芽衣編②(芽衣視点)松風芽衣は、所謂「お嬢様」という存在だった。
広い家、優しい母とその家族、更には芽衣を尊重する小間使い達。他にも母の父である祖父の知り合いらしい数多の商人が時折様々な贈り物を持って来てくれるし、同年代の中でも他の子供達にはいつも「芽衣ちゃん凄い!」なんて言われていた。
ただそんな芽衣にも唯一不満なことがあった。
──それは、父親の存在。
父は母と結婚し、松風家に婿入りした男だ。
そのせいなのか父は家に居るといつも祖父の傍にいた。笑顔を浮かべて、まるで機嫌を取るように。と思いきや、忙しいらしく数日家に帰らないこともあったし、芽衣と父親が二人で過ごした時間というのは芽衣の記憶の限り非常に短い。
だから、芽衣はそれが不満だった。
逆に言えば、突然の転機は好転の兆しに思えた。
少し不安気な顔をして母に伝えられたのは、天満という街に引っ越すということ。そこでは父親と毎日会えるということ。天満は沢山の珍しい物が集まる所ということ。その三つだった。その三つ、だけだった。
この時の芽衣は当然、不安なんて何も無くただ期待に胸を踊らせていた。
新しい街、新しい生活、新しい玩具。そのどれもが八歳になったばかりの少女の好奇心を刺激する。芽衣は、母の表情の理由なんて分かっていなかった。
けれど、そんな芽衣に待っていたのは期待を打ち破るもので。
まず、あまりにも遠い旅路。
最初は楽しかった駕籠も次第に苦痛となる。そして途中で寄った街では新鮮さに少し元気になったが、泊まる宿の小汚さと狭さにやはり気は落ちた。
次に、新しい生活。
五日程掛けてようやく辿り着いた天満の街だったが勿論芽衣はもう疲れきっており、それでも母のもうすぐで家だからという言葉でなんとか耐えていた。が、家だと言われた物は新築でも無いし商人として並な物。今まで広い屋敷で暮らしていた芽衣にとってそれは驚きであり、それから少し屈辱でもあった。
何より沢山いたはずの小間使いも共に来たのはたった二人だけ。芽衣の一番のお気に入りだった老婆はおらず、この二人も主に店の手伝い要員であって芽衣とはあまり遊んでくれないと知り、芽衣は落胆した。
最後に、珍しい品々。
確かに母から聞いていた通り、家近くの店には見た事のない物ばかり並んでいた。しかし、荷解きを手伝えず家の前で待っていた芽衣が同じく家の前で何やら書類を見ていた父に「あれ、欲しい」といつも母の家族に言う要領でねだってみれば、父はこちらも見ずに「…まだ玩具はあるだろう?無駄に使う金は無いからそれで我慢しなさい」と言うだけだった。
当然、引越し費用に新事業の設立。それから従業員の給料や、そもそも店が上手く行くか分からないという状況下、商人として慎重になることも出費は出来るだけ抑えたいと思うことも、正しくはある。だが父親としてはどうだろう。
現に商売のことなんてまだ何一つ分かっていない理由も分からぬまま芽衣は初とも言えるかもしれない父への甘えが無駄という言葉と共に淡々と突っぱねられ、落ち込むのも必然ではあった。
そんな、不満ばかりの新生活初日。
しかしそれはまだ終わらず、ある程度荷解きが終わった所で芽衣は母と共に父に連れられ挨拶回りに行くことになった。
勿論、父の狙いは娘の紹介……も一応兼ねてはいるが、本命は交渉をするにも幼い子供を連れている方が穏便に済むと思ったから。そんなことを芽衣は知る由もなかったが。
ともあれそうして連れられ、まずは近隣への挨拶を済ます。
しかし商人達は忙しく、あまり相手にされることも芽衣がいつものように可愛がられることも無い。最早芽衣の不満は留まる所を知らなかった。
その上、次の目的地は遠いらしく人混みの中を歩かされたしやっと到着した店の主人らしき母より若い女性とは何故か長話が始まり一向に帰る気配が見えない。……とはいえ、ここに来てようやく芽衣にとって幾つか良かったことがある。
それは、その店に白と黒の猫のような特徴を持つ妖がいたこと。そしてその妖の青年が、今日初めて芽衣に優しく微笑んでくれたことだった。
最初はあまりの背の高さと初めて見た妖に驚いて逃げてしまったが、再び目を合わせればにこりとしてくれた。
更には父親に怒鳴られ突然のことと「父様だっていつも品を触って見ているのに!」と不満が溢れ返りそうになっていた芽衣に、彼は優しい表情のまま芽衣の前に屈んで折り紙で作った綺麗な花を差し出してくれた。
「芽衣に、くれるの……?」
「貰って頂けますか?」
そう言って、また笑みを。
そのあまりにも穏やかな様子は、芽衣の不満を溶かすには充分だった。
「…うんっ!」
受け取り、手の中で咲く折り紙の花を見つめる。
けれどそれだけで終わらず、彼はまた懐から折り紙を……今度は鶴や船を象った物を取り出して芽衣に見せてくれた。
「他にもありますよ」
「すごいっ…!」
ここにいるのはもう、純真無垢な少女。
すっかり芽衣は頭から父親のことなんて抜け落ちて、まるで手品のように懐から綺麗な折り紙を出し続ける妖に夢中だった。
「好きなものを差し上げます」
「良い、の…?」
「えぇ。そちらの花とご一緒にどうぞ」
「ありがと、お兄ちゃん…!」
綺麗な鶴を受け取り、花と共に大事に抱える。
それからしっかり礼をすれば、彼はまた笑顔を返してくれた。
それは、知らない街に来て知らない者ばかりに囲まれた芽衣にとって、紛れもなく「元の街でのことを」思い出させる出来事だった。
それから数日。相変わらず父も小間使いの二人も忙しそうにしていたが、芽衣は少しずつ天満での生活を楽しむ余裕が生まれつつあった。
なんせ母は相変わらず優しいし、たまに少しなら珍しい物を買ってくれる。それに近所に住んでいるらしい歳の近い子供達も、芽衣の故郷の話に興味を持って聞きに来るようになった。果てには「白虎」と呼ばれているらしい例の妖から折り紙を二つ貰ったことを言えば、羨む者がいた。
戻って来た、愉悦感。
更に一週間を過ぎた頃には父の店も安定したのか、その日は初めて上機嫌な父に肩車をして貰い綺麗な料亭にも連れて行って貰えた。
──そんな日々が、芽衣はずっと続くと思っていた。
最初の変化は小さなこと。
働き詰めだった小間使いの一人がたまたま些細な失敗をし、けれどそれに父が怒り不機嫌だった。しかしそんなことを芽衣が知る訳もなく、帰って来た父に遊んで貰おうと声を掛けに行けば「疲れているのが分かるだろう!」と母と小間使い二人の前で怒鳴られた。その後に小間使いの一人に申し訳なさそうな顔をされたが、芽衣に意図が伝わる訳もない。
次に起きたのは、子供達の興味の変化。
子供とは良くも悪くも飽きやすい訳で、今までの芽衣であれば祖父の知り合いから齎される話題や玩具があったので話題が尽きることも無かったが、今は故郷の話か記憶を頼りに子供らしい語彙力で実家に置いてこざる得なかった玩具の話をするしか無い。そうすれば次第に子供達が話を聞きに来なくなるのは自然であった。
勿論それは芽衣を仲間外れにしようとした訳では無いのだが、芽衣はいつも親から「芽衣と仲良くしろ」と言われた子供達に囲まれていた。つまり、仲間に入れて欲しいなんて言ったことも無ければ、それを言う勇気も持ち合わせてはいなかった。
そして最後には。
またふつふつと湧いてきた不満達から脱するべく、自然と芽衣が頭に思い浮かべたのは例の「白虎」であった。
彼なら芽衣を見てくれる。尊重してくれる。お嬢様で居させてくれる。そんな、横暴とも言える幼い期待。
──けれどそれは当人に伝えることもなく散った。
「どうしたの?それ!」
「これ、白虎さんが選んで下さったんです!」
「えぇっ?!良いなぁ!」
折り紙の礼という名目で、母が買ってくれた和菓子の包み一つを祖父が買ってくれたお気に入りの巾着袋に入れて腕にぶら下げ彼に会いに行こうとしていた芽衣だったが、道中偶然聞こえた大人一歩手前くらいであろう娘達の言葉に思わず足を止める。
その時芽衣は、知ったのだ。
彼は決して自分だけを特別扱いをしてくれた訳では無いのだと。芽衣を「お嬢様」と呼び好きにさせてくれた、あの小間使いの老婆達とは違うのだと。
「……帰り、たい」
小さく、とても小さく、言葉と涙が零れる。
何不自由ない暮らしと、優しい者達。それが芽衣にはどうしようもなく恋しかった。そして父と離れることよりも、故郷から離れる方が余程辛かった。
だから芽衣は、走った。
衝動のままに「一人で行っては行けない」という言い付けを破ってただ故郷に帰りたい一心で天満の外に、無謀も分からず走った。
──そして、出会ってはいけないモノに出会ってしまった。
❖
芽衣が天満の外に出て少しして。
とぼとぼと俯きながら歩いていた林道で、ふと視界の端に光るものが見えたような気がした。
それを見て最初は勘違いかと目を擦った芽衣だったが、何度見てもやはり何かが光っている。だからそっと近づけば、それはどうやら石か陶器の破片のようで拾い上げてみれば芽衣の手のひらに収まる大きさ程度。そして光に照らすと深い緑色が反射して、思わず芽衣はそれに見惚れていた。
だからか、突然の声にも驚くだけで恐怖を抱くことは無かった。
『ね、君どうしたの?』
不意に少年の声が頭に響き、はっとしつつ慌てて周囲を見回す。けれど声の元は見つからず、気の所為かと思い始めた所でまた声が聞こえた。
『ここだよ。君の手の中』
「手…?……欠片?」
『うん。僕、悪い奴に捕まってこんな姿にされちゃったの。でも君が見つけてくれて、お陰でお話出来るようになったんだ。ね、君のお名前は?』
「え?え、あ、松風……芽衣…だよ」
すらすらと話す推定何かの欠片に、当然理解は追いつかない。けれどなんとか質問にだけ答えると、声は一層嬉しそうに声を弾ませた。
『芽衣ちゃん!よろしくね。僕は貂だよ』
「て、ん?」
『うん!ところで芽衣ちゃんはこんな所で何をしていたの?』
「……お家に、帰りたいの」
『お家?それってどこにあるの?』
「……遠く。すっごく遠くで…」
『え。じゃぁ今はどこから来たの?』
「今は……天満って近くの街。でも天満のお家は嫌だから、帰りたかったの……」
『そっかぁ、嫌なことがあったんだね』
「……うん」
『でも、今からの時間は邪鬼が出て危ないんだ。だから、今日は一度天満に帰ろう?それで、辛いことは全部僕が話を聞いてあげる!』
「……ほんとう?」
『勿論!なんせ芽衣ちゃんは僕の命の恩人なんだから、言うことは何でも聞くしいつだって芽衣ちゃんの味方だよ』
「味方……」
するりするりと、甘言が心に染み渡る。
気づいた時にはもう、芽衣は欠片にも少年の声にも疑問を抱くことはなく、心強さを得た気がして素直に来た道を戻り始めていた。
お陰で逢魔時前には天満に帰れたし、芽衣の姿が見えず近所を探していた母には少しばかり怒られもしたが。
「無事で良かった……」
そう言ってぎゅっと抱きしめる母に、芽衣は申し訳なさがありつつもどこか満たされる気分でもあった。勿論その気持ちは一瞬でもあったが。
「あのね、母様!これ見て」
「石…の欠片?芽衣、まさか何か壊したんじゃないでしょうね」
「違うよ、拾ったの。けどこれね、中から男の子の声がして!」
「はぁ……。芽衣、お母さんもお父さんも忙しいの。芽衣はもう八歳だから、良い子に出来るわよね?いつまでも嘘吐きだと大人になれないわ」
「え……ち、違うよ、芽衣は嘘なんて。ねぇ、貂、喋ってよ…」
予想だにしていなかった母の反応に、慌てて芽衣は石に縋る。けれど先までのことはまるで嘘のように、石は何も答えない。そうしているうちに、母は再び溜息を吐いてさっさと晩御飯の支度に行ってしまった。
「芽衣は…嘘吐きじゃないのに……」
小さく悲しげな声。けれどそれに答える者はいない。
やはりそれがどうしようもなく寂しくて、そして不満だった。
だからこそ、その日の夜に襖を隔てた隣の部屋から最近連日続きである父の責める声と母の謝る声が聞こえても、布団の中の芽衣は心配の気持ちは湧かずむしろ鬱憤は溜まるばかりだったし、手にした石から声が聞こえないことも尚更裏切られた気持ちだった。
「貂の嘘吐き」
明日、こんな石なんて捨ててしまおう。
密かにそんなことを考える。……しかし。
『芽衣、ごめん…ね』
「え、貂!?」
突然返ってきた苦しげな声に、思わずがばりと体を起こして石を両手で包みながら驚きの声を返す。そこには「今更」なんて気持ちは一切含まれていなかった。
「貂…苦しいの?」
『少し…ね。けど芽衣こそ…大丈夫?』
「う、うん。でも貂が急に喋ってくれなくなるから…」
『ごめんね、どうやら僕の声は芽衣にしか聞こえないみたいなんだ』
「え…?」
『きっと芽衣は特別なんだ。だから……僕のこと、助けてくれないかな』
「たっ、助けるって……どうやって?誰も信じてくれないのに…」
『大丈夫。この石と同じような欠片を全部集めてくれたら僕の封印は解けて、元の姿に戻れるんだ。そしたらみんなとも話せるよ』
「ほ、ほんと?」
『うん。でもそれまではどうか僕のことは内緒にしていて欲しいんだ。もし誰かに盗られたり捨てられたら…僕はずっとこのままだから……』
「わ、分かった!」
『ありがとう、芽衣。僕を見つけてくれたのが君みたいに優しい子で良かった』
「…えへへ。その代わり、元に戻れたら芽衣とずっと一緒に居てね?」
『勿論だよ』
子供らしい、無邪気な約束。
けれど石の声にどこか含みを持った笑みが含まれていることに、芽衣が気づくことは無かった。
それからというもの、芽衣はすっかりと元気を取り戻していた。
なんせ耳を傾ければいつでも石は話してくれるし、友達がおらず母も父の店の手伝いでなんだか忙しいらしく最近はずっと暇を持て余していたが、今は宝探しがある。
探してみれば欠片は何個か見つかったし、その度に石は芽衣を褒め讃えてくれる。少しずつ元気になる様が、芽衣のやる気を満たした。
そして何より、仮に何かあってふっと不満が湧いたってすぐに石の甘言が飲み込んでくれる。そこにはもう、寂しさはなかった。
──だからこそ、切望していた再会を果たしても芽衣は。
「芽衣さん」
今日もまた、石の欠片を探しに行く為こっそりと街から出ようとしていた所で不意に名前を呼ばれる。
そのことに芽衣はどきりとしつつそっと振り返れば、そこには先日会いに行こうとして叶わなかった人──白虎がいた。
「あっ…お兄、ちゃん」
予想外のことに湧き上がるのは、喜びよりも焦り。
咄嗟に芽衣は石を入れている巾着袋を自分の後ろに隠しながら、目を泳がせた。
「今日は一人でお散歩ですか?」
降りかかる問いに、思わず声が詰まりそうになる。
けれどそんな芽衣に優しい声が響いた。
『大丈夫だよ、芽衣。うんって言うんだ』
「う、うんっ」
唆されるまま、どちらに対してなのか分からない返事をする。けれど「上手く答えられた」という事実は芽衣を少しずつ落ち着かせて。
「母様も父様も、忙しい…から。でも芽衣は二人がいなくても平気なの」
ふっと湧いて出た言い訳は、虚勢なのか、はたまた本音なのか。少なくとも芽衣は口をついて出た言葉に一瞬戸惑ったけれど、すぐさま自分に心の中で言い聞かせていた。
(そう……だよね。母様と父様がいなくても……芽衣には貂がいるもん)
『そうだよ、芽衣。芽衣には僕が、僕だけがいるよ』
──心に。心の奥底に。どろりと甘く優しい声が、染み渡る。
「そうでしたか。引き留めてしまい申し訳ありません。ですが外は危険が多いのはご存知でしょうか?」
「……大丈夫だよ。芽衣、ちゃんと帰って来れるもん」
心配の声に、淡々と答える。
どうせ他人は自分のことを何一つ分かってくれない。分かってくれるのは貂だけ。貂しか居ない。だから。だから、どうせ。
「そうですか。芽衣さんは勇気があるのですね」
「え……?」
予想外の言葉に、影の落ちかけていた顔を上げる。
そんな芽衣にいつの間にかしゃがんで視線を合わせてくれていたらしい白虎はにこりと微笑んで、そして懐の中から丁度芽衣の手のひら程の大きさの黄色の鈴を一つ取り出した。
「私はあなたが怪我をしたり怖い思いをしないかが不安で…良ければ御守りとしてこちらをお持ち頂けませんか?強く振れば私のお友達が芽衣さんを守ってくれます」
「お兄ちゃんの、お友達…?」
突然の言葉と行動に、思わず差し出されるまま鈴を受け取る。そのことに石からは僅かな歯噛みの音がしたが、芽衣は気づくことなく手の中で小さく鈴を転がした。
──澄んだ音が、どこか温かく感じる。
「次は是非私も誘って下さい」
「う、うんっ」
一瞬ぼんやりしかけるも、白虎の言葉に慌てて顔を上げてはこくりこくりと頷いて返事をする。そしてそのまま、優しく微笑んでから去って行く白い後ろ姿を見送った。
「鈴……貰っちゃった…」
小さく呟く。それからまた鈴に視線を向けると、僅かに巾着袋が揺れるような感覚がして芽衣をはっとさせた。
『芽衣、大丈夫?』
「あ…うん。ね、貂。芽衣、ちゃんとお返事出来てたよね?」
『…うーん、次はって言うのは断った方が良かったかな』
「えっ?!ど、どうしよう……」
いつものように褒めて貰おうとした言葉に、少し困った声が帰ってくる。そのことに芽衣はさっきまでとは打って変わって酷く慌てながらぎゅっと巾着袋を握った。
もし、もしも、貂に嫌われてしまったら。
そんな不安ばかりが頭を巡り巡る。
今の芽衣にとっては、それが何よりも恐ろしいことだった。
……それを確認して、ほくそ笑む存在を知る由もなく。
『…まぁ大丈夫。会わないように気をつければ良いんだよ』
「お兄ちゃんに……?」
『うん。だってお仕事で忙しそうなのに邪魔しちゃ悪いからね』
「そっ、か……そうだよね」
出された助け舟、そして諭す言葉はすとんと腑に落ちる。疑問が、消えていく。
『それから、その鈴。持っててって言われたよね?』
「あっ、そうなの。凄く綺麗で──」
『でも無くしちゃ駄目だよね?あげる、とは言われてないし』
「え?あ……うん…」
『じゃぁ、鈴は預かり物だから無くさないようにお家に仕舞っておこう!』
「そう、だね。無くしちゃ駄目だもんね。ありがとう、貂!」
『芽衣の為ならお安い御用だよ。さ、今日はお家に帰ってまた明日来よう?』
「うんっ」
積み上がっていく、信頼。
芽衣は心の底から声を信じ、頼り、そして依存を膨らませて行った。扇動されていることも、思考を歪められつつあることも、気づかずに。
だって、芽衣は一人なのだから。
そしてそれは、不意な出来事で更に加速して行く。
翌日、芽衣はまた林道に向かい木々の根元にしゃがみ込んでは必死に欠片が無いか探していた。
しかし、突然の声がその手を止めさせる。
『芽衣、止まって』
「え?どうし──」
『しっ。誰か来る』
「……?あっ…」
石の声に釣られてそっと辺りを見渡す。すると曲がった道の先、天満の方から大きな箱を背負って歩いてくる人影が見えた。
「飛脚さんだ」
木陰に隠れつつ、小さな声で呟く。
それから、石探しを始めてから初の出来事を前にこの道を通るのは珍しいなぁと思い芽衣は呑気に眺めていたが。
『ね、芽衣。もしあの人が僕の欠片を見つけたらどうしよう』
「……え?」
初めて聞く不安そうな震えた声に、芽衣の不安と焦りが無性に掻き立てられる。そしてそれは話を聞くにつれ増大していった。
『だってとても綺麗だから。どこかに売られちゃうかも』
「お、お願いしたら譲ってくれる…かな?」
『大人はそんなに優しく無いよ。芽衣のお父さんなら絶対駄目って言うでしょう?』
「……うん。どう、しよう…」
最早芽衣までもが泣きそうな声になって、しかし飛脚はそんなことを知る訳もなくどんどんとこちらに近づいてくる。
迷う時間は、もう残されていなかった。
『……ね、芽衣。僕のこと、助けてくれるよね?』
「うん、もちろん!」
『なら、一緒にあの人を追い返そう!』
「え?でも……」
『道は他にもあるんだから、大丈夫だよ。やり方も僕に任せて。芽衣は、僕の言う通りにしてくれたら良いから。そしたら』
──これからも、ずぅっと一緒だよ。
まるで呪いのような言葉が、芽衣の足を動かす。
そう。何事も、言うことを聞けば良い。
正しいのはいつだって、彼なのだから。
そんなことを頭の中で反芻して、それから芽衣は指示されるがままに木陰から落ちていた木の枝を飛脚の背負う箱目掛けて投げつける。……それだけの、はずだった。
ぶちりと、嫌な音がする。
同時に飛脚が箱を縛っていた背負い紐は二つに分かれて地面に落ち、すぐさま箱は飛脚の背を離れて地面に叩き付けられた。
「ん…?あっ、あぁっ!!」
悲痛な飛脚の叫びが木霊する。
それから飛脚は慌てて箱に零れた荷物を掻き集め詰め込むと、泣きそうな顔をしながら箱を抱えて天満へと逆戻りしていった。
「あ……」
その背に小さく、罪悪感の混じった声が漏れる。
こんなはずじゃなかった。ただ音を立てて、驚かせるだけのはずだった。なのに。どうしよう。
そんな焦りが血の気を引かせる。
けれど、そんな時でも声の優しさは変わらなかった。
『やったね、芽衣!』
「て、貂…。どうしよう、やりすぎちゃった……」
『そんな事ないよ!芽衣は、僕を守ってくれたんだ!』
「で、でも」
『大丈夫だよ。だってただの枝で紐が切れる訳無いだろう?だから、あれはあの飛脚が結ぶのが下手か……紐が切れかけだったんだよ!むしろ街の近くで良かったと思わない?』
「それは……」
『芽衣は、僕だけでなくあの飛脚も救ったんだよ』
「芽衣、が…」
『うん!だからほら、これからも頑張ろうね』
「う、ん…」
どこか心が靄がかる。
けれどぎこちなくとも芽衣は、自分を肯定する為に頷くしか無かった。──その後に起きてしまったことも。
飛脚を追い返し、また石の欠片を一つ見つけてから家に帰ると、家の前の店で父が従業員である小間使いの一人をいつも以上に、そして店頭であるにも関わらず怒鳴っているのがちらりと見えた。
そのことにきょとんとしていると、芽衣に気付いたもう一人の小間使いがそっと芽衣に寄り、呆れたように……しかし僅かな希望を持って疑問に答えてくれる。
「実はあいつが配達を依頼した品が……突然紐が落ちちまっただのなんだので、運んでた飛脚が壊しちまって……」
「えっ……」
だが、予想外の答えは芽衣の背に冷や汗を流れさせた。
どう考えたってそれは先の飛脚で、つまり全ての原因は芽衣と石の声、いや、誰も声なんて信じてはくれない。だから悪いのは芽衣、だけ。
しかしそんな焦りに隣の男が気づく訳もなく。
「もうずっとあの調子で……これじゃぁ客が逃げちまって仕方ねぇ。大体飛脚が悪いってのに旦那もこう怒らんでも……。芽衣嬢様、申し訳ないんだが…ちぃとだけ旦那に声掛けてはくれませんか?あっしだとどうにも逆効果で……」
「で、でも、芽衣が……」
震えた声で、泣きそうな顔を向ける。
勿論芽衣は「悪いの」と言葉を続け掛けたが、小間使いの男はそんなことを予想出来る訳もなく実の父に怯える幼い少女を見てぎょっとし、それから慌てたように苦笑いを浮かべた。
「ま、まぁ大丈夫ですよ。あっしがどうにかしてみます。芽衣嬢様はお家で休んでて下さい」
そのまま有無を言わさず芽衣の背を優しく家の方に押して、不安そうに振り返った芽衣に虚勢の笑みを返す。
そんな彼に芽衣は戸惑いつつも、しかし助け舟なのは確かだと素直に家に向かった。
「はぁ。あいつ、辞めちまうかもなぁ。前にも旦那に大目玉喰らってたし……」
なんて呟きを微かに聞き取りながら。
「どうしよう……」
家は相変わらずの無人。それでも芽衣は真っ直ぐに自室に向かって、しっかり戸を閉めずるずるとその場にへたりこんだ。
ばれたらどうしよう。父様に怒られたくない。母様に怒られるのも嫌。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
そんな恐怖。それを感じる程に、芽衣はしっかりと己の行為を理解していた。分かっていた。けれど──
『やっぱり芽衣のお父さんは酷いよね。あんな風に怒ってもなーんの意味も無いのに』
「……え?」
『それにさっきの人も、芽衣に押し付けようとして……。あぁ可哀想な芽衣。こんな所にいたらそりゃ逃げたいって思うよね。芽衣は何も悪くないのに、こんな大人ばかりいる所は嫌だよね』
「て、ん…?」
呆れたような、けれど大袈裟な、捲し立てるような言葉。それは芽衣を戸惑わせるには充分で、その時初めて芽衣は石の声に対して僅かな違和感のような恐怖を感じた。だが、既に手遅れなのだ。
『大丈夫だよ、芽衣。僕が体を取り戻したら、芽衣を遠くに連れて行ってあげる。もうここには帰れないだろうけど……大丈夫だよね?芽衣は、あんな無責任ですぐに怒って芽衣をちっとも愛してくれない人達より、僕を選ぶよね?もし今日のことを話したらきっとあの人達は芽衣を嫌うけど、僕は芽衣を怒ったり寂しい思いをさせたりしないし、ずっと味方だから……芽衣も僕の味方だよね?』
刷り込むような言葉に、警鐘のような鈴の音の記憶が脳裏を過ぎった。けれど、何を躊躇うことがあるだろうか。
唯一の味方、唯一の友。それは紛れもない事実になってしまった。だから。
「う、ん」
ぎこちなく、それでも確かに芽衣は頷いた。心の中で「そうだよね」と自分に言い聞かせた。……もう、後戻りは出来なかった。
❖
それから毎日、芽衣は石を探した。
道を通る人がいれば、枝やただの小石なんかを投げつけた。そうすればみんな邪鬼だなんだと騒いで逃げて、それが少しずつ面白いと感じるようになっていった。
だって、大人はいつもあんなに怒ったりするのに子供より怖がりなのだ。その姿は滑稽としか言えないだろう。
けれど時々『今日は石探しをお休みしよう』と言われる時があり、その時は万が一石の欠片を商人が拾って売っていた時の為の資金を集めようと提案され、両親の部屋に忍び込んだ。父は金を、母は高価な宝石を、鍵のついた箱に入れている。しかしその南京錠に声の導くまま石の欠片を近づけると忽ち開いてしまうのだ。あとは見つからないように、ほんの少しずつだけ貰って、また鍵をしっかり閉める。
そんな日々を一週間ほど過ごせば、変化は如実だった。
どうやら林道でのことは天満の大儺が調査に行ったが、何も見つからず原因不明となり通る者はいなくなった。
次にお金が減っていることはまず父が気づき、そして母を責めた。だが母も宝石が無いことに気づいて言い返すも、父は相手にせず。しかし一日母と共に居ても減っていることを確認した父はその時共に居なかった芽衣ではなく、小間使いの内の一人……いつも失敗して怒られてばかりの男だと確信した。
「だから私は違うと言ったじゃありませんか!それより私の宝石はどこなの?!あれは、あれはっ……」
「えぇい煩い!今は先に穴埋めと信用回復の為に新しい従業員をっ……」
そんな喧嘩が聞こえてくる。
同時に芽衣には、石の笑い声も聞こえた。
「……貂、そんなに楽しい?」
『勿論だよ、芽衣。だって二人共全く芽衣を疑わないんだ!芽衣はもう二人が居なくても街の外に行けて、虎のお兄ちゃんの追跡も躱せて、それからお宝探しもこっそりするのもなーんでも出来るのに、二人は芽衣のことをこれっぽっちも見てないから気づけないんだよ。芽衣をまだ何にも出来ないと思ってるんだ!』
「そう、だね……。母様も父様も芽衣には全然興味無いもんね」
『そうだよ。それにあの辞めさせられた人。大人の癖に芽衣に縋っちゃってさ。芽衣のことを助けてくれたことなんて一度も無いのに!』
「…うん。怖かった……」
『あぁごめんね、可哀想な芽衣。僕に自由に動ける体があればあんな奴すぐに追い払ってやれたのに。欠片はもうすぐだから、あと少し我慢してね』
「うんっ」
微かな戸惑いはあれど、やはり彼の声は、言葉は心地良い。そんな安心感にも似た依存が完璧な物になるのも、あと少し。けれど芽衣がそれに気づく訳もなかった。
──あの日までは。
『芽衣、僕の欠片もあと一個だよ』
また何日か過ぎた頃、両親が家を出たのを見計らってからそんな声が掛かる。それを聞いて芽衣は嬉しそうに「うん」と返事をしながら巾着袋の中を覗き込んでいた。
中では石の欠片だけでなく、数枚の金貨や宝石も輝いている。
「ねぇ貂。最初は何がしたい?」
『そうだなぁ、美味しい物が食べたいかな!』
「あっ、そっか。ずっとご飯食べれてないもんね。じゃぁ芽衣が何か買ってあげるね!」
『芽衣が作ってくれても良いんだよ?』
「…芽衣、ご飯作った事ないよ」
『大丈夫。芽衣ならきっと美味く出来るよ』
にこりと笑った声が頭に響く。
だから芽衣も釣られて少し表情を緩めて、背後に気づかなかった。
「芽衣……?あなた、誰と話しているの…?」
声にハッとして振り返れば、確かに出掛けたはずの母が強い困惑の色を浮かべながら芽衣を見下ろしていた。まるで、おぞましいものを見るように。
「あっ…かあ、さま」
思わず声が裏返る。
いつもなら誰か来たりすると彼が教えてくれるのにと思いつつも、その場から動けないでいた。
そんな芽衣を、母は訝しむ。
そして──
「…!芽衣っ、その宝石!」
何をしていたのかと思い手元に視線をやれば、巾着の中に宝石と金貨があるのが目に付いた。それは紛れもなく最近必死に探していた物で。
そのまま、母は咄嗟に芽衣から巾着袋を取り上げようとした。そこには愛娘であることへの慈悲は無く、ただ怒りと失望だけを滲ませて。
『芽衣、逃げるんだ!』
「っ!」
石の声に、恐怖で固まった体が動き出す。
それから芽衣は必死に母の手を逃れようと、入口の襖とは逆方向にある縁側に向かって走り出した。とはいえ大人と子供、手の長さも足の速さも大きく異なる。だから芽衣は、同じく怒りと失望を感じて泣きそうになりながらも、巾着袋に手を突っ込み宝石を幾つか引っ掴むと振り向きざまに母へと投げつけた。
「きゃっ!」
「母様なんて大嫌い!!芽衣より宝石のことしか見てないんでしょ!!」
悲痛な叫びが、そして突然の斬られるような痛みが、母の手を迷わせる。
それは芽衣がそのまま庭に飛び出し、外に駆けて行く隙を作るには充分だった。
❖
「う、うぅっ……ぐすっ…」
静かな林の中、か細い泣き声が葉音に掻き消される。
それでも芽衣はしゃがみこんで膝を抱えたまま、一人で泣き続けていた。それくらい、母を慕っていたのだ。
『芽衣…』
「かあさまなんて、だいきらい……」
そう言葉にするも、涙と心の痛みは止まらない。
むしろどんどんと溢れていた。しかし。
『…ごめんね、芽衣。僕が油断していたから…』
「てんは、わるくないもんっ…。かあさまが……うぅっ…」
『あぁ、僕に体があれば守って上げれたのに…』
悲しげな声。その声を聞いて、ようやく芽衣は目をごしごしと擦り、そしてふらりと立ち上がる。
自身を軽んじた事を許せず悲しみに呑まれていたが、こうして貂を悲しませたことにはふつふつと怒りが湧く。どうしても芽衣にはそれが許せなかったのだ。
『……芽衣?』
「…かけら、探そ。それで、貂のこと信じてもらうの。それから父さまにも大嫌いって言って、芽衣はお家を出ていくの…」
『…そうだね、芽衣。そうしよう!二人を見返すんだ!』
「……うん」
涙ながらに決意をし、それから芽衣はまたいつものように石の欠片を探し始める。歪な笑みを浮かべる存在のことなんて、気づく訳もなかった。
そして。
「あっ、た!」
土に埋もれ掛けていた最後の一つをついに見つけ、喜びのままに天に翳す。やはり石の欠片は綺麗で、光の加減で色が変わる様子はまるで脈打っているようで──
『ありがとう、芽衣!』
声にはっとし、石を胸の前に下ろしながら芽衣は大きく頷く。悲しみも怒りも、すっかり薄れていた。
『さぁ芽衣、それを袋の中に入れて?』
「うんっ」
声に導かれるまま、芽衣は嬉しそうに顔をして巾着袋を開き、最後の石をそっと中に入れる。こうすれば、こうすればやっと……。
「……あれ?」
しかし待ち望んだ変化は何も起きず、巾着袋の中の石達はびくりともしない。その事に戸惑っていると、同じく……しかしどこかわざとらしく戸惑った声が聞こえた。
『ど、どうして!?全部揃ったはずなのに!』
「も、もしかしてまだ足りないの…?」
『そんなはず……あっ』
「貂?何か分かったの?」
『もしかしたら、さっき芽衣が宝石を投げた時…』
「あっ!一緒に投げちゃった……?」
確かにあの時の芽衣は、何も考え無しに掴んだ宝石を投げた。ならもしあの中に欠片が混ざっていれば、それは……。
「お家…帰らなきゃ……」
『そう、だね。でも大丈夫だよ。あの人達の事だしもう芽衣のことは忘れて仕事をしに行ってるかもしれないし、もし居てもまた宝石とかお金を投げて、その間に欠片を探すんだ。そしたら後のことは僕に任せて?』
「う、うんっ。そう、だね…」
どこか心に引っ掛かりを感じる。
けれどすぐに芽衣は迷いを払うように頭を振って、それからこっそりと家へと向かった。