Recent Search
    Create an account to secretly follow the author.
    Sign Up, Sign In

    ROKU

    @rorokka6

    進捗とか力尽きたもの

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 7

    ROKU

    ☆quiet follow

    別軸マシュレイ本進捗 冒頭
    付き合ってない20歳×22歳
    未来捏造、オリキャラが含まれます。🔞込の本は来年出る予定。

    マシュレイ「これをやる。使え」

    温度の無い言葉と共に、手渡されたハンカチ。ウサギ柄のそれは他寮の友人に渡して以来 見ていなかったものと同じで、ただしあの時より真新しかった。それに前回は、包装用の袋になど入っていなかったし。

    「怪我人にやったと聞いた。もっと早く言え」
    「せびるもんでもないっすよね」
    「詫びの印に渡したんだ。速攻で失くされたら意味がねえだろ」

    そんなものなのかな、よく分からない。春の風物詩である木の下、淡い色をした花弁が降る中で、マッシュは首を傾げる。とぼけた絵柄のハンカチに対し、似ても似つかない険しい顔をした目の前の人が、真っ直ぐにこちらを見据えた。譲る気は無いのだろう、何がなんでも受け取れという圧を感じる。
    彼は、みんなにこうなんだろうか。真面目で律儀、頼れる先輩であることは間違いないにしても、手製のハンカチを何度も贈ってくれる人はそう居ない。自分の卒業式という、どちらかといえばプレゼントを貰う側の日に、わざわざ呼び出してくるような。マッシュだけではない、みんなに?

    「…フィンくんとかにも、あげてるんすか」
    「やってねえ。お前だけだ」

    弟は治癒魔法を使えるが、お前は無理だからな。
    淡々とした返答は、まさにその通り。けれど欲しい答えではなくて、もっと。そうじゃない。

    「どうして僕にだけくれるんですか」
    「だから魔法が」
    「怪我を治せる人ばかりじゃないでしょ。なんで僕だけなの」

    畳みかける口調に、自分で驚く。まるで責めるような、拗ねた子どものような問いかけとなってしまった。しかし固い表情筋は変わらず、無表情に見つめ返してくるのだからたちが悪い。今日で最後の漆黒のローブ、背中に鷹の紋章を飾る彼のそれが、強く吹いた風で翻った。同時に舞上がった花びらが、金と黒の髪を隠してしまう。

    「レインくん」
    「…オレの勝手だろ」

    違う、聞きたいのはそんな台詞じゃない。被さった髪で顔が見えない、かと思えばまた花が邪魔をする。ちら、と覗いた月色の眼、そこに映る何かを確かめたいのに。

    「レインく、ぶお」

    強引に近付くべく踏みだした途端、花弁の塊に襲われた。立っていられない、まるで彼に寄らせないような動きに瞬くと、視界が完全に覆われる。夥しい桜の花、独特の香りの奥に聞こえた声は、なんと言われたのか。そもそも本当に、彼のものだったか。

    「マッシュ・バーンデッド。オレは、───」

    肝心なところが聞き取れない。無理にでも花を薙ぎ払おうとした途端、桜色の景色はぶつんと途切れる。
    次に瞼を開けた時には、丸太で出来た天井しか見えなかった。背中には柔らかいマットレスの感触、上げかけた腕はタオルケットの中、布が絡まった状態で引っかかっていて。

    「………夢?」

    嗅ぎ慣れた木の香り、簡素な自室は少し手狭なくらいで特に異常は無い。小鳥の囀りが聞こえる窓からは、春と呼ぶには幾分強い日差しが差し込む。窓の外の青々とした森には、淡い色をした花など見当たらない。もちろんマッシュが寝転がる、自分の寝台の周りには一枚も。
    つまり、あれは夢だ。学生の頃の、ずいぶんと懐かしい夢。

    「…そんなベタな…」

    桜に攫われて、相手の顔が見えなくなる。まるで少女漫画のような演出に、自分の脳内のことながら恥ずかしくなった。
    確かに“あの日”、桜は咲いていた気はする。けれどあそこまでの花弁やいたたまれなさは無かったし、その他の要素の何よりも濃く、金と黒の髪が焼き付くなんてことは。

    『マッシュ・バーンデッド』
    「マッシュ~、起きとるか? 朝飯が出来たぞ~」
    「! 起きてるよ」

    フラッシュバックした呼称に、階下から発されたレグロの声が重なる。桜と金の残像がぱちんと弾けて、慌ててシーツから起き上がった。とりあえずと手を伸ばした先、ベッド横のサイドテーブルに積んだ洗濯後の服たちから一式を抜き取って、素早く身なりを整える。ふと思い立って、残りの服もクローゼットに押しこんでから、レグロの待つリビングへ向かう。
    クローゼットを閉める拍子、棚の奥に置かれた件のハンカチが見えたことには───気付かないふりをした。


    マッシュ・バーンデッド(二十歳)は、パティシエ見習いである。
    イーストン魔法学校に入学後一年、十六歳の時に世界を巻きこむ戦いの主核となり、魔法界を救ったと讃えられてしばらく。平々凡々とは言えないが、一年生の頃と比べれば穏やかな学生生活をその後過ごし、魔法不全者としては初の卒業生となった。フィンにレモン、ドットやランスといった友人たちも揃って迎えた卒業式の光景は、今でも鮮明…多分、鮮明に思い出せる。式後に行われたプロム、そこで出された高級スイーツブランドのクロカンブッシュとか(半分以上食べてしまった。申し訳ない)、「三年間の集大成です!」とレモンが作ってきた巨大シュー子ちゃんシューとか(調理室のオーブンより大きかった。どうやって作ったのか未だに謎であるし、マッシュ以外誰も食べようとしなかった)、実家で催したプチパーチーでの自作シューとか(じいちゃんの顔型シューがいまいち上手くいかなかった。生首とランスは呟いていたがじいちゃんは感動して泣いてくれた)。フィンやドットが聞いたら、「自分たちはシュークリームの添えものか」とツッコまれそうな記憶ではあると思う。けれど間違いなくどれも美味しくて、周りの人たちがいてこそよりそう感じたのだと、少しの偽りも無く言える。家族と友だち、大切な存在と食べる大好きなシュークリーム。マッシュにとっての幸せ、その象徴たるものを卒業後の将来に選ぶことは、至極当然の流れであった。

    「プレーンとイチゴの、ふたつずつください!」
    「はい。苺クランチのトッピング無料サービス中だけど、どうする?」
    「とっぴん?」
    「んーと…苺のクリームが、ざくざくってなる。濃ゆい苺の味も増えるよ。今ならなんと、お金が変わりません」
    「する!ざくざく!」

    商品が並ぶカウンター、高さのあるガラスケース越しにようやっと頭を出す少女の顔が、外の夕焼けより眩しく輝く。ケースの中からシュークリームを出し、目の前で苺クランチを注入してやると、より煌めく幼い瞳が可愛らしい。カウンターの内側で、小さなお客を待たせないよう素早く動きながら、菓子店の制服を着たマッシュは口角を緩めた。
    “Jorcy´s Puff”は、マーチェット通りから一本外れた路地に立つ小さな菓子店だ。主力はシュークリームとクッキー類、両手を広げたくらいの幅のショーケースに全商品が収まりきりそうなほど、品揃えはけして多くはない。しかし丁寧に作られたクリームと、小麦本来の香りを引き出したシュー生地が話題を呼び、開店から三年の今 人気店の地位を確立している。世界でも指折りの飲食店激戦区で、新参の店に人足が絶えないのは喜ばしいことだ。開店当時、朝一番に並んで出来たてのシューを頬張ったことを思い出しては、感慨深くなるのも必然だろう。まああの頃は、ここで働くとは考えていなかったけれど───商品を詰めた紙箱を少女に渡し、「ありがとっ」と笑う顔を見て思った時。マッシュの背後、販売スペースと調理場を仕切る扉が開いて、快活な声が飛び出してきた。

    「いらっしゃいミシェル! 今日もおつかい?」
    「そうだよ! おにーちゃんにイチゴ入れてもらったの! あ、おかねですっ」
    「まいど」
    「良かったねえ。気をつけて帰るんだよ、知らない人に付いてったりしないで!」

    明朗な女性の声に、常連客の少女───数軒先の美容院の娘───が「うん!」と頷く。マッシュに硬貨を渡し、入退店を知らせるベルを鳴らして去っていく小さな背を見送ると、店内に静寂が落ちる。かと思えば隣から聞こえたため息に、マッシュは目線だけ動かした。

    「どうかしたんすか」
    「いや…あの子、すごく喜んでたじゃん? 発注ミスもこういう風にプラスに出来れば、損にはならないんだと思ってさ。はあほんと、この瞬間の為にお菓子屋やってる…」

    一本線の走る頬を緩め、うっとりと呟くのは調理場から出てきた女性だ。白茶色の髪を一つにまとめ、眼鏡の奥の鳶色の瞳は忙しなく瞬く。歳の頃は二十代後半、華奢な体にマッシュと同じ制服を纏った姿は、一見アルバイトのようにも視える。されどその頭上に白いコック帽を被っていることが、この場における立場の違いを顕していた。彼女の名はリリー・ジョルシー、“Jorcy´s Puff”の店主であり、マッシュの直属の上司である。
    出会いはもちろん、シュークリームだ。三年前、魔法学校の最上級生となってなお、マッシュは日々美味しいシュークリームの探索を行っていた。その中で新規開店の話を聞きつけ、オープン初日にリリー手製のシューを食べに来たところ、あまりの美味さに衝撃を受けてしまった。素朴で優しい感触であるのに、鼻に抜けていく香りが今まで食べたもの、自分で作ったものとは比べものにならない。加えて滑らかでくどくない、それでいて忘れ難い印象を残すクリームとの相性も完璧で、とにかく完成度が段違いだった。それから足繁く店に通い、時にはフィンたち友人と共に、時には学内でもマッシュが食べていたことで、学生にも自然と店名が浸透。自作とゴブリンシュークリーム、更にジョルシーのシューがあのマッシュ・バーンデッドの好物!と何故か学校新聞に載せられたことまであり、意図せずしてリリーには感謝された。───パティシエとしての修行を経て、借金してまで作った店だけど、受け入れてもらえるか不安だったの。君が最初に買いに来てくれたこと、店の名を広めてくれたこと、本当にありがたく思ってる。お礼をしてもし足りないわ───開店から半年後、店を訪れたマッシュにそう言ったリリーは、涙ぐんですらいた。たまたま一緒にいたドットには「テメェばかり美女に好かれやがって」と何故かキレられたが、大好きなシューの生みの親にそんなことを言われて、嬉しくないはずがない。今後お代はなしでいいとまで言われたが、それは丁重にお断りした。その代わりお願いが、と口を開いたマッシュの言に、リリーもドットも仰天していたのを覚えている。

    「卒業したらここで働かせてください、なんてねえ。マッシュくんにああ言われた時はたまげたけど、頑張ってきて良かったって同じくらい思ったわ。…まあ、シュークリーム作り以外はなかなかだけども」
    「それは良かった。僕のミスも浮かばれますな」
    「反省はしなさい」

    ぴしゃりと叱られ、ごもっともですと頭を下げる。
    将来の夢はパティシエ、自分の作るもので人を幸せにしたいとぼんやり思ってはいても、それまでのマッシュに具体的な進路は見えていなかった。趣味で作っていたとはいえ、調理師免許を持っている訳でも、関連の学校を出ている訳でもない。また店を持ちたいと考えていても、その為の資金が無い。とはいえ踏みとどまっていても、何も始まらないのだ。まずは尊敬出来る師のもと、シュー作りの基礎から見直せないか。出来れば店の経営方法なんかも学ばせてもらえると有難い。金銭面は最悪、他にバイトをしてどうにか。聡くはない頭脳をひねり、これでも必死に考えた結果だ。駄目でもともと、玉砕覚悟で告げた要望をリリーは意外にもあっさり受け入れてくれた。むしろうちでいいのかと問う声に、食い気味で是非と答えたのが始まり。ワンオペはそろそろきつかった、男の子でしかもマッシュくんなら店の用心棒にもなるし有難いわ。そう言って給金まで出してくれているリリーには、本当に頭が上がらない。卒業後戻った実家から、毎日店に通っては技術と商売を学ぶ。“あの”マッシュ・バーンデッドが店頭に立っていると聞いた客が押し寄せ、一時期は目が回る忙しさだったが、三年も経てばさすがに落ち着いた。今では元々の常連客に加え、新規の客にもたまに驚かれるくらいだ。リリーの指導により、手製のシューも徐々にクオリティが上がっている。そろそろ店頭にマッシュくんのシューを出してもいいね、と言われていることも嬉しい限りだ。問題があるとすれば、絶望的に低い計算と事務能力ゆえに失敗が多いことだろう。しかしそれすらもなんとか、半泣きのマッシュを励ましつつ、頼れる店主は解決策を示してくれる。突発的な苺フェアも、元々はマッシュが発注量をミスしたからだ。入社したてよりはマシになったとはいえ、失敗すれば当然落ちこむ。けれど「大丈夫」と力強く言い、有言実行で解決してくれるリリーはすごい人だ。明るさも豊かな表情も、何もかも似ても似つかないけれど───少しだけ、“あの人”に似ている。
    優しい上司に夢を追える場所、そこで働けること。レグロともまた暮らせるようになって、父親も喜んでいる。町の人々はほとんどいい人であるし、学生時代の友人たちとも頻繁に会える。あの頃のような大事件も無い、穏やかな理想の生活。魔法不全と罵られた時、何よりも望んだ平和な世界だ。この生活が好きだと、心から思っているのに。
    なにかが足りない、満たされない。そう感じるのは何故なんだろう。

    「さ、もう十七時半になるよ。閉店準備」
    「合点承知」

    一瞬物思いにふけっていたことは、気付かれなかったらしい。確かに店の時計は定時を示していて、窓の外も夕方のオレンジがかった光が広がりだしていた。五月の日は長いほうと言えど、油断していると時の経過は速い。早く取り掛からねばと、いそいそとカウンターから出た。
    内側で杖を振り、レジの精算を始めたリリーを背にして、窓のスクリーンを閉めていく。カーテンより力加減が難しく、何度も破壊してしまっては修繕魔法で直してもらったものだ。最初から魔法を使ったほうがいい、またはやらなくていいとマッシュを締め出さず、仕事を与えてくれたリリーの懐の深さには感謝するしかない。おかげで今ではスルスルと、問題なく上げたり下ろしたり出来るようになった。ちなみに扉に関しては、未だに押し戸か引き戸か迷うのだが───クビにはされたくない一心で、慎重に毎日確かめながら開けているのは秘密である。
    今日も今日とて、件の出入口の扉に手をかけてから、ノブをゆっくりと回して押す。カチャ、と軽やかな音を立てて開く様に安堵し、ふふんと鼻を鳴らした。まあこんなもんですわ、と誰に言うでもなく呟いては、一歩外に出る。扉の外側にかかっているプレート、OPENと提示されたそれをひっくり返したら、また中に戻って作業だ。いつもの手順を頭に浮かべつつ、半分ほど体を外に出した時、店前で立ち止まった人物の足が見えた。お客だろうか。

    「すみません、今日は閉店で」
    「ちょうどいい」

    短い低音に、思わず停止した。
    無表情を動かさないまま、マッシュはばっと顔を上げる。ひっくり返しかけたプレートが、手から離れてカランと音を立てた。
    人が行き交う夕焼けの町、無条件に郷愁を誘う景色の中で、その人の金髪がきらと光った。対となる夜色の髪が風に凪いで、アザの走る端正な顔にかかる。ちらりと見えた耳で輝くピアス、石の透明感にも負けない不思議な色をした瞳が、立ち尽くすマッシュを見据える。きっちり着込まれた神覚者の制服が、感情の読めない無表情と調和していた。記憶より服が馴染んでいると思うのは、年数が経って糊が取れたからだろうか。
    いや、そんなことはいい。どうして彼がこんなところに?

    「……レインくん。お久しぶりです」
    「マッシュ・バーンデッド。お前に頼みがある」

    単調さが持ち味の声音は、語尾が少し震えた。表情筋は多少動いているはずだけれど、筋肉の動作以上に顔に熱が上がってきていると感じる。筋トレでもめったにこうはならない、久方ぶりに赤くなった顔と戸惑いは、夕陽が隠してくれているよう願う。目の前に立つ、三年以上会わなかった相手は眉ひとつ動かさないでいるのに。自分だけが揺れているなど、覚られたくなかった。
    レイン・エイムズ。学校の先輩であり、親友の兄であり、現役の神覚者である男。
    マッシュの初恋の人が、そこにいた。



    おかしやのおにーちゃんはいつもやさしい。せかいをすくった人なんだって、だからみんなにやさしいのね。たくさん入れてくれたイチゴ、ママもきっとよろこぶわ。
    「ママに買ったのかい。素敵だねえ」
    ママのおたんじょーびだからね、ママのすきなものをかったの。あなたもお店に行ってみたら? ああでも、もうしまっちゃったかな。
    「大丈夫。もっといいものを、貰うからね」

    いひひ。



    きっとあれが、恋というものだったんだろう。ぼんやりと緩く、しかして確実にマッシュがそう思ったのは、レインが卒業してしばらく経った頃。
    無邪気な淵源との戦いの後、マッシュは一躍時の人となった。学内においては特に、男女問わず寄ってくる人間が一気に増えたと言える。現金なものだとは思うが、特に顕著だったのが女子生徒からの告白だ。アドラ寮内に留まらず、レアンにオルカ・学年をも超えて彼女にしてほしいと言い寄ってきた少女たち。昼休みに放課後、休憩時間に休日と、隙あらば好意を伝えようとしてくる姿に、マッシュが引いてしまうのは早かった。今まで出来るだけ接触を避けていたくせに、急に手のひらを返されたのだから仕方ないと言いたい。アンナ以外の人間などみなそんなものだ、あまり真面目に受け取るなとランスに忠告されてからいくらかマシになったが、一時期は人間不信になりかけた。いくら自己肯定感が高くとも、至るところでギラギラした視線に晒され続ければこたえる。レモンの行動で慣れていると思っていたが、彼女とはまた種類の違う強烈なそれには、かわせるようになるまで半年ほどかかった。僕そういうの興味無いんで、すみません忙しくて。まるで何かの勧誘を断るように、そう繰り返しては逃げるだけになったマッシュを、ようやく少女たちは追いかけ回してこなくなった。それまでにフィンが胃を痛めたり(傍にいた時マッシュ目当ての女生徒に吹っ飛ばされそうになり、邪魔ならそう言ってよおとよく泣いていた。しかし彼もそれなりに告白を受けていたことをマッシュは知っている)、レモンが黒魔術を修得しかけたり(マッシュくんに付く悪い虫を一掃します!と眼がキマっていた。半日かけての説得でなんとか断念させた)、ドットが嫉妬して爆発しかけたり(本当にテメェばっかりモテんだもんな!と耳元で怒鳴られて鼓膜が破れそうだった。マッシュにキレたりレモンにアタックしている間、何人かの女生徒からの視線をスルーしてしまっていたと本人は気付いていない)、ランスのシスコン度が上がったりと(入学当初からとにかくモテたのでスルー術を心得ていた。というか妹について語り出すと周りは勝手に離れていくので、マッシュもアンナの尊さについて語ればいいと真顔で言ってきた。不採用)色々あったけれど、なんとか平和な日々を取り戻したのだ。無邪気な淵源と戦った時よりも、精神的には消耗したかもしれない。嫌われるよりはいいが、関心を寄せられ過ぎるのも考えものだと思った。
    そもそも恋人とか恋愛とか、そういうものに全く興味を持たなかったマッシュからすると、女生徒たちの行動は理解不能だった。誰かと一緒に居たいと思うのに、その人の有名さや功績を第一にすることは違う気がする。家族や友だちより深い関係、もしかすると誰より長い時間を共にするかもしれない相手を選ぶなら、もっと強烈な。幼い頃出会ったシュークリーム、今もこよなく愛し続ける大好物のように、絶対に忘れられない要素が無いと───そう考えると、自分にもひとり。そんな人がいたと思い立ったのは、二年生も半ばの時だ。
    出会い方としては、ロマンチックでもなんでもない。攫われた友だちを助ける為、敵陣に乗りこんでいる真っ最中だったのだから当然だ。シュークリームで栄養を補給していたら、いきなり遭遇した彼に怪しまれた挙句 串刺しにされかけた。しかし綺麗な人だな、こういう人は魔法までかっこいいんだと思ったことは確か。攻撃をやり過ごすと、ようやく名前を訊かれて。顰め面の中に納得の色が浮かび、丁寧に頭を下げてくる直前 きらりと光った瞳。どこかで見た配色の髪、柔らかそうなそれが線の走る頬にかかる様すら絵になると、次の言葉を発す直前に思った。厳しい顔つきに反し、差し出されるハンカチの可愛らしさ。咄嗟に疑問を投げかけてしまった時、襲ってきた無言の圧にすら心臓が高鳴ったのだから、相当重症だったのだ。───戦いの名残で、体が高ぶっているだけだとスルーしてしまったけれど、きっとあれは。外を窺えない地下の空間、松明の灯りを映した瞳は、まるで月のように輝いて見えた。飾らない言葉と低い声音を受けて、その場を立ち去ってからもなお、彼のことは忘れられなかった。要するに、一目惚れというやつである。
    彼がレイン・エイムズという名で、マッシュたちの寮の監督生であり神覚者、そしてフィンの兄であることは後から知った。はじめてレインくんと口に出した時、じわりと胸があたたかさを帯びて、首を傾げたっけ。死刑にされかけたり暗殺を図られたり、なにかと狙われる自分をたびたび庇ってくれることは、単純に嬉しかった。家族でも友人でもない、少しだけ歳上で強く凛とした人が、マッシュの生き方を認めてくれる。厳しい上に怖いけれど、寮生やウサギ、自分の信念といった守るべきものを確かに持っている姿に、マッシュは自然と目を奪われていた。
    しかしそれが、何という感情から来る行動なのかは分からなくて───気付けば、あの日を迎えていた。今朝夢に見た、レインが学校を卒業した日だ。
    顔を貸せ。卒業の式典を終え、涙ぐみながら交流していた卒業生・下級生たちの間を抜け、レインは話しかけてきた。兄の卒業に号泣していたフィンを含め、多くの人から熱い抱擁を受けたのだろう。普段よりよれた制服、ずり落ちかけたローブを直しつつ近付いてきた彼に、マッシュは素直に頷いた。連れられて行った学校の端、早咲きの桜の花が開く木の下で受け取ったのは、出会った時と同じウサギ柄のハンカチ。どうして僕にくれるんですか、本当に理由はそれだけですか。偽りのアザを描かなくなった、素のままの顔で問いかけたものの、マッシュの質問にレインは答えてくれなかった。現実は夢とは違う、桜吹雪ではなく彼を探しに来た卒業生たちによって、レインはすぐにプロムへ連れていかれてしまった。もういいのか、ああ、とかわされる短いやりとりを彼らの背中越しに聞いて、最後にちらと寄越された月色の眼差しだけを見る。立ち尽くすマッシュを一瞥し、直ぐに逸らされた視線はもう戻らない。そしてマッシュも引き止めなかった。…手に握ったピンク色のハンカチの存在が無ければ、現実とは実感出来なかったかもしれない。
    その後、マッシュの自宅で開いたシュークリームパーチーでも、二人にほとんど会話は無かった。実家にやってくるなりレインは野ウサギを追いかけていってしまったし、マッシュはホストとしててんてこまいだったのだ。甘い匂いが終始漂う中、パーチーは大変盛り上がったが、終わる頃には神覚者たちは大半が帰っていて、レインも例に漏れなかった。仕事があるとは分かっていたけれど、もう少し居てくれても。…他人に対して初めて強く感じた、寂しいという感情。友だちとの外出、その終わりにやってくる静けさへのそれとは異なる、不満を混ぜこんだもの。シュークリーム以外には思ったことがない、執着と呼べる欲。片付けを終えた後、マッシュが自室の鏡で見た瞳に映っていたものは。まさに、告白をしてくる少女たちと、同じものだった。
    ああ、なるほど。これが恋かと、呆れるほどぼんやり思った。…こんなものが。だとしたら、女の子たちはすごい。自分には出来ない、こんな想いをあの人に伝えちゃいけない。鏡の中の男を見て、そう呟いたのが三年前のこと。
    時が経ち、二人はシュークリームの香りが漂う空間で。また、向かい合っている。

    「“ラフエルフ”。聞いたことはあるか」

    木製の戸に嵌め込まれたガラス、そこから覗く夕陽が金色の髪を眩く照らす。出入口以外のカーテンは閉めたが、唯一外と繋がる光が彼に差すのを見て、マッシュはぱちと瞬いた。

    「らふぇ…? ラフェ、カフェラテ?」
    「無いならそう言え」
    「ごめんなさい。ないです」

    さっぱりです、すみません。鋭い視線と厳しい声音、端的な言葉に条件反射で謝ってしまうのは、学生時代の名残だ。あの頃より凄みを帯びた気がする、しかし向かい合って座っても明らかに自分より薄い肩に、不思議な感覚を覚えた。ああ違う、レインくんはほとんど変わっていない。自分が成長したのだと、その瞬間に理解した。
    お前に頼みがある、神覚者としての依頼だ。淡々とした声の並びを直ぐに理解出来ず、固まってしまったマッシュを動かしたのは、カウンター内からのリリーの指示だった。いやだ剣の神杖様じゃない、マッシュくんに御用? 入って頂いたら。突然の神覚者来訪に慌ててはいるものの、判断の早い店主に促されハッとした。とりあえず中にどうぞと言うと、レインは無言でマッシュの横をすり抜け店内に入る。通り過ぎる際、間近に見た端正な顔とピアスをつい目で追ってしまったけれど、彼は気付いたか。カウンター前の小さなイートインスペース、二脚の椅子とテーブルだけが並ぶそこにポンッと現れた紅茶と茶菓子を見ていたようだから、多分それは無さそうだ。お召し上がりください、私は裏におりますのでお気になさらず。笑顔でそれだけ言い、マッシュに目配せをしたリリーは、本当に厨房へ向かいドアを閉めてしまった。自分は未だ状況を把握しきれていないのに、置いていかれた気分になる。マッシュの心境を知ってか知らずか、レインは片方の椅子にあっさり座ると、目線だけで「座れ」と促してきた。三年ぶりなのに挨拶もなし。ここが主戦場である自分より偉そうな───立場的にはそりゃ偉いんだろうけど───態度の彼に、文句のひとつも言ってやりたい。しかし気の利いた台詞が浮かばず、諦めてマッシュも向かいの椅子にかけた。
    昔は人を煽るのが上手いと、よく言われたものなのに。変わんないですね、忙しいっすか、今朝たまたま夢に見たんですよ───どの言葉もふさわしくないように思え、正面にいる人と目を合わせるのがやっと。普段は誰にも物怖じしない、我ながら図太いほうだろう性格がすっかりなりを潜めている。そのことに困惑するマッシュの前で、レインは滔々と“話”を始めたのだ。
    卒業式の日、マッシュの問いを流した時と同じ声音で。

    「大枠で言えばエルフ───妖精の一種だ。耳が長ぇ人間型の存在、だが基本的に並の魔法使いより魔力の高い奴らと考えればいい」
    「え、え、えーと」
    「“耳が長ぇでかい妖精”」
    「耳が長くて大きい妖精。はい」

    エルフという言葉だけなら、学生時代にも聞いたことがある。レインの口ぶりからして、おとぎ話に出てくるような可愛らしいものを想像すべきではないのだろう。小鬼を巨大化させた感じ…?とマッシュが頭に思い描くと、レインは長い脚を組み直した。

    「エルフ自体、魔法使いを見下している節がある種族だ。それでも神覚者には一目置いているのか、現在までのところ人間との均衡は保たれている。友好的とは言えねえが、お互い干渉しないよう線引きしている訳だ」
    「…じゃ、こっちから関わる必要もないっすね」
    「そのはずだった。“ラフエルフ”の連中がいなけりゃな」

    吐き捨てるような言い草と共に、顰められていたレインの眉がより剣呑さを帯びる。ぐっとシワが深くなった眉間を見て、マッシュは「らふ?」と首を傾げた。

    「一口にエルフと言っても、様々な種類がいる。体長が虫ほどのフェアリー、森の木々に擬態して暮らすフルドラ、原種と主張するアルヴ。この他にも特徴で分ければ数十に及ぶが、別に覚えなくていい。ラフエルフは耳以外の見た目は人間と大差ねえが、常に気味の悪ぃ笑いを貼り付けてやがる。全員がだ」
    「それはちょっと怖い」
    「人間との交流は少なく、種族だけで辺境に住んでいるくらいだ。大体の人間が遭遇する機会は無く、これまで魔法局としても接触してこなかったが───そうも言ってられねえ事態になった。子どもの失踪事件は把握してるか」
    「一応は」

    レインが言う事件とは、最近立て続けに起きている行方不明騒ぎのことだろう。たしか二ヶ月前、両親との買い物帰りに子どもだけが消えたというのが始まりだった。家族で談笑しながら歩いていて、道の角を曲がった途端 親の間にいたはずの子どもがいなくなっていたとか。その後も最初の事件とは全く関係の無い家族、あるいは一人で外出した子どもが突然消えてしまうことが、僅かな期間の間に五回以上起きていると聞いた気がする。犯人もいなくなった子供たちも未だ見つかっておらず、マーチェット通りにもどことなく不安の空気が落ちているのは感じていた。閉店間際にやって来た幼女、ミシェルにリリーが呼びかけていたのもその為である。

    「現在までのところ、二ヶ月間で失踪した子どもは九人。直近では一週間前、祖母と散歩していた男児が消えた。祖母は当時、男児に玩具を買ってやろうと先に店へ入ったが、振り返ると子どもはいなかった」
    「気に病んでるでしょうね」
    「孫から目を離した自分のせいだと、首を吊りそうな勢いだ。だがその祖母が、それまでの被害家族とは異なる証言をした」

    ───孫のほうに振り向こうとした時、笑い声がした。いひひ、と。
    ───あれはラフエルフだ。間違いなく奴らの笑い方で、魔力だった。

    「祖母は若い頃、異種族の特性に迫る記者をやっていたらしい。ラフエルフにも一時期接触したことがあり、声を聞いて記憶が蘇った。その後魔法警察が検証した結果、現場には確かにラフエルフの魔力が残されていた」
    「魔力って残るもんなんだ」
    「魔力量の大きい者であり、かつその場で魔法を行使した場合数時間は残存する。八人目までにも残っていたはずだが、人間と関わりが薄い種族だ。証言を受け、比較する資料を倉庫の奥から引っ張り出し、ようやく照合出来た。…残存魔力については、イーストンでも習うはずだが」

    厳しく付け足された一言に、マッシュは自分のぶんのカップを慌てて口に運んだ。柑橘と深い茶葉、香り高いアールグレイがふわと舌に乗って、気まずい心を潤していく。全然覚えてないとはまさか言えず、言葉を止めて睨んでくるレインに「冷めちゃいますよ」と誤魔化した。

    「じゃ、そのラフエルフ? さんたちに、警察が話せばいいんじゃないすか」
    「もう話した。これまで関わりが少なかった種族という理由で、魔法警察と警察に関わりのある神覚者が拠点に赴いたが…最初に言ったように、人間を基本下に見ている連中だ。…こちらの人選ミスもあり、捜査への協力を取り付けられねえまま撤収した」
    「ほお」

    マッシュが勧めた通り、レインも話しながらカップを口に運んだ。飲み物を含んでいるのもあるだろうけれど、先までより歯切れの悪くなった話に大体察する。自分たちこそが一番、人間なんてと笑ってくるような種族。そこにプライドの権化で、言っては悪いが頭の硬い人間がもし赴いたとしたら、衝突してもおかしくない。
    レインは明言しないだろうが、マッシュが思いついたとある神覚者は魔法警察出身だと、以前ドットから聞いた。いい人なんだぜと友人は言っていたけど、今でもあの眼鏡の人物と分かり合える気はしない。もしかしてラフなんとか相手にも、砂をぶちこむとでも脅したんだろうか。さすがにそこまでは無いと思いたい。

    「だが、証拠が連中を示している以上、協力もとい調査は不可欠だ。局が再度依頼した結果、女王の誕生記念式典に参加するのであれば、交渉の機会をやると回答があった」
    「女王?」
    「連中のトップだ。…加えて、交渉に来る人間の代表にも女王から指定があった。それがオレだ」

    かちゃん。ソーサーにカップを戻す手が跳ねて、大げさな音が上がった。表情は変わっていないと思うも、動揺が手元に表れすぎる。
    女王というのにも馴染みが無いのに、その人がどうしてレインくんを? 口に出さずとも、マッシュの疑問を拾ってくれたらしい。マッシュとは反対に静かな動作でカップを置いたレインは、「理由はオレも知らん」と低く言う。次いで月に似た瞳がこちらを捉え、感情の読めない光が閃いたものだから、一瞬息を呑んだ。

    「そこで、本題だ。マッシュ・バーンデッド、オレの恋人役になれ」
    「……はい?」

    なに言ってんだこの人。
    今までの流れからは想像もつかない、およそ彼に似つかわしくない単語が聞こえた気がする。しかし当人は固まったマッシュを無視して、表情を変えない。

    「式典、つまりパーティーに招待されたのはオレだけだが、単独での参加は他の神覚者に反対されている。部下か同僚を付けろとな、だがそれはラフエルフ側が応じねえ。先の交渉で、相当魔法使いに警戒心を抱いたらしい。実際に子どもを攫っているなら、後暗さもあるだろうが」
    「いや、ちょっと、それで何でこいびと」
    「同行者を付けたいと局が依頼した際、一人だけならいいと回答があった。“神覚者以外、かつ剣の神杖の恋人なら構わない”と」

    一気に話して、レインは小さくため息をついた。置いたカップをまた持ち上げ、こくと液体を飲みこむ。その動作を見つめるマッシュの前で、再び口を開いた。

    「ふざけた提案だが、飲まなければ向かえねえ。神覚者は除外、部下を付けるにしても一人では、有事の際に対応出来ない可能性がある。全く馴染みの無い奴に、こんなことを頼む訳にもいかねえ」
    「なるほど。最強の僕が護衛につけば、レインくんも皆さんも安心。そういうことっすね」
    「テメェで言うのもどうかと思うが…間違ってはいない」

    呆れたようにレインは言うけれど、事実そうだ。説明されればしっくり、いや完全にとまではいかないが経緯は理解出来る。
    ただ、どうしても気になることは。

    「訊いてもいいですか」
    「何だ。報酬なら出す、金でもシュークリームでも構わん」
    「や、そこじゃなくて。…僕が恋人役になって、レインくんはいいんですか。本当の恋人さんは」
    「いない。そういうもんには興味がねえ」
    「…あ、そう」

    そうなんだ、良かった。口に出しかけた言葉を、紅茶でぐっと流しこむ。ともすれば冷たく聞こえるレインの言い草は、マッシュをひどく安心させた。
    ───安心か。やっぱり僕はまだ、この人が。

    「第一、恋人役にお前の名を挙げたのはオレだ。一部反対意見はあったが、ライオさん含む過半数の神覚者の賛成を受けてここに来ている」
    「誰が反対したか分かるな」
    「何か言ったか」
    「いえなんにも」

    またしても例の人物がちらつくが、頭を振って打ち消す。誰に何を言われようと、レイン自身の提案という言葉だけで嬉しかった。
    けれど、同時に迷いも生まれる。…学生時代も今も、きっとマッシュの気持ちに気付いていないこの人と、行動していいんだろうか。よりによって恋人役なんて───でも自分以外の誰かがその役を務めたら、それこそ耐えられない。何より子どもたちも心配だ、無事に助けたい。でも。
    慣れぬ苦悩で俯くと、頭頂部に注がれる視線を感じて。瞳を細めたレインが、静かにこちらを見つめていた。

    「…見ねえ内に成長したな。学生の頃は、難しい話にはすぐ混乱してやがったのに」
    「もうハタチですし。お金の勉強とかもしてるんで」
    「してなけりゃ困るだろ。背も、十センチは伸びたか」
    「七センチですね。体重は十キロ増やしました」

    どうやら、マッシュの変化を感じていたらしい。実際、彼と学び舎にいた頃は一七一だった身長は、今は一七八。体重も日々の筋トレと成長期が重なり、体格的には一回りがっちりしたようにしか見えないだろうが、八十キロ近くまで増えた。腕が太くなり過ぎると調理がしにくい、制服も入らなくなってしまうので、これ以上大きくならないようキープ中だ。顔立ちや髪型がさほど変わらない為、童顔にそのガタイはシュールだとドットに言われたことがある。好きで童顔な訳ではない、髭だって人並みに生えてくるのに。
    あまり変わっていないと思ったが、レインは少し髪が短くなったようだ。男らしくも繊細な頬骨に、金と夜色の髪が柔らかくかかっている。体に馴染んだ神覚者の制服が、丁寧なようでどこかぞんざいな彼の所作を、正しいものとして纏める。レイン・エイムズという男、鋼の心を持つ実直な神覚者。その性質を惜しげも無く晒す佇まいに、マッシュの迷いはより深まった。これが単純な戦いなら、決めあぐねたりしない。

    「時間が経つのは早いな。…こっちの話も、急だが明日の夜がパーティーだ。問題ねえようなら、昼には移動することになる」
    「え、明日?」
    「子どもたちの為だ。頼めるか」

    真摯な眼と低い声に、頷いてしまいそうになる。協力するべきなんだろう、間違いない。でも少なからず彼に、清純とは言えない想いを抱いている自分が、その役を担っていいのか。しかしここで断れば、事件解決に猛進する彼は別の人間とそこへ向かう。それは嫌だ、でも。
    恋を知る前のマッシュなら、鼻で笑いそうな迷いが消えてくれない。レインがカップを置く音、陶器同士が触れ合う音すらも急かしているように思え、冷や汗をかき始めた時───閉店と掲げたはずの店のドアが開けられ、真っ青な顔をした女性が入店してきた。
    レインが立ち上がり杖を構える、しかしただ事ではない様子の女性を見て、マッシュは「待って」と彼を制した。

    「近くのお店の方です。どうしたんですか」
    「ミシェルは、ミシェルが来てない!? ここに行くって言ったきり、全然帰ってこないのよっ」
    「え。…三十分くらい前に、シューを買っていきましたけど」
    「それってこれ!?」

    かなり焦っているんだろう、普段は温厚で明るい美容院の店主が、鬼気迫る顔で何かを見せてくる。馴染みのある箱、開けると中には崩れたシュークリームが二つ。溢れんばかりのイチゴのトッピングは、紛れもなくマッシュが施したものだ。笑顔の女の子が、喜んでくれた。

    「…これは、どこで」
    「す、すぐそこの脇道。あの子が帰ってこないから、心配して探したらこれだけが…ミシェルはよく、あそこで野良猫と遊んでいて」

    語気が弱くなり、涙声に変わった母親。言葉を聞いた途端、マッシュを押しのけたレインは店を飛び出していた。立て続けなドアの開閉、大声と騒がしい音に驚いたのか、「どうしたの」とリリーも厨房から出てくる。泣き崩れる女性にギョッとしているらしかったが、「お母さんをお願いします」と言えば伝わったようだ。カウンターから出て素早く女性の肩を抱く上司に礼を言い、マッシュもレインの後を追った。
    夕暮れだった町も、すっかり日が落ちている。街灯は点いているものの、四つか五つの子どもが出歩くには危険な暗さだ。…話をしていたばかりで、そんなタイムリーな。悪い予想は、歩いて数分もしない路地の入口に立つレインの手によって、確固たるものになる。

    「ケイソクモ。この場に残る魔力を照会」
    「かしこまりましたクモ」

    レインが呟くと、建物の間の薄暗い闇に、どこからともなく宙吊りのクモが現れる。マッシュが初めて彼と会った時、その場にいたクモだ。相変わらずのキンキンした声が、数秒も経たずに「照会完了」と言う。

    「この路地に残る魔力は、魔法使いの子どもが一割。あとの九割はラフエルフのものと合致しましたクモ」
    「九割? 人さらいの妖精は九人ってこと?」
    「魔力量が多い者の魔力のほうが、場に強く残るんだクモ。単純に子どもの九倍は魔力を持つラフエルフがいたって話だクモ、そんくらい分かれクモ」

    漫画みたいな作画のくせに、詰り方は嫌味なお局じみている。マッシュがじとりと睨むと、追い払うような仕草をしたクモは一瞬で消えていた。そっちがいなくなるのか、いやそんなことより。

    「マッシュ・バーンデッド。これが最前線だ」

    路地を見つめ、マッシュに背を向けたままのレインがぼつりと言う。冷えた怒りが低い声に滲んでいて、子どもがあてられれば泣き出しそうな迫力だ。振り返った瞳は街灯を反射し、声に劣らない殺気を放つ。

    「オレに協力するかしないか、今すぐ選べ。出来ねえなら」
    「します。協力」

    告げられずとも伝わる怒り。圧されずにいられるのは、マッシュもまた頭に来ているからだ。浮ついた感情が一時的に消し飛び、数年ぶりにムカムカする。───それが犯人にか、煮え切らなかった自分にかは分からないけれど、結論はひとまず後でいい。
    白い制服の胸元を叩いて、マッシュは宣言した。

    「恋人でもなんでもやったりますよ。行きましょう、カフェラテの国」
    「……ラフエルフだ」

    どう動くかもさっぱりだが、自分にしては気合い十分。ただしやたら平坦な声に、僅かばかり不安を覗かせたレインの声が被さる。オレも人選ミスか、と微かに聞こえた気がしたが、空耳だと思うことにした。

    こうして、二人の時間は動き出した。
    初恋を抱えたままの男と、真意を全く見せない男。危うい均衡を保つようで、どちらかに崩れていきながら。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💖💖👍👍👍
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works