福音は三日後に 謎の金属生命体による侵略行為をATFと名付けられた組織が退けてから凡そ一年が経った頃、突如アオ家の電話が鳴り響いた。
携帯電話の普及に伴い多くの家庭から固定電話が失われてはいたが、古くからこの周辺の農家の纏め役の様な物を担っていたアオ家では未だ固定電話を引いたままにしていた。
液晶画面に刻まれた息子の名前に、随分と珍しい事もあるものだと思いながら受話器を取る。
「はい、もしもし」
「母さん?」
受話器越しに響いた息子の声は何時もに比べて少しばかり硬く響いた。
一昨日の夜にテレビのニュース映像の中で見掛けた息子は、何時もと何ら変わらぬ様子で居る様に見えた。
発足したと言う新規TS部隊の訓練を見守る息子の顔は、真剣そのものではあったが、昔から変わらない年齢不相応な落ち着きを纏っていた。
だが、世界を救ったATFの中でも特に著しい活躍をしたと言う息子が、英雄としての忙しい日々を過ごして居る事は嫌と言う位に知っていた。
「どうしたの? 何だか疲れてるみたいだけど」
「……ここ数日、少し忙しくしてて。けど、後一週間もすればちょっと纏まった休みが取れる様になってるから……」
気遣う声に苦笑交じりの笑みを零すイサミの声は落ち着いた色をしている。
どうやら額面通りに受け取っても良さそうだと密かに安堵しながら、それでも念の為の確認をする。
「そう。なら、ちゃんと休めるのね? ご飯はちゃんと食べれてる?」
「食べてる。忙しくて自炊する様な暇は中々無いけど、リュウジさんが気を使って色々作ってくれてるから……」
柔い口調に頷きながら、相変わらずうちの息子はリュウジさんと仲良くやっている様だと安堵と呆れと綯い交ぜになった様な心地を抱く。
息子の言うリュウジさん事サタケリュウジは、一番最初はイサミの兄の友人としてこの家を訪れた。
大らかなイサミの兄と、年齢よりもずっと大人びた大人しいリュウジは一見水と油の関係の様に見えて、その実酷く相性が良かった。
三日と置かず家を訪れる優しくて人当たりの良いリュウジに幼いイサミが懐くのに時間はそう掛からなかった。
高校を卒業するのと同時に陸上自衛隊の高等工科学校へと入学し、幼いイサミを置いて出ていった実の兄の代わりに、優しいリュウジお兄ちゃんをイサミが実の兄同然に慕う様になるのはある種必然の様なものだった。
そして、兄を事故で失ったイサミが、同じ様に目の前で兄の死を目の当たりにしたリュウジに依存する様になるのも。
兄を喪ってから、リュウジがこの家を訪れる度にべったりと彼に張り付いて漸く安堵した様な顔をするイサミを、支えて立ち直らせたのはリュウジだった。
本来ならば親である自分がそれをしてやらねばならなかったのだろうが、あの頃のイサミが縋ったのは他の誰でもないリュウジだった。
恐らくは、イサミにとっては兄を、リュウジにとっては友人を共に目の前で失ったリュウジだからこそ、自分と同じ傷を抱えている人だからこそ、イサミはリュウジに縋ったのだろう。
親友の後を追う様に或いは追い越す様に防衛大学に入学し、自衛官として働き始めたリュウジと、兄の後を追う様に、或いはリュウジを追う様に、イサミもまた防衛大学へと進んだ。
それを止める事は出来なかった。
兄を喪った頃の弱く脆い幼さを捨て去り、剣道部のエースとして成長したイサミは、ほんの少しの危うさを残してはいたが揺らぐ事の無い真っ直ぐな眼差しを宿していて、そんな彼の選択を止める事などは出来なかった。
防衛大学に入り、自衛官となってから既に七年。
お盆や正月と言った折に触れ帰省する息子は、徐々に大人び、去年出会った彼は既に一端の男の顔をしていた。
そして、その傍らにはリュウジが居た。
イサミが幼い頃と変わらぬほんの少し手を伸ばせば届く距離。
幼いイサミが転びそうになった時、何時だってリュウジはその大きな手でイサミを抱き留めてくれていた、その頃と変わらぬ距離で。
幼馴染の、兄の様な弟の様な、そんな関係に更に上司と部下と言う関係が加わり、少しだけぎこちなさが滲みつつも、変わらぬ穏やかさと甘やかさがそこにはあった。
それを、ほんの少しだけ危うく感じた。
だが、常に傍らで支え合う様な距離で寄り添う二人を、眩しいとも思った。
お互いに何処まで分かっているのかは分からなかった、少なくともイサミの方は、まるきり自覚なんてしていない様に見えたが、二人が二人ともに互いに惹かれ合っている事には直ぐに気付いた。
そしてそれに気付いたのは自分だけでは無かった。
布団に包まって眠れない夜をごろごろと過ごしていた所で、傍らで静かに眠っているとばかり思っていた夫が苦笑交じりにこちらに呼び掛けて来た。
そして、その夜、二人は自分達の抱いた感覚を分かち合い、そして、何があっても自分達の可愛くて大切な息子の味方でいてやろうと約束した。
あの約束は未だ引き続き継続していく事になりそうだ。
「相変わらず仲良くしてるのね。……けど、リュウジ君はイサミの上司でしょう? あんまりそんな風に甘やかして貰ってても良いの?」
「……うちの隊は割とその変が緩いって言うか、隊全体が家族みたいな感じだから。リュウジさん以外も結構気を使ってくれてる。……ありがたいなって……」
「そう。それは良かった」
うちの隊と呼んだ時に滲んだ柔さは、ほんの少しだけリュウジに向けるのと似た色をしていた。
イサミが訓練の為にハワイに旅立つ前にリュウジがこの家に来た時、イサミには聞こえないタイミングで「あいつは必ず護りますので」とそう言ってくれた言葉は、今も現在進行形で護られているようだ。
「……で、本題なんだけど。……来週の木曜から三日程、家に帰ろうかと思って」
「家って、うちの事?」
「そう。……そっちの都合が悪かったらまたタイミングずらすけど」
伺う様に投げかけられる言葉にカレンダーへと視線を転じる。特にこれと言って用事は無い。
三日と言わず四日でも五日でも幾らでも滞在してくれて構わない。
「そんなに休めるの?」
「……ここ最近結構忙しかったから、休む様にって……」
溜息の様に吐き出された言葉に思わず吹き出してしまう。
「休めって、リュウジ君の命令?」
「……違う。……もう少し上の、ATFの時のリュウジさんよりもっと上の階級に人から、流石に働きすぎだから批判が来る前に休ませろって……」
リュウジ君みたいに甘い人がもう一人いるのか。それとも、そう言われる程にこの可愛い息子は疲れ果てているのかもしれない。
英雄として祭り上げられるのをテレビの液晶越しに見つめた時にも抱いた複雑な感覚にちくりと胸が痛んだ瞬間、
「だから、俺もリュウジさんも来週いっぱい休みが与えられて……」
「……リュウジ君も休むの?」
「そう。……どっちかって言うと、俺よりもむしろリュウジさんの方が忙しいから、きっと疲れてる筈なんだけど……」
へえ、と頷きながら、その顔は愚か名前すら知らない上官に心の中でのみ頭を下げる。
「……だから、リュウジさんも連れて帰るから、食事は二人分用意してて貰えるかな? ちょっと兄貴の墓参りに行こうって話になって……」
漸く仕事にも一段落ついたから、兄の墓参りに行きたいと言い出した息子の声に、先程までとは異なった硬さを感じた。
強いて言うならば緊張した様な色。
つい一年程前に生死を賭けるような戦いに巻き込まれた、その時の慌ただしさと、その後の目の回る様な日々に、やはり疲弊しているのだろうかとそう案じつつ受話器の向こうの声に耳を傾ける。
「取り敢えず、二、三日滞在する事になるとは思うんだけど」
「はっきりしないの?」
「折角だからリュウジさんの実家にも寄ればって言ってるんだけど、寄らないって言うから一先ずは三日間ずっとうちに居るんじゃないかって、……けどやっぱり、折角帰るのなら顔くらい見せてあげたらって」
「成る程。でもあそこはお互いに放任な所もあるし、余り他所様の事情に口出ししないのよ」
「分かってる」
リュウジと彼の両親は、アオ家とは異なり、余り馴れ合う様な関係では無いが、決して仲が悪い訳ではない。
だが、心配そうな声に、おや、と思う。
これまで、イサミがサタケの家庭の事情に口を出す事は無かった。
家と距離を置く様な素振りを見せるリュウジをもの言いたげな瞳で見つめている事はあっても、それでも。
もしかしたら、少しはあの二人の関係に進展があったのかもしれない。
「そう言えばうちには何時位に来るの?」
「リュウジさんが先に兄貴の墓に行ってからうちに行きたいって言うから、多分三時位になると思う」
「分かった」
何時もならば、この家の仏壇に挨拶する事はあっても墓まで足を運ぶ事はしない。お盆の時期でも、命日が近くても墓までは行かない。
この家に来て、仏壇代わりに飾っている在りし日の兄の写真を見つめて、ゆっくりと穏やかな時間を過ごすだけ。
「……リュウジ君に、お土産とかは絶対に要らないから、兎に角気を付けて来てねって伝えておいて」
「無理だよ。……母さんがそう言い出すだろうってもうお土産準備してたから。そう言う変な所、用意周到なんだ、あの人」
「……困った子ね」
ふ、と笑みを含んだイサミの声は何処までも柔い色をしていた。あの人、と告げるその声に含まれた甘さに、思わず笑みが零れる。
「……リュウジ君に、来てくれるのを楽しみにしてるって伝えて」
「うん」
歓迎の意を露わにしてみせれば、酷く安堵した様な声を漏らす息子に、果たしてここまで分かり易い子供だっただろうか、と少し呆れつつ、最初に滲んでいた緊張の色が消えている事に安堵する。
「ああ、そうだ。リュウジ君に食べたい物とかあったら、教えてって伝えておいて」
「分かった。リュウジさんに聞いてメッセージ投げとく。……じゃあ、また木曜日」
「本当に気を付けて来るのよ」
うん、と柔く耳元で響く声を聞いて受話器を降ろす。
ソファに凭れていつのまにか淹れたらしい緑茶を片手にこちらの様子を気にしている夫に思わず笑みを返しながら、歩み寄る。
「イサミ?」
「うん。リュウジ君連れて木曜日にこっちに帰って来るって」
「ふうん」
淹れたばかりの緑茶を差し出してくれるのを有難く受け取り、ゆっくりと一口嚥下する。
「……先にお兄ちゃんのお墓に行ってからこっちに来るんだって」
「へえ……」
美味くも不味くもなさそうにずずっと音を立てて緑茶を飲むのを横目でちらりと見つめる。
ごくりと喉が動いて口の中の液体が無くなったのを確認すると、漸くそこで再び口を開く。
「そろそろ『ご挨拶』に来るかもね」
「……へ、え……」
「駄目ですか、お父さん?」
んぐ、と喉から詰めた様な音が漏れるのに背中をさすってやりながら、揶揄う様に問い掛ける。
「まさか。……ただ、まあ……寂しい様な嬉しい様な、……ちょっと複雑だけど」
肩を竦めてそれからゆっくりと今度は美味しそうに緑茶をすする。
「……イサミは子供の頃からずっとリュウジ君が大好きだし、……リュウジ君もイサミを大切にしてくれてるし……二人が選ぶなら反対する理由はないさ。……でもまあ、確定じゃあないんだろ? ぬか喜びになっちゃいけないから、あんまり期待はしないように」
噛んで含める様に告げる夫に頷きながら、けれども昔からこの手の勘は外した事は無かったのだと告げるべきかを少しだけ悩んで、けれど、その言葉を緑茶で飲み下す。
イサミが、リュウジ君があの二人が幸せならそれで。
そう思いつつも、それでも、手放す事を寂しく感じる気持ちは分からないから、確定じゃないと言いつつも既に巣立ちを見守る気持ちになって寂しそうな顔をする夫を宥めるべく俯く夫の肩に甘える素振りで擦り寄った。