「鶴見さんは、夜、酷くしたりしませんか」
言葉を最後まで吐き出してから、磨かれた皿に映った己が大きく目を見開いた。ひゅ、と喉が鳴って、勢いよく隣に立つ女性の顔を見上げる。
人種が違う故月島よりも高い位置にある小さな頭。手足も長くしなやかで、鶴見と並び立っても見劣りしないどころか、まるで一枚の絵画のように見える優美な肉体。家事や育児をしているというのに滑らかで輝く白い手は、鶴見が丁寧に手入れをしているのだと嬉しそうに言っていた。そのほっそりとした薬指に光るのは、シンプルなエンゲージリング。鮮やかなマニキュアで彩られた爪は、ふとした時にいつもそれを愛おしそうに撫ぜた。
月島を見下ろすフィーナは目を見開いていた。当たり前だろう。あまりにも夫婦の間に踏み入った不躾な質問だ。デリカシーがないにも程がある。
「あの、いえ、すみません。運命と番うと、他と勝手が違うと聞きます。ヒートもどちら側も強くなると聞きますし。あの人に限ってそんなことはあり得ないと思いますが、その、無理をしたり辛かったりしてないかと、思い、まして」
「ハジメ……」
「同じ、Ωですから。心配で」
同じなわけがあるか。月島の心の冷静な部分が、しどろもどろに吐き出す言い訳じみた言葉たちを侮蔑する。自己嫌悪で真っ白な皿を掴む指先がじわじわと冷えて行った。
同じなわけがない。己のような獣で、クズで、人でなしの卑しいΩと、この美しい選ばれたΩが同じである部分など欠片もないのだ。心配だなんて身の程知らずにもほどがある。
「……ハジメは優しいのね。心配してくれてありがとう」
キッチンの明かりを反射して煌めく金の髪が揺れる。フィーナはタオルで濡れた艶やかな手を拭いながら、月島の両目を見つめて言った。そのどこまでも蒼い瞳は、月島の中身も全部見透かしているようで居心地が悪かった。
「大丈夫、大丈夫よ。トクシロウはね、私をとても大切に扱ってくれるわ。あの人との営みで、辛かったり痛かったりしたことなんて一度も無いわ。あの人は私をΩではなくて一人の人間として扱って、愛してくれる。αは全員が、欲に呑まれる獣ではないの」
——鶴見との情交は、辛さと痛みだけで出来ていた。それは月島が乞うたものだ。そしてそうやって差し出される愛を、月島は悦んで泣いて享受した。それが月島が定義した愛の形であったからだ。
辛くて、痛かった。だがそれらは、全て鶴見の、ひいてはαの持つ暴力的なものではなかった。α自身に暴力性があったとしても、それはα自身の理性と心によって抑えられている。
ああ、分かり切っていたこと。あの痛みは、あの愛は全てまやかしだ。酷くしてくれと、それが愛であると信じて疑わない月島の心を壊さないために、鶴見が情で誂えた茨の揺りかご。全てはままごとだったのだ、哀れな月島の為だけの。
「αは人間よ。言葉が通じて、痛みを分かる心がある。獣なんかではないの。大丈夫よ、ハジメ、大丈夫……」
あの人は獣などでは無かった。獣のフリをしてくれていた優しいだけの人間だった。獣なのは、月島だけだった。
暖かな掌が背中に触れて、壊れ物を扱うようにそうっと抱きしめられる。月島は皿を手にしたまま固まる。やめろ、穢れる。月島は咄嗟にそう思って身を固くした。フィーナはそんな月島の心と体をほぐすように、何度も優しい声音で大丈夫と繰り返した。それは紛れもなく母親の声だった。いつか夢に見て、そうしていつか諦めた愛の温度が月島の冷え切った身体を包み続けた。血が繋がっている訳でもないのに尊い愛を差し出そうとしてくるその優しさは、月島の心の膿んだ傷口に泣きたいほど痛く沁みた。
月島はその日のうちに鶴見から預かっていた鍵をポストに入れて出て行った。
タクシーを捕まえて辿り着いた築数十年のボロアパートで、月島はその日食べたものを全て便器に吐き出した。ビタビタと音を立てて何度も、何度も、喉の奥に指を突っ込んで無理にでも全て戻した。食道を伝うものが胃液だけになっても、あの家で吸った空気ですら吐き出すために無心で吐いた。
鶴見が稼いだ金で買った食材。フィーナが丹精込めて作った料理。オリガのふにゃふにゃとした愛らしい泣き声。全部無かったことにした。それらは全て、月島の胃の中に欠片も残っていてはいけないものだったから。
胃液で焼け爛れた喉は痛くて堪らなくて、それはきっと幸福の味をしていた。