Shayt ①きっかけはなんとも数奇なもので、何度思い返したってお世辞にも「良い出会いだった」とは言えない。
けれど確かにその始まりは大きく、私の人生を一転させるには充分すぎる程だった。
[1]
八百万の神々と、彼らに仕える妖が生き物を守る国──山和国。
「和の国」とも呼ばれるそこは、豊かな自然と島国故の穏やかな情勢によって非常に安定している国とも言えるだろう。
しかし、そんな国でも外からの来訪者が無い訳では無い。
近年始まった異国との貿易船は勿論、極一部の者のみがその存在を知っている「異世界」からだって──
「おやおや、私の弟子を虐めないでくれないかい?」
見かねてそう言いながら、ガタガタと震える少女の肩を引き寄せしっかりと抱き留める。それからジッと目の前の人間……いや、そうでは無い異世界から来たらしい何かを見据えた。
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遡ること、半刻前。
しがないただの妖「柊 弥琴」として人間達と肩を並べながら一人で営む雑貨店、一輪堂での仕事をなんとか一段落させ、息抜きがてら弟子の様子でも見に行こうかと店を出た。
この弟子というのは商人としての教えを授けた者……ではなく、商人になる前に私が就いていた「大儺」──神と生き物に仇なす存在である「邪鬼」を祓う者として神に認められた妖──の弟子ではあるのだが、別に師匠としてその仕事ぶりの確認に行こうとした訳ではなく、純粋に保護者として心配事があったからだ。
何せ私の大儺として唯一無二の愛弟子たる彼女──綾月ゆのはその特殊な身の上故に非常に繊細で、何かあればすぐに自分を責めて他人を頼るという思考をまるで持つことが出来ない。しかし変な所で頑固で、守りたい者の為であれば平気で自らの命を差し出してしまう強さとも弱さとも呼べるものを持っているせいで、放っておくにはあまりにも危なっかしいのだ。
それでも彼女の愚直さに惹かれて大儺を退いた身でありながら弟子にしたのは確かだし、出会ってからのこの一年半程の間に随分と私に懐いてくれた。お陰でたかだか二十年と少ししか生きていない小娘にはあまりにも重く辛かったであろう過去の話も打ち明けてくれるようになり、私と話す内に少しは前向きになれた物もあるようだが……一つだけ私にはどうすることも出来なかったものがある。
──それが、彼女の亡くした弟のこと。
とは言えそれは過去の話であり、きっと生まれ変わって会いに来てくれると信じる彼女の心もいつか時間が和らげてくれるだろうと密かに期待していたが……。
ともあれ心配は尽きず、お陰で気もそぞろになってしまい仕事に手がつかない。いや、元より仕事はよく怠けている方だが……それでも時折彼女から怠惰だと言われる私から訪ねるのはそれはそれで珍しいだろう。
そういう訳で、軽い身支度を済ませて店を出ては少しでも気を紛らわせてやろうと一輪堂が軒を連ねている天満の街で甘味をいくつか買い、それから弟子の暮らす隣村である夢見草に向かって歩き始めた、そこまでは良かったのだが。
「ん…?異世界の者、か…?」
そう遠くない場所になんだか違和感のある気配を微かに感じ、ふと足を止める。恐らくただ敏感な大儺であれば、邪鬼だとすぐに判断していただろう。しかしそう思うにはなんだかおかしいと、長年生きてきた経験による勘が告げた。
なので弟子と同じようにこの国、いやこの世界の理の外から来た者なのかと思ったけれど、どちらにせよ嫌な予感がするのは間違いない。
そう思って内心焦りながら気配を辿れば、天満と夢見草を繋ぐ街道から少し逸れた林の中でようやく違和感の元たる人間──見た目は一見普通だが、和の国では珍しい青髪と左頬に三本の等間隔に並んだ罅のような物を持つ二十代後半であろうしゃがんだ長身の男と、その男に見上げられてどう見ても怯えている白い無地の布面を付けている茶髪の少女──弟子の姿が見えた。
なら、私のとるべき行動は一つだろう。
「おやおや、私の弟子を虐めないでくれないかい?」
いつも通りの様子を崩さず、そう声を掛けながら歩み寄っては弟子の肩を引き寄せ男から離し、しっかりと抱き留める。
それでも男は動じることなく私を一瞥だけするとすぐに弟子に視線を戻して「君の先生かい?」と尋ねていたが、なんとか頷きながら私の袖を軽く握った弟子を見てようやく私と話す気になったらしい。
「…それで?君は私の弟子に何の用だい?」
「ハァ…彼女の友人について話を聞こうとしていただけだ。虐めに見えたかい?」
「おや、逆に聞くが弟子のこんな様子を見てまともな会話が成り立っていたと思える部分があると思うかい?」
「心配しなくても会話すらしていないよ。初対面で名も知らない私に尋問するより、彼女から真実を聞くのが効率的だと思うが如何だろうか?」
なんとも掴み所のない男だ。
内心そう思いながらも表情には出さないまま、言われた通り弟子に目をやる。まぁ聞かなくともこの“ゆの”という少女は怖がりながらも芯はしっかりしており、人前で露骨に怯えるなんてことは滅多にしない娘なのだから答えなんて分かってはいるのだけど。
「…ということらしいけれど、どうなんだい?まず…彼は知り合いかい?」
少しの間の後、コクリと小さく頷く。
「彼といたのは同意の上かい?」
また少しの間の後、今度はおずおずと首を横に振ってから僅かに私にしがみつく。……こうも素直に助けを求めてくるとは珍しい。そう思いながら幾らか気を良くしてゆのを少し強く抱きしめてはにっこりと、それはもうにっこりとした笑顔を彼に向けた。
「ふむ、それではやはり申し訳ないが弟子は連れ帰らせて貰うよ」
どういう目的があったのかは知らないが、協力してやる義理も無いだろう。そんなことよりも一刻も早く弟子をこの場から離し、落ち着かせてやることの方が大切だ。そう思い、弟子の肩を支えたまま彼に背を向けて歩き出そうとしたが。
「……マスターとハウル君について君は何か知っているのかと思ったが期待した私が間抜けだったようだ。非礼を詫びよう。すまなかった」
背後から聞こえた声に、思わず足が止まる。
「ますたー」という言葉がどういう意味なのかは分からないが、「ハウル」という名はつい最近弟子の口から聞いたばかりだ。──曰く、彼は弟子の弟の生まれ変わりなのだと。
(……なるほど、その関係者か。よくその話の鍵がこの子だと気づいたものだ)
そう小さく感心もしたが、まずはこの状況をどうにかしなければならない。なんせたった数日でそこまで調べあげた男だ、またこうして弟子に接触する可能性も捨てきれない。……ただでさえこの子は弟の件で酷く心を痛めているし、年上で背の高い男が苦手だと言うのに。
不安気な弟子を軽くだけ撫でながら、振り返る。そうすれば男はしゃがむのを辞めたらしく立ち上がって服の裾を払っていたが、それが終わるのを待つことはなくわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「はぁ。期待も何も、君は女子の扱いという物を知らないのかい?全く、最近の若いのは…。暫くそこで待ってな。弟子を休ませたら手取り足取り教えてあげよう」
淀みなく言い切れば隣から小さく「えっ」なんて声が聞こえたが、気にせず彼の返事も待たず弟子の肩を抱き締めたまま歩き出す。そのまま街道まで出ると、ようやく弟子は少しだけ落ち着いたのか心配そうに私を見上げた。
「ご、ごめんなさい……」
「何がだい?」
「め、迷惑を…」
「あぁそうだね、なんとも迷惑な男だよ、彼奴は」
「……え」
「勝手に来ておいて私の弟子を謗るようなことを言うだなんて、良い度胸じゃないか」
「べ、別に貶されては無いと思うのですが…」
少し困った声で小さく呟く。
相変わらず他人に甘い娘だとは思うが…とにかく今は緊張も解けてきたようなので良しとしよう。ついでに聡い彼女が私のお節介に気づく前に話題を逸らさなければなのだし。
「それで?彼とはどういう付き合いなんだい」
「あ、えっと……弟の、親友の……家族?というか…。さっき言ってた「マスター」はこっちの言葉にするなら主って意味で、親友のこと…です」
「なるほどね、そこで知り合ったのか」
どうやら思いの外近しい間柄だったらしい。とはいえ弟子の反応を見るに、生まれ変わる前の弟がいた時から少なくともあの男と弟子はあまり良好な関係を築いていた訳では無いようだが。
「君はあの男が嫌いなのかい?」
「っ、嫌いでは…ない、です」
「けれど好きでも無い、と」
「……怖い、んです。出会った頃から感情が読めなくて、それは覚になってからも同じで……」
「…ほぅ?」
弟子は背が高い歳上の男以外に、顔色が読めない相手を怖がる。どうやら彼はそのどちらにも当てはまっているようだけれど、問題はそこではなく覚の象徴的な能力である読心術が通用していないということ。勿論その力が万能ではなく、和の国の中で言えば弟子よりもいくらか強い妖力を持つ妖か自然の化身たる神には通用しない事をよく知っているが、果たして異世界の者の場合はどうなるのか。
(異世界の友達とやらには効いたと言っていたし純粋に彼が特殊なだけなのか、はたまた……)
気になるのはやはり、僅かに不自然で不気味な力の気配を感じたこと。けれど今はこれ以上思案したところでどうしようも無いだろうと頭の片隅に留め、相も変わらず不安気な弟子の頭にそっと手を乗せた。
「ご、ごめん…なさい……」
「そう直ぐに謝るんじゃないよ。君が悪かったのは彼奴に目をつけられた運だけだ。そんなもの、謝っても仕方ないだろう」
「う……」
「今回もたまたま会って捕まったのかい?」
「たまたま……というよりは、村に行こうと鳥居から出た所で急に転移させられて、気づいたらあそこで…」
「完全に誘拐じゃないか…」
あの男に怒ることが増えた。
内心そう思ってついついげんなりしながら呟く。けれど。
「で、でもラギさんが来てくれたから……運、悪いことばかりじゃなかったですよ…?」
慌てたように弟子は少し声を上擦らせながら、必死に弁明をする。果たしてそれは彼を庇っての事なのか、ただの本心なのか……。恐らく両方だろうけれど、愛い姿も見れたことだし彼を怒るのは一応勘弁してやろう。
「……まぁそうだね。ついでに君へのお土産も買ってきたから差し引きで考えれば今日の運は良かったかもしれないね」
「えっ」
「ほら、受け取りな。ここまで来ればもう一人で茶屋まで帰れるだろう?先に結望ちゃんとお食べ」
「で、でもっ……」
「大丈夫。ちゃんと三人分で買ってあるさ」
「そ、そこじゃなくて!」
「ん?」
「本当に、またお話に行くんですか?」
ぴたりと足を止め、不安そうに私を見上げる。
その目は白い面に遮られて見えないけれど、きっと不安の色を濃くしながらも私を案じて真っ直ぐその眼差しを向けてくれているのだろう。……本当に、優しすぎる子だ。
けれど私はその心配も気づかない振りをして、変わらない調子で頷いた。
「あぁ、彼が待っていたらね。流石に言われっぱなしでは君の師匠としての沽券に関わるだろう」
「こ、こんな所で気にしなくても…」
「まぁ大丈夫さ。ああは言ったけれど彼はそんな馬鹿正直に待っている質でも無さそうだしね」
「それは、そうだけど…」
「居ないことを確認したらすぐに私も茶屋に行く。ゆのは先に菓子と茶の用意をしておいてくれるかい?」
「……分か、りました」
渋々、如何にも渋々といった様子で頷き、私から菓子の包まれた風呂敷を受け取る。そして肩に添えていた手を離せば、弟子はどことなく落ち着かない様子を見せながらも小さく頭を下げては茶屋のある神社に続く階段へと歩いて行った。
「さて……と」
背を見送り、階段に足をかけ何本も立ち並ぶ鳥居の一つ目をくぐった……つまり、あの神社のある山全体に掛けられている「害意のある者を弾く」という結界の中に入ったのをしっかりと見届けてから踵を返す。
弟子には「待っている質でもないだろう」と言ったが、実の所彼の気配があの場から一切動いていないことは分かっていた。それは意外と律儀ということなのか、はたまた私の言葉に興味を持ってのことなのかは分からないが……少なくとも早く話を終わらせる方が良いだろう。
そう思い足早に元の場所へ向かえば、彼は気ままに近くの木に凭れて読書に勤しんでいた。
「おや、大人しく待っていたのは良い子だね」
分かっていたことだが、気取られぬように笑みを浮かべる。けれどすぐにすっと目を細め、本を閉じた彼を見据えた。
「それで?君の目的を聞いても?」
「ふむ……君は確か「弟子を休ませたら手取り足取り教える」と私に言ったはずだ。条件付きじゃなきゃ教えられない話題なのかな?」
「当たり前だろう?折角私が教えてやると言うのに隣でぴいぴい泣いている子がいれば気もそぞろになってしまう。それだと勿体ないじゃないか」
「そうかい?子供は泣くものだと記憶していたが違うのか」
「泣かない子供だっているだろう?」
弟子の言う通り、彼の心情は読みにくい。だが読まずとも読ませなければ良い。もしくは、意識を弟子から私に逸らせることが出来れば充分だ。
そう思いながらもにこりと心の篭っていない笑みを浮かべれば、少しの間を空けて彼は小さく溜息を吐いた。
「……目的の説明をする前に情報を先に提供する」
言うや否や、私の返事も待たずに彼は人が良さそうに微笑む。……それが作り笑いでなければまだ良かったのだが。
「私の名はシェイム。彼女の友人である侑李君とは親しい間柄でね。彼がハウルと言う新しい友人を拾ったのだが…何か違和感を覚えたそうだ。そこで私はその違和感の理由を調べる為、ある時からを境に侑李君を見て泣いていた彼女に話を聞こうとしたが、どうやら私は嫌われているらしい。一言も発言せずに君が現れた。これが今の状況だ。理解したかい?」
余計な一言を付け加えつつ、どこか挑発的な笑みを浮かべる。だがそこにはもう触れる気にもなれず、少しばかり額に手を当てた。
「……はぁ、またハウルか」
小さく呟く。なんとも頭の痛い話だ。
勿論私が一言物申したいのは弟子の前世の弟の方ではあるのだが……いや、その話は今しても仕方ない。それよりも目下の問題は目の前でどことなく嬉しそうにしている男の方だ。
「まぁ状況は分かったさ。分かったが、いつも何も理由を言わず泣いていたと知っていてどうして正面から聞いて聞き出せると思ったんだい……」
「彼女を泣かせていた相手は彼であって私ではないのだから勘違いもするだろ」
「だからってうら若い小娘を急に攫って何故大丈夫と……はぁ、この話は置いておこう。それで?君はあの小童について知りたいのかい?それとも弟子について?」
最早怒りはなく、ただ呆れながらしれっとしている男にじとっとした目を向ける。だがそれを彼が気にする訳もなく、にこりとして小さく首を傾げていた。
「この違和感に関与している情報全てだ。手取り足取り教えてくれるのだろ?」
「また随分と欲張りな…。……とはいえ私も聞き齧りだよ」
そう前置をしてから、一瞬の逡巡。
きっと「思い出さなくて良い。ただ今度こそ幸せになってくれれば、それだけで良い」と切に願う弟子は私がこうして明かすことを望んではいないだろう。
しかし、私とて愛弟子の幸せは願っているのだ。罪悪感に囚われて生きることの辛さは、よく知っているのだから。その為ならば、私は平気でよく知らぬ小童を切り捨て弟子を優先しよう。……少なくともあの弟子の弟と言うのであればきっと、姉の犠牲なんぞ望む訳が無いのだから。
「とりあえず、弟子には弟……実際に血縁などは無かったようだから弟のような、と言う方が正しいか。まぁ少なくともそういう存在がおり、君の言う侑李君とやらは弟子が言うには弟の親友だったそうだ。けれどその弟は消えてしまい、弟子以外の全てからその存在を忘れ去られてしまった。はずなのだが、どういう訳かあの小童は記憶こそ無いもののその弟と関わりが……いや、弟子曰く弟の生まれ変わり本人らしい。……私から話せるのはここまでだ。お気に召したかい?」
何故弟が消えたのか、そして何故弟子は一目見ただけで生まれ変わりだと分かったのかは流石に言わなくても良いだろう。私も流石にそこまで彼女の傷に塩を塗りこんだり、特異な体質のことを如何にも怪しい相手に知られたくない。
そう思って少しぼかした情報だったが、どうやら彼は満足したらしい。
「ふふ…それが分かれば充分だ。君の名を聞いても良いかい?」
「…柊 弥琴だよ。他にも何かあれば弟子より私に聞きな」
名乗りながら、暗に弟子には何も言うなという言葉を付け加える。どうやら興味は私に移ったようだ。……と、そこまでなら良かったのだが。
「弥琴君だね。記憶した」
そう言いながら、突如現れた赤紫の煙霧に包まれ姿を隠す。その力の気配は紛れもなく邪気とよく似ており、煙霧が少しだけ晴れて見えた姿は先程までとは打って変わってとてもじゃないが人間とは言えない、青い肌に赤い瞳と黒白目、そして赤紫の角と先の尖った尻尾を持つ姿だった。
「ご厚意に感謝する。近いうち君の住まいにお邪魔するよ」
くすくすと笑いながら、そう言い残しては再び全身を煙霧に包まれていく。そしてそのまま煙霧は最初から何も無かったかのようにその場から消え去った。
「……はぁぁ、弟子は本当に厄介事に恵まれているねぇ…」
思わず盛大な溜息を吐く。
あの姿は、私の記憶が正しければ異国の邪鬼と同一の存在──悪魔の一種だろう。
勿論彼は異世界の者のようだし、この世界の邪鬼やそれに準ずる者達が「絶対に生き物とは相容れない」という理にも当てはまらない……とは思うが、それにしたって頭痛の種になりそうなことに変わりは無い。
「……確か、侑李君と言ったか」
小さく呟き、それから直ぐに歩き始める。
流石に元とはいえ長年大儺を勤めた身だ、看過は出来ないだろう。となればまずは、と弟子の待つ茶屋へと向かった。