敢えて解かない糸 まどろみの中で些細な違和感を感じ、意識が浮上する。
まだ寝ていたいと重たさを残す瞼に抗いながら目を開ければ、伊織のすぐ目の前にはすうすうと静かに寝息をたてるセイバーがいた。
いつもならば気になるものを見つけるときらきらと目を輝かせて即座に走り出す元気の良い姿も、「イオリ!」とこちらの名を呼びながら嬉しそうに声を弾ませる姿も今はなく、ただ体を休めるために眠りについている。
どうやらいつもよりも早い時刻に目が覚めてしまったらしい。横にいるセイバーはとても心地よさそうに安心しきった顔で眠っていて、伊織が起こさなければいつまでも眠っていそうだ。
この様子ならセイバーは暫くは起きないだろう。伊織としても特に急ぎの用がある訳でもないし、今の状態では睡眠が足りておらず、体調は万全ではない。もう少し休みを取りたいからこのまま再度寝てしまおうかと未だにはっきりとはしないまどろみの中で通常とは正反対の物静かなセイバーをぼんやりと眺めていると頬に違和感を覚えた。
さらりとした感触、それは目を覚ました原因でもあった。
(……今日は、髪を解いていたんだな)
いつもと違う時刻に起きてしまったのは顔に髪が触れていたのが気になってしまったからのようだ。
ささやかにくすぐったさを感じさせる髪を顔にかからぬようにそっと退けると指先で少し触れただけだというのにそれは柔らかでまるで絹のように感じられた。
そういえば、こうやって髪を触れる機会はあまりなかったように思う。
(ふむ……セイバーは、まだ寝ているな)
起こさないように気を使いながら先程までと様子が変わらないのをよく確認すると、伊織はセイバーが寝ているのを良いことに布団に広がっている長髪を一房手に取った。本人の知らぬところで勝手をするのは良くないが、普段からセイバーにはあれこれちょっかいを掛けられているのでこれくらい構わないだろう。
「これは……凄いな」
気になっていてもこうやって実際に触れたことは今までなかった。わざわざ断りを入れてする必要性も感じられなかったし、髪を触りたいと云われてもセイバーもあまりいい気はしないだろう。
しかし一度触れてしまえば、それは間違いだったと思い知る。触り心地の良さに指を往復させて思わず何度も撫でてしまう。普段触れている自分の髪とは大違いだ。
(綺麗だとは思っていたが、まさかここまでとは)
腰まで届く程に長く伸びたセイバーの髪は三つ編みでまとめている時もあれば、解かれて自由に広がっている時もある。
傷むことを知らない美しい漆黒の艷やかな髪は先の方が少し白く染まっている。それをこうして間近でじっくりと観察できるのはセイバーが身動きせずに大人しいお陰だろう。いつもなら触るどころか捉えることすら難しい。
戦闘の際に動きに合わせ、ひらりひらりと流れる様はさながら舞を踊っているかのように美しく、つい目で追ってしまう時もある。
滑りの良い髪は指に絡ませてもすぐにするりと指を抜けて解けてしまう、まるで風で編まれた糸のようだ。
(糸といえば……確か赤い糸だったか)
音もなく落ちて散らばった髪をまた指で掬ってそっと撫でていると、ふと他のサーヴァント達が話していたのを思い出す。
噂によると「運命の赤い糸」というものがあり、小指から伸びたその糸は運命の相手に繋がっていて、その二人は結ばれて幸せに過ごすのだとか。
なんとも微笑ましい話だが、伊織には縁のない話だ。
縁がないというか、実際はどうだろうなと疑念の気持ちの方が大きい。
運命というものがあるのなら、そんな生易しいものではない、と。
セイバーとの関係は一言では言い表せない。
もし仮に伊織とセイバーに運命の赤い糸があるというのならば、それはがんじがらめに深く絡まって解けないだろう。逆に解こうとすれば寧ろ絡まって動けなくなる。たとえ遠くに離れていてもそれは感じられ、永遠に続く。
(それを厄と思うか、幸と思うかは人それぞれだろう)
少なくとも伊織から解こうとは思い至らなかった。いつかセイバーから解く日が来たとしても、今はまだこのままでいい。
そう物思いにふけりながら飽きもせず髪を撫でて続けていた伊織だったが、急に視界が黒く染まったと思えば身動きが封じられる。
誰かが伊織を腕の中に閉じ込めたのだ。そんなことができる人物は一人しかいない。セイバーと不満げに名を呼べば、くすりと笑い声が零れた。
「きみ、中々可愛いところがあるんだな〜」
痛みはないがこちらを一切逃がすつもりのない力加減で伊織を抱きしめながら、セイバーはくふくふと楽しそうに笑った。
「ふふっ。イオリは私が思っているよりも、ずーっと私のことが好きなのだな!」
愛い! と嬉しくてたまらないといわんばかりの声音に、これは満面の笑みを浮かべているなと顔を見なくても解った。
このまま調子に乗ってしまうと後々面倒くさいので、釘を差して置かなければと頭を働かせようとして思考がぼやけた。
セイバーに抱き寄せられて温かさに包れた影響か、なくなった筈の眠気が降りてきたのだ。
まずいと思いながらもあまり寝れていなかった体は眠気に抗えず、更に先程までのお返しとばかりに髪をわしゃわしゃと撫でられてしまうとその心地良さに抗えず伊織は何も云えまま、また眠りに落ちてしまった。