ラスカルくんちゃんと てる子の小話「ちょっと失礼するわね」
てる子はラスカルの隣に移動すると、おもむろに彼女を抱き上げた。そのままトスン、と優しく自身の膝の上に乗せる。
その間、ラスカルは驚いた顔をしつつも、なされるがまま。抵抗などは一切なく、警戒もしていない。心配になるほど てる子に身を預け、それでも信頼はされていないのが分かる。
ただ、流れに身を任せた。それだけのように てる子には思えた。
深い色を湛える髪にそっと触れる。
少し乱れているから荒れているのかと思っていたが、その感触はとてもやわらかい。よく手入れをされている犬か猫に似た手触り。
初めて見た時、とても小さな子だなと思った。見た目もそうだが、雰囲気も。
その印象を強めるように、膝の上の彼女はとても軽い。本当に存在するのか不安になるほど。
どさくさに紛れ触れた首筋は、細かった。
華奢だなんて優美な言葉で表せられるものではなく、それはまるで、砂でできたお城。辛うじて固められてはいるものの、崩れるのも崩すのも容易くて。
「意外とやわらかいんだねぇ」
ほがらかにラスカルが言う。
「太ってるってことかしら?仕事柄、体型には気をつけてるのだけど」
「ごめん、違うよぉ。なんて言うのかな……そう、同じ匂いがするんだ。安心するって言うのかな?」
彼女が首を傾ける。それに合わせてサラサラとうごく髪。砂のように、こぼれるように。
ラスカルは続けた。
「包み込まれてるみたいな……うん!お布団だね、この感じは」
良いことを思いついた時の、子どものような声音。
褒められているのか、いないのか。少なくとも嫌がられていないのが、てる子にとって救いだ。
「お布団、ね。人生の恋人ってところかしら」
「コイビト?そうかもねぇ」
クスクスと笑うラスカル。
その口調はどこか拙く、そして、ゆらゆらと小さく揺れはじめる。揺れに合わせて髪が動く。繊細に。ほろほろと。
崩れゆくであろう彼女を引き留めるように、てる子はラスカルを引き寄せた。
何の抵抗もなく、ラスカルは てる子に身を委ねる。さながらリクライニングシートだ。
「眠いのなら寝てしまいなさい。誰も咎めはしないわ」
「でも、君は仕事中だろう?」
「ええ、お店も営業中。隅の席とはいえ騒がしいかもしれないけれど、許してね」
「それは、だいじょうぶ……なんだけど」
幼い子のように目をこする仕草。余程眠いのであろうことが伺える。
「気になるのは料金かしら?それとも、アタシのこと?」
「……どっちもだよ。僕は、あまりお金を持ってないし、君の仕事の邪魔になるようなことは、したくないし」
一所懸命に絞り出される優しさ。
てる子はシートベルトのようにラスカルを抱きしめる。本音は布団みたいに包み込みたいけれど、ここでは少し、難しい。
「そうね……これもアタシの仕事のひとつ。でもお金のことは気にしなくて良いわ。サービスしてあげる」
「でも、お店に来て、寝てしまうだなんて」
「失礼、だなんて思わないで。ここはお客様がお客様らしく過ごせる場所なの。もちろんアタシ達キャストもね。お金のことはどうにでもなるわ」
「でも……」
「安心できるのなら、安心なさい。アタシが、ラスカルちゃんがラスカルちゃんらしく過ごせる時間を提供したいの。だから、」
だから。
そう。
せめて。
「安心して、お眠りなさい」
返答の代わりに聞こえてきたのは、小さな寝息。
てる子の言葉が届いたのかは分からないが、先程より少しだけ増したあたたかさ。
完全に身を委ねて眠るラスカルに、てる子はそっと囁いた。
「良い夢を見てね、おやすみなさい」
それは、果たしてラスカルに向けた言葉なのだろうか。分からない。
てる子が絞り出した声は、誰にも届かないのだから。
アルコールを提供する店らしい騒がしさの中、ラスカルは驚く程によく寝ていた。
てる子も彼女を起こそうとはしなかった。他の客に指名されても断った。
「今日は貸し切りなの。ごめんなさいね」
威圧感いっぱいに言えば、残念そうに去っていく者、舌打ちをする者。
しつこく絡んでくる客には、他のキャストが手助けをしてくれた。店員の誰もが てる子を咎めることもなく、また気にすることもなかった。
だが、閉店の時間となれば話は別だ。
外は既に陽が昇り、朝日が燦々と街を照らす。起きるのには少し早いかもしれないが、起こさないわけにもいかない。
「ラスカルちゃん、朝よ。起きて」
「うん……あと、3日くらい……」
「ごめんなさいね、そろそろお店を閉めないといけないのよ」
「……おみせ?」
寝ぼけまなこのラスカル。
辺りをキョロキョロと見回して、自分の目的を思い出し、今の状況を把握したのか。勢いよく振り返ったその顔は、焦っていた。
「ごめんよ、少しだけのつもりだったんだ。本当だよ。つい、寝心地が良くて……あの、ごめんなさい」
シュン、とした顔。本当に成人してるのか疑わしい、幼子のような姿。
「気にしないで。ラスカルちゃんがラスカルちゃんらしく過ごせたのなら、それで良いのよ」
「でも、僕、」
「寝起きだけど動けるかしら?」
水を勧めれば、それをチビチビと飲みながら、ラスカルが小さく頷く。
時間をかけて飲み終われば、お別れの時。
店の出入口で、ラスカルは申し訳なさそうに、小さながま口を取り出した。中を見れば、小銭が数枚。
「ごめんよ、僕お金持ってなくて」
よくもまぁこれだけの所持金で飲み屋に乗り込んだものだ、と他の客相手になら、そう思うことだろう。
小さく、上目遣いながらも気まずそうに目を逸らすラスカルの頭をひと撫で。その手で、がま口の中から一番小さなコインを手に取った。
「本日のお会計、頂戴いたします」
笑顔で言えば、ラスカルは今までで一番驚いた顔をした。
「それだけ、なのかぃ?僕はタダ働きも覚悟していたんだけど……あぁ、体は売れないんだけれどね」
ラスカルの言葉に、てる子は微笑む。
「何を言うの?十分な対価だわ。あぁ、でも一つ。条件をつけても良いかしら?」
「うん?僕にできそうなこと?」
「ええ、もちろん。
またお店に来てくださる?」
「それは……そんなんで良いのかぃ?」
「大事なことよ。さらに大事なのはここから」
笑顔を崩さない てる子に、ラスカルが唾を飲んだ。
「必ずアタシを指名して。他のキャストに浮気しちゃイヤよ」
その言葉に、緊張の面持ちが崩れるラスカル。途端に息を吐き出す。
「……良いのかぃ?」
「何が、かしら?」
「その、僕そんなにお金持ちじゃないから、次はいつ来れるか」
「気にしないで、来たい時に、また来てちょうだい。約束よ?」
てる子が小指を差し出すと、ラスカルはおずおずとそれに指を絡める。
「……うん、また来る。てる子さんに会いに」
「ふふ、嬉しいわ。また会える日を楽しみにしているから」
軽く振って、解ける小指。
店の扉を開ければ、眩しい光が店内を照らす。
「またのご来店を心よりお待ちしております」
定番のお見送り。
笑顔で手を振る姿が見えなくなるまで、てる子はラスカルを見つめていた。
閉店作業の為に店内に戻れば、しげ子がニヤニヤといやらしい顔で近づいてくる。
「随分可愛らしいお客様だったわねぇアタシもお喋りしたかったわァ」
「嫌よ。アンタなんかと喋らせたらあの子が穢れるわ」
「失礼ね、アンタには教えられないこともアタシなら教えてあげられるんだから」
「それがあの子にとって迷惑だと言ってるのよ。その耳は鼓膜がついてるのかしら?それとも聴覚の異常?耳鼻科にでも行ってきなさいな。今すぐに」
「あら、閉店作業は?」
「……アンタの分もアタシがやるわよ」
苦々しい表情の てる子。明らかに不本意なのが見て取れる。
だが、それが てる子流のお礼なのだと、しげ子は知っていた。
「ふぅん、じゃあお言葉に甘えて、今日は帰らせていただくわね」
そそくさと身支度を整えた しげ子は、店を出る際に満面の笑顔で「アディオス♡」と指を動かす。
静かに閉まる扉に向かって、 てる子は呟いた。
「……感謝、してるわ」
苦虫を噛み潰した言葉も届くことはない。だが、それで良い。
あんなヤツには感謝など届かないくらいが丁度良いのだ。
てる子は他のキャストにもお礼を言い、閉店作業に取りかかる。
次はいつ会えるかしら。
もう会えないかもしれない。
でも構わない。素敵な縁と出会えたのだから。
神も仏も存在しない。
そこにあるのは信仰心だ。宗教の本質はそこにある、と てる子は考えている。つまり、信仰心を持たない てる子には、神仏なんてどうでも良い。
だけど、今日くらいは。
その“存在しない何か”に感謝しても良いかもしれない。
「今日はよく眠れそうだわ」
燦々と降り注ぐ日差しに目を細めながら、てる子は呟いた。