『どうして泣いているの』『君も一緒に踊りませう』 ギラギラとしたミラーボールがフロアを照らしている。高いヒールにぴったりとした衣装を身に着けた女たちが腰を振れば、灯りに群がる虫のように男の集団が寄って集った。
道満はぼんやりとした頭でそんな景色を見ながら、サントリーオールドに口をつける。恵まれた身長と筋肉は、彼が高校生であることを周囲に見誤らせていた。兄ちゃんも躍ってこいよ、とバーカウンタのスタッフが気さくに声を掛けてくる。ひらひらと手を振ってその言葉をいなすと、道満はカウンタに肘をついて煙草に火をつけた。
口の中に溜まる淀んだ空気は呑み込む気になれなくて、かはっと吐き出した煙が端正な顔を覆う。大人はこんなものが旨いのかと怪訝に思いながら再度グラスを傾ければ、氷で冷やされた液体が喉を焼いた。
火のついたまま先端が灰の重みで落ちそうな煙草をどうしたものかと思案していると、どこからか伸びてきた指先がひょいっとそれをさらう。唐突に現れたその人物は道満から奪い取った煙草を躊躇なく自らの唇へと運び、細く長い煙を吐いた。
「大人ぶりたいからとりあえずマイルドセブンにした、というところか。初めて吸うのならテンダーあたりを勧めるがね」
きっちりと折り目のついた上品なスーツ。煙草の匂いと混じって薄く香るオーデコロンは、その男がもつ社会的なステータスの証明のよう。
道満は面白そうにこちらを覗き込んでくる男に向かって、面倒くさそうに呟いた。
「はァ、左様ですか」
「背伸びをするのは結構だが、自分の嗜好も理解していないのに吸っていては身体を壊すだけだ。ただでさえこういう場所では酒が回って吐く者も多いというのに」
そう言いながら、男は道満から奪った煙草を灰皿に押しつける。バーテンダーにジュースを頼むと、受け取ったグラスを彼に向けて差し出しつつ、そっと耳元へと囁いた。
「未成年だろう、おまえ」
「失礼な。とっくに成人です」
道満は拗ねたように唇を尖らせたが、受け取ったジュースには素直に口をつけた。柑橘の甘酸っぱい味がアルコールとタールの臭いでやられた舌に心地良い。
「そうか、それは失礼した。年齢不詳なものだからつい、ね」
男はからかうように告げると、二人分のコークハイを追加注文した。
「ウイスキーのロックよりかはこちらの方が飲みやすいと思うよ。ほら、乾杯しよう」
道満がおずおずとグラスをカチンと鳴らせば、男は楽しそうにそれを受ける。
「……何ゆえ儂に構うのです」
「うん? ナンパ」
「左様ですか。儂のような大男に向かって遊びの誘いなど、趣味が悪うございますな」
道満が警戒心を剥き出しにしてそう告げれば、男は軽快に笑った。
「冗談だ、そう噛みつくな」
男はぽんぽんと道満の肩を叩くと、コークハイを口に含む。男の佇まいはその顔とスタイルの良さも相まって最早一枚の絵画のようだが、唇から零れる言葉は見た目ほど甘くはない。
「親はうるさくないのか」
「ひ、ひとり暮らしです。大学生、ですので」
「へえ、そうかい。就職活動は進んでいるのかな」
「自分は受験組なので……あ」
あまりにも早い露呈に、道満は頭を抱えてカウンタへと突っ伏す。男はくすくすと笑いながらその頭を撫でた。
「可愛いねえ。もっとよく顔を見せておくれ」
「うう……嫌です」
「ほら、その愛らしい顔を見せてくれたらご褒美をあげよう。なに、簡単なことだよ」
男の指先が道満の顎を捉え、無理やり上を向かせる。素面であれば単なる屈辱に思うだろうが、アルコールとディスコクラブ特有の妖しい空気に呑まれた道満はぼんやりと男の顔を見つめ返した。切れ長の目と通った鼻筋が嫌味な程絵になっているその男は、見惚れる程に整った笑みを浮かべている。
「なぁに、少しダンスに付き合ってくれるだけでいい。悪いようにはしないよ」
「あ、ちょっと……」
男は道満の手を握ると、そのままフロアの方へと歩き出してしまった。靴の踵が床を打ち鳴らす音に我に返った道満は抵抗しかけたが、男の力は思ったよりも強い。それにこの雰囲気を壊すのも如何なものかと考え直し、手を引かれるままその背中を追った。
「そう緊張しないでいい」
男がダンスに誘えば、道満は身体を硬くしながらも拙くリズムを取り始める。それに合わせるように男もリズムを取りながら、道満の腰に手を回して身体を密着させた。
「うんうん、上手い上手い。初心に見えて結構遊んでいるのかな」
「ンン……」
「ははっ、揶揄っただけだというのに。本当に可愛いね」
道満の恥じ入る様子に満足した男は、その手を引いてターンを決める。道満は男の足を踏んではいけないと慌ててそれに続いた。周囲の華やかな女たちの視線を集めながら優雅に踊る二人だったが、道満の頭の中は混乱を極める一方である。
何故儂がこんなことを。
極論その手を振り解いて帰ってしまえば良いだけの話なのだが、ウイスキーと場の空気と、それから男のよく分からない色気に呑まれた道満は段々とそんなことどうでも良くなってきていた。
『Lookin' for some hot stuff baby this evenin'』
「ドナ・サマー。良い声だと思わないかい」
「はぁ、その……よく分かりませぬが」
道満は適当に相槌を打ちながら男の腰に手を回した。ぐっと身体が密着し、道満の筋肉質な身体に男の身体が隙間なく密着する。彼の柔らかな髪の毛が首筋に当たり、くすぐったさに思わず身を捩らせた。
『I want some hot stuff baby this evenin'』
「ふふ、くすぐったいね」
男は小さく笑いながら道満の耳元で囁く。鼓膜を震わす低音と、ふわりと香った男のオーデコロンに身体の芯が熱くなる気がした。
ホット・スタッフ。ああ、これが。道満は呆とした頭の片隅でそう思った。
『Gotta have some love tonight』
「困ったね。このままおまえを私の部屋へ連れ込みたくなってきた」
「あ、あの……」
道満は困ったように視線を彷徨わせる。どう答えれば良いのか分からない。
ごくり、と唾を飲んだ道満をぎゅうと抱きしめ、ぽんぽんと背中をあやすように叩いた男は、名残惜しそうに身体を離すと、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「何てね。そんなことしないよ。早くお家にお帰り」
「は……え?」
道満の身体をくるりと回してダンスの輪から遠ざけると、男はクラブの出入り口へとその体を押しやる。そして革の財布から札を一枚出すと、道満の手に押しつけた。
「楽しかったよ。これは交通費だ。気をつけて帰りなさい」
「あの……」
背を向けて手を挙げる男に、道満は叫ぶ。
「あの!」
男が無言で振り返る。道満は札をぎゅっと握りしめた。
「いや、あの……本当に、どうして儂なんぞに構ったのです」
道満の問いに、男は少し考えてから答えた。
「泣いているように見えたから」
道満はその返答にぽかんとした顔をする。その表情が可笑しかったのか、男は口元に笑みを湛えた。
「何があったのかは聞かない。その年代はこういう場所で痛みを忘れようとするものだ。もう少し大人になったら、一晩だけで構わないからまた私の相手をしてくれると嬉しいね」
言うだけ言うと、彼はひらりと身を翻して人混みの中へと消えていってしまう。道満は店を出ると、ふらふらとタクシースタンドへと歩いていく他なかった。