キル・ミー・ベイベー【序】「よぉ凪」
「なに、玲王」
白宝高校、昼休みの屋上。
雲一つない快晴の下、凪はスマートフォンに夢中だった。物好きな視線ひとつだって投げかけてくれない。
つれない。
けれど、玲王はめげない。
勝手知ったる梯子を登り、凪が寝そべるところまで歩いていく。そして彼の頭を挟んで見下ろすと、白い髪の毛はふわふわと動いて、スマホを動かす手が止まった。
指の動きが完全に停止するまで待って、玲王は満足げに息を鳴らした。
「なぁぎ」
こうなった時の彼はしつこい。
声は甘ったるくて、それでいてワントーン高くって、吐息を含んでいるから耳に届くまでにはかすれている。なのに決して有無を言わせないだけの圧があって、玲王と一緒になったクラスメイトは、みんなこぞってこの声に囁かれたいと願ってしまうほどの美声であった。
しつこいぐらいの王子様の愛がほしい。淡く秘めた乙女心をくすぐるテノールは、彼のどんなワガママも聞きたくなる魔力を秘めている。
玲王という男はこれに自覚的で、凪に対しても有効だと思って使ってくるのだ。
聞いてくれ、凪。渾身の思いで、名前を呼んでくる。
そんな蜜のような声を受け止め、凪は、ふぅ……とため息を付いた。
いかにも致し方ないと言わんげに、スマホを腹の上に乗っけると、彼を見上げる。
「……なぁにってば。ボス」
途端、びゅっと大きな風がふいて、仁王立ちする玲王の髪を大きく揺らした。スポーツをしていないから結っていない後ろ髪がそよ風に乗せられて、背後の太陽も相まって輝いて見える。
風にも負けず、玲王はニッと笑った。
「凪。デートしようぜ」
「……いつ?」
「来週の土曜。サッカー、休みだろ?」
「うーん……」
凪は頭の中で、スケジュール帳を広げる。
といっても、凪は必要不可欠な予定なんてほとんどない。必要になるのは、進路とか家屋関係か、ブルーロックか──玲王との約束だけだ。
そんなこと、玲王は当然知っているだろうに。
文句を言いたい気分になったが、問うてきた彼は自信ありげに目を細めるばかりである。お前は断らないだろう……言葉に出さずとも伝わってくる。
一瞬断ってみようかな。
逡巡して、凪は口を開いた。
「あいてるよ。でも面倒くさいからやだ」
「頼むって凪! 絶対にお前を楽しませてやるから!! このとおーりッ!!!」
「うぁっ」
しゃがみこんだ玲王に、やんわりと頭を掴まれる。突然の浮遊感に目を丸くしている間に、すぐ玲王の固い太ももに落とされた。
何cmか、凪は青い空に近づいた。
真っ青だ。雲一つない。
空気が澄んでいて、陽気で……そう思う束の間、視界の上部からアメシスト色の毛先が入り込んでくる。
日暈の半分を埋める、玲王のちいさな頭。
彼は、太陽よりも丸っこい瞳を瞬かせ、凪の顔を覗き込んでくる。
「凪?」
膝枕しながら、彼は優しく凪の頭を撫でた。癖っ毛を梳いて、もう一度「頼む」と言う。
「な?」
あからさまに眉を下げてくる様子が、あざといを通り越して腹が立つ。小動物が小首をかしげるように、わずかに玲王が首を傾けてくるのがなおのこと酷いのだ。
コレでなんでも、お願いを聞いてくれると思っている。判っているのに、凪はうなずいてしまう。
「……もぉー……わかった。何時?」
「来てくれんの?」
「玲王が行こって言ったんでしょ。あ、サッカーは無しね。それなら家帰ってゲームしたいから」
「しねーよ馬鹿! 言っただろ、デートだって」
「うぁっ……」
今度は髪をかき混ぜられる。とてつもない近い距離だ。わしわしと髪の毛を犬のように撫でつけられながら、距離感に加減を知らない玲王の顔が、どんどん迫ってくる。そもそも誰かに大きな手で側頭部を掴まれるなんて不愉快極まりないのだけれども、玲王だけは例外だ。
彼はいつも強引だし、誘うときも突然で、断ろう素振りを見せるものなら甘ったれてくる。
流されているのは判っていた。
けれどもそれで良いのだ。
「凪、なぁぎ。好きだ」
「……うん」
凪誠士郎は、御影玲王と付き合っている。
どこかに出掛けたりサッカーするどころか、これだけ距離が近いのも当然のこと。そも昼休みに押しかけられたり、スケジュールを抑えれるなんて慣れっこだ。
今日なんて、相変わらず玲王はデートが好きなんだな、と思うぐらいである。
凪が頷くと、デートが受け入れられて嬉しいのか、玲王は嬉しそうにした。心底幸せそうに破顔して、眉をぎゅっと逆八の字に寄せながら、「凪、好きだ」と言う。
「次の予定、ラインするわ。迎えも心配すんなよ、俺が行くから」
「イエース、ボス」
「ふは、楽しみにしとけよ。今回は一味違うからな」
ついに頬をつままれて、さすがに凪は身動ぎした。
まったく、スキンシップが激しい。
玲王はいつも過剰なのだ。デートも言葉も愛情も、そのすべて。
なにをそんなに嬉しいのだか。一味と言ったって彼は難癖もある男なのだから、味が一緒のほうが珍しい。
凪はさっぱりわからないまま、
「うん。よろしく」
と身体の力を抜く。
これが凪の降参の合図で、玲王を受け入れる仕草であった。
■
放課後になり、玲王は用事があると凪に断った。
今日はサッカー部は休み。つねに忙しい玲王は、休みの日にサッカー以外の予定が入りがちで、すんなりと話が通った。
だから凪は帰った。もともと彼は、さっさと家に戻りたい気質なのだ。玲王とて彼のそういうところを理解しているから、基本サッカーの練習がなければ帰すように心がけている。
付き合ってから放課後一緒に過ごす機会こそ増えたものの、しかし、今日ばかりは特別だ。
なぜなら、玲王はデートの約束を取り付けた。
取り付けてしまった。
誘ったとき、凪に突っかかられる様子もないから、いつもどおりのデートだと思われていることだろう。
むしろ、そうであってほしかった。
こちらが攻めすぎてしまうと、逆に引かれてしまう可能性がある。凪は極度の面倒くさがりで人前に出ることを好まないし、玲王が言いたいことを先回りできるだけのIQを持っている。断わりたいときはキッパリと言うし……その時には身を引いただろう。
いやそれでも、今日だけは引かれたくなかった。
引かれたら流石に落ち込むところだった。
「よし、よし、よっし……! 今回こそ、」
玲王は小さくガッツポーズを繰り返しながら、学校の廊下を歩く。白宝高校の廊下は、彼がスタスタと勢いよく歩いてもびくともしないほど丁寧に掃除が行き届いていて、歩くたびに踵が小刻み良く足音を鳴らした。
階段を降り、また降りて昇降口までたどり着き、下駄箱で靴を履き替える。その時背後から、「レオ様ったら機嫌がいいわね」と女友達から黄色い声が聞こえて、彼は手を振って返事の代わりにした。それだけできゃあ! と花が咲き、それを背景に、また彼は歩いていった。鼻歌を歌いだしたいほど、軽やかな足取りだ。
それからも彼は、サッカー部の更衣室へと意気揚々と入っていく。
中には部員が9人いた。
彼らは一様に、突如入ってきた玲王に対して息を呑み、見つめた。
「レオさん、どうでしたか……?」
ひとりが尋ねた。部員の中でも特に切り込み隊長で有名な、玲王より10cmほど背が低い青年だ。彼は丸坊主の頭をかきながら、ニコニコした玲王の顔色をうかがう。
玲王は、大きく息を吸い、
「凪、俺とデートしてくれるって……!!」
「シャアッッッ!!!」
野太い歓声があがった。
玲王が天井高々に拳を突き上げ、これを合図にワッと9人全員が玲王に集りだした。そして容赦なく背をバンバンと叩いて、彼の肩を抱き、中でも切り込み隊長が涙もろく「良かったッすね」と目をぬぐった。
「悪い……ありがとうな、お前ら。おかげで凪を誘えた」
「いやいいんです。あ俺、Gカップの女優紹介してほしいです……」
「俺はH……」
「俺はI……」
「最初はFとか言ってたのにお前らなぁ……」
俗物的な彼らに呆れるが、報酬は弾むべきだ。彼らは素晴らしい功績を残している。このあと早急に、胸が大きな女優をピックアップせねばならないだろう。気恥ずかしいが、背に腹は変えられない。
しかも彼らは改まって、「オネシャス!」と大きな声で頼み込んでくる。まったく素直な連中であった。
「わかってる、御影の名に恥じないやつを連れてくるから」
「さすが玲王さんだ」
「長い間の女いない生活がついに……」
「意外とこの高校って出逢いが無いからな」
「うわ泣けてきた」
「また振られるのがオチだろ」
「あ。ところで、玲王」
部員全体が涙ぐむ中、ひときわ冷静なひとりが手を挙げる。玲王は見逃さず、「なんだ田中」と目を合わした。
「凪とどうデートするか、今回こそ計画は立ててるんですか?」
「立ててる。玲王・プロデュースのスペシャルなやつ」
「そこじゃなくって……」
「ああ……」
「こりゃダメだ」
「玲王もダメだ」
「ダメじゃねーだろ!」
ダンッと玲王が勢いよくベンチに座った。その勢いたるや、ボスの機嫌を損ねてしまったかと、何人かは冷や汗を垂らした。
しばらくし、玲王は不安げに視線を右往左往させ……頭を抱えた。
「流石の俺も、本当は自信ねーんだよな……またお前らの意見、聞かせてほしい」
【玲王の事情について】
御影玲王は、凪誠士郎と付き合っている。
これは、白宝高校周知の事実である。御影玲王は、御影コーポレーションきっての御曹司。対する凪誠士郎は、飽き性の玲王がもっとも強く執着し、見る目がある彼が“天才”と豪語するだけある素晴らしい才覚の持ち主である。
最初こそ、中高一貫校で初等部から後頭部まで根強い人気がある玲王の寵愛をめぐってあれやこれやあったものだが、いまでは落ち着いている。
あの玲王が選んだのだから。
それだけの信頼を、彼は、御影人心掌握術によって積み上げてきたのだ。
特に白宝高校・サッカー部。彼らは玲王の手ずから集められた集団で、良くも悪くも扱いやすい──悪く言えば俗物的であるが、良く言えば素直な人間ばかりであった。
むしろ彼らは、大っぴらに凪への愛情を見せつけられたことで、もう早くくっつけば安定して推せるのにな……とすら思っていたのだ。
だから、玲王が凪と付き合い出したことも納得した。なんでもかんでも手に入れる彼のことだから、きっと凪も、あっさり物にしてしまうのだろう……と。
けれど、現実は違う。
「ううん……玲王、今回も苦戦しそうだな」
「苦戦どころか手もつなげるか?」
「キスまで行けるかな。玲王さん、算段あります?」
「──……」
……凪と付き合いだしてから、数ヶ月。
玲王は交際を重ねてもなお、凪誠士郎に手が出せないでいるのだ。
キスどころか手もつないでいない。スポーツで盛り上がった時の興奮とは違って、恋人の営みになると、玲王は緊張してしまっていてもたってもいられなくなるのだそうだ。
いや、もうすこし正確に言うならば──玲王は、凪に“どう”手を出したら良いのかわからない。
手を繋いで、キスをして──玲王が行うスキンシップは愛情にあふれているが、ペットに対する愛で方のほうが近い。可愛がり方が他者と異なるのだ。
しかし、彼は、好いた相手と交際経験が無いわけではない。長続きしなかったものの、彼らは総じて“御影玲王への好意”を隠さないものだから、表向きは上手くいっていたのだ。
何を与えればよいかわかりやすかったし……同時に、飽きやすかった。
扱いやすいのは助かるが、与えて満足しがちな玲王には物足りず、同時に“みんな口説き落とせる”と自信をつけさせることになった。
対して、凪誠士郎はどうだろう。
彼は“御影”に対して色眼鏡で見ない。踏み台にも見ず、目の前のゲームスコアが優先。感情表現は表に出づらいタイプで、基本的に受け身。
“玲王”を明確に要求してくることがないのだ。
ゆえに玲王は、“凪誠士郎にもっと『好きになって』もらいたい/スキンシップしたい”相談会を、こうして開いているわけであった。
別名、“デートに誘う御影玲王の背中を押せ”の会である。
友達に背中を押してもらうとは、実に有意義なことなのである。
【事情終了】
「もっかい確認するけど玲王はさぁ、凪のこと好きなんだろ?」
「好きだ」
「サッカーの才能があるからってだけじゃないんですよね?」
「ンなナンセンスな解答あるかよ。俺は凪の全部が好きだし、一生かけても口説き落とすって決めてんだから」
「大好きかよ」
「そこまで言ってて手もつなげてないなんて信じられない」
相談に乗らないほど、白宝高校の同期たちは冷たくない。
クラスの女子の注目の的で、お高く止まってるようにも思える御影玲王。そんな彼から相談されるのは、やや優越感がある。
ブルーロックで仲が良い面子は皆地方住みだから、普段から頼れるのは俺達なのだと嬉しくなってしまうのだ。手のひらで転がされているとは知りつつ、友人として相談に乗ってきていたものの……しかし。
一向に、凪誠士郎との関係が進展しない。
御影と白宝高校サッカー部の名折れである。
「まーでも誘えて良かったじゃん。そろそろ断られるところだったんだろ?」
「凪が俺のこと断るなんてこと、ほぼねーけどな」
「じゃーこの会いらなくないっすか?」
「女優の件なしって話か?」
「ハハッご冗談を……」
切り込み隊長はゴマを擦りながら、そろそろ真剣に考え出すべく前のめりになった。
「玲王さんはなんでそんなに自信ないの?」
「……なん、だろうな。デートは重ねてるけど……いつもどうも、手応えがないって言うか……」
「具体的には?」
「俺ばっか“好き”って言ってる。凪もそりゃ俺のこと好きだろうけど」
「ふぅん。普段なにしてんすか? デートて」
「えー……この前はクルージング。その前は特等席で花火大会。ヘリコプターで東京全体一周、凪が好きな雑誌に出てたアイドルの鑑賞、あと……」
「凪ってアイドル好きだったんですか?!」
「全然興味なさそうだった。俺の方ばっか見て暇そうだったから、そのあとはばぁやとドライブして帰った」
「もったいね……」
心底しけた面になった一同は、顔を見合わせた。自分たちだったら絶対に嬉しいのに。金をかけるのは悪いことではないが、娯楽を楽しむことも有意義な時間の使い方だと、丁寧に育てられてきた彼らは思ったのだ。
けれども。けれども、凪の反応は薄いと言う。
「なんでだろうなぁ……」
「ブルーロックの方は、なんて?」
「ああ、この前秋田の……知ってるか? 國神」
「大ファンす」
「あいつにラインしたら、『普通』で良いんだよ。って言われて」
「普通」
「哲学?」
「普遍的倫理?」
「凪ってアインシュタインにも匹敵しそうですしね」
「そりゃ俺の宝物だしな……」
ブルーロックの彼らにだって、相談しなかったわけではない。ただ聞いてみると、彼らは大体こぞって『そのまま』で良いよ、と言われて切られてしまうから、何と質問すれば良いか考えあぐねているのだ。
こっちは、凪からもっと『好き』を引き出したいだけだと言うのに。参考になりゃしない。全選手、白宝高校に臨時講師として呼んで問い詰めてやろうか思ったぐらいだ。
ただ現実は甘くない。せめて経験を重ねることで、関係は発展するやもと思ったが……そうは問屋が卸さないのが実情であった。
「玲王さん、いっそのことなんですけど」
ふらっとIカップ推しが手を上げた。
「いっそ……今回はほんとに趣向を変えてみるのはどうでしょうかね」
「というと?」
「玲王さん、ちなみに次のデートどこに誘う気だったんですか?」
「ぶらり京都の人力車ツアー」
もしこの場に潔世一がいたならば、「いやたたのデートでンなの企画できるかよ!」と突っ込んでくれただろうが、この場には誰もいない。
なぜなら全員企画できてしまうからである。
「ずっと人力車って一回でいいからやってみたい」
「だろ?」
「凪って親戚の家にしきたりでもあるんですかね? 喜ばないにしても『やったことない』なら楽しそうではあると思うんですけど」
「そう!! それですよ」
Iカップ推しは、思い悩む面々にゆっくりと迫った。
彼に合わせ、9人は団円を組むようにして頭を小突かせ、
「……凪誠士郎が楽しいって思うこと、いっそ聞いてみたらいいんじゃないですかね。面倒くさいっても、あいつ、玲王さんの問いには絶対に答えるじゃないですか……」
それはまさしく、玲王への天啓であった。
ただし残念なことは、彼らは真剣に、このアイデアを初めて出した点であろうか。
(続)