ。
管理する側とされる側、この世界はそんなもので構成されている。私はされる側。そして先生も、きっと。
「……先生、診察の時間です」
美しくないものは壁に飾られないから、夏の蝉は今でも鼓膜の奥で泣き続けているんだろう。私も未だ倒錯の果てにその身を棄てることさえ叶わないから、未だに此処で立ち竦んでいるのだろう。
温室を思わせる緑に埋め尽くされた箱庭の中、ただ何時しか来るであろう標本の死を待っている。それが果たされた時に、ようやく私の脳裏で傾く制服の裾と、踏切の音は止むはずだ。否、そうでないと困る。そうじゃなきゃ、私は、俺は。
「嗚呼、本当だ。ごめんね、寝てたみたいで」
「いえ」
「じゃあ、診察を始めようか」
進むことの無い時計。外された秒針。羽搏くことを止めた蝶。泣き止まない蝉。上がらない踏切。落ち続ける制服。終わらない夏。終わらない夏。終わらない夏。
御休みと言ってくれる誰かを、私たちは何時まで待てば良いのだろう。