モーニングコール 冷たい空気の中、目が覚めて身体を起こす。静かな室内は広くて、いまだに慣れない。
先月まではルームメイトと寝起きを共に過ごし、チームメイトともひとつ屋根の下で暮らしていた。誰かと暮らすことはニューミリオンに来たときからそうで、他人のあたたかさを感じられるから好きだ。けれど、ルーキー研修が終わり、初心者マークはもうない。いい加減独り立ちをしなければいけないと思っていた矢先、恩師からの助言もあってひとり暮らしを決心した。
少し寂しいけれど、のびのびと自分のペースで生活できるのは新鮮だった。出勤より早めに起きて、ランニングをする。空き時間には読書をしたり、買い物をしたり。ひとりの時間は案外楽しい。
なんて、言葉を並べるけれど。本当のところはひとり、というよりもふたりに近かった。身支度だけ整えて、ランニング用のスニーカーを履く。
最低限の荷物を持ち、玄関から出た。ついつい前からの癖で鍵を閉め忘れそうになるけれど、なんとか思い出してドアへ振り向く。そうしてランニング……と言いたいところだけれど、ルーティン化しかけているこの生活には必要不可欠な挨拶があった。
まだ寒さの残る空気を肺いっぱいに吸い込み、それからひとつ隣をノックする。軽快な音が響き、少しだけ目の前のドアと距離を縮めた。
「ニコ、おはよう」
中にいる部屋の主へ聞こえるような声量で。だけど、近所迷惑にはならないように。数秒も経たないうちに施錠を解除する音が聞こえて、ギィと音を立ててシンプルな作りのドアが開かれる。ニューミリオンにある賃貸とはいえ、リノベーションをしているだけだから、作りは旧式のままだ。
「……ん、セイジ。おはよ」
重たげな瞼を伏せがちに、仲良しの隣人が顔を覗かせた。寝起きのようで、うつらうつらと船を漕ぎかけている。無防備にも近い姿はここ半年くらいでようやく見られるようになり、心を許された証だ。
育ちが関係しているせいかどうにも警戒されやすく、お互いを気兼ねなく呼び合う仲になってから初めて寝顔を見た。あどけなさの残る表情を見て喜びとともに、しばらくは独り占めしてしまいたいなんて知らない感情が顔を覗かせて。些細な出来事だけれど、胸のうちに秘めた想いを自覚するきっかけだった。
親友でいようと思っていたはずなのに、ひとり暮らしのはずがお隣りを誘われたから、ふたりみたいで。嬉しくもあり、ほんの少しの罪悪感もある。
「ご飯食べる? 今から作るけど」
「ううん、ランニング前の挨拶をしに来ただけだよ。ほら、昨日約束しただろ?」
「ああ……じゃあ、セイジが帰ってきた頃に完成するようにしとく」
世間話をするような抑揚のない声に、内心小さなざわめきが起きた。まるで、それが当たり前のようだから。今まではルームメイトだから、食事を共にしていたし、生活リズムもほとんど一緒だった。けれど、これからは違う。
対イクリプス部隊に所属されたニコとは、業務内容ごと大きく変わる。それこそ、特別任務でもない限り。同じ時を歩いていくわけではない。でも、だけど。日常のひとつのようで、胸の奥で湧き上がるような歓喜にほんの少し息が詰まった。
「ランニング終わったら来て。玄関の鍵空けとくから勝手に入ってきていい」
少しずつ意識が覚醒してきたのか、まつ毛の隙間から覗く蜂蜜の瞳に捉えられる。冷たいようで、熱くて。けれど、静かな。隣で何度も見つめてきたからよくわかる。口数が多くはないけれど、内側に入れてもらった途端、視線にはやわらかな熱をはらんでいた。
くすぐったくも心地がいい。干渉し合うわけではないけれど、隣にいると安心する。親友だけど、それ以上でもあって。今はまだ、伝える気はないけれど。
引っ越してそうそうに『ちゃんと』しなくていいと言われたけれど、誠実ではありたいから。お構いなしに全て踏み込みすぎるのはよくない。
スニーカーの裏でコンクリートを軽く蹴り、ほんの少しだけ身を乗り出した。玄関の中までは入らないけれど、あと一歩踏み出せば触れ合いそうな距離まで。
「えー……不用心じゃないかな」
「誰が入ってきても倒せるから問題ない。セイジは足音でわかる」
「あはは……さすがニコだね。でもせっかくなら一緒にランニングしようよ。今日は天気もいいし、きっと風が気持ちよくて……」
玄関の後ろを振り返り、青空に視線を向ける。けれど、その瞬間。背中にやわい熱と微かな重さがのしかかった。
「わっ!?」
「いい、走るのは面倒」
ゆっくり振り向けば、寄りかかるように体重をかけられていたことに気付く。ニコはパーソナルスペースが案外狭い。焼きたてのパンみたいなやさしくて、どこか甘い香りが微かにして心臓が跳ねてしまう。
あくまで親友として甘えられているとわかっているのに、でも、だけど。友人と呼べる存在は数少なく、親友なんて初めてで。適切で正しい距離がわからない。だからきっと、これは間違いではない、はずだ。
そう思い込まないと、走る前なのに全速力で駆けたあとみたいに鼓動が早鐘を打っている。身体中を血が巡り、耳の裏があつい。困らないけど、困る。だって、好きな子に許されるのは特別みたいだ。
小さく息を吸い込み、今度こそ全身で振り向いて身体を向かい合わせる。その間も熱を預けられることはやめられず、ふわふわと柔らかな冬の空に似た薄水色の髪が首筋をくすぐった。
「ニコ?」
ふと、視線が上げられて至近距離に顔が迫る。あと数センチだけ動けば、触れてしまいそうで。生唾を飲み込み、言葉は喉元で引っかかって出てこない。ほんの数秒の出来事だとしても、時間が停止したような体感でひどく長いような、そんな。
「……いってらっしゃい、セイジ」
砂糖がたっぷり入ったホイップクリームみたいに甘い声音と、緩んだ頬に今度こそ倒れ込んでしまいたくなる。けれど、できるわけもなく。
黙り込んでいると、すらりとのびた細くてやわらかな指先が輪郭を撫でた。他意があってもなくても、こんなのきっとよくない。けれど、嫌ではなく、むしろ嬉しいから。
「う、うん……いってきます、ニコ」
情けなさの残るか細い声が口先から溢れる。いまはこれが精一杯で。添えられた手に自らのものも重ね、ゆっくり落とす。
スニーカーの紐を結び直すふりをして、しゃがみ込んだあとに深呼吸をした。ニコは無表情なんてよく言われるけれど、そんなの嘘だ。本当は案外わかりやすくて、マイペースなだけで、それで。
すぐに立ち上がり、お隣さんの玄関から一歩離れる。心頭滅却、今はただ前を向いて走るだけだ。
「それじゃあ、あとでね」
「うん」
手を振ってからすぐに、駆け出していく。ふたりでの生活はルーキー時代からしてきたから、何も変わらないと思っていた。けれど、そんなことはない。
頬に残る手のひらの熱を抑えながら、ぬるい風を切って走る。親友のままではいられなくなっている自覚を胸に、今はただ朝食のメニューは何かと気を紛らわすしかなかった。