1月新刊予定の前日譚 東京では落ち葉が目立ち始める頃だった。
尾形百之助が雪を見るより先に、都からずっと北の土地に移ることが決まったのはつい一週間前である。
兵士を補充する為、下士官を志望する者を募り北の師団に送るつもりだと親しくしていた大尉に聞き、志願した。
志願してすぐに第一師団長直々に間謀の任を依頼されるとは思わなかったが、尾形は自分の目的を思えば都合が良かった。
北の師団への補充兵もカムフラアジュなのだろうと推測したが、詳細までは聞かされないままにあれよあれよと時間は過ぎる。
顔見知りの隊員数名に見送られ鉄道に乗ったのが二日前で、蝦夷──北海道へ向かう軍艦へと乗り換えたのがようやっと今朝のことだ。陸の兵士を海に迎えたのは何とかいう名の巡洋艦である。
東京から北海道へ向かう五名に与えられたのは、全員を押し込めて辛うじて雑魚寝が出来る程度の応接間だった。設えてあるカウチやテエブルなど調度品を見るに、将校や下士官が会議をする場を借りたのだろう。隅には五つの敷布団と掛け布団とも呼べぬ布が雑に積んである。
お前らは客ではなくお荷物だと言われているようなものだ。
尾形は同じに入室した他三名の動向もおかまいなしに、率先して出入り扉を背にする位置のカウチに座る。
船に乗るなんて初めてだ──と、尾形と同年入営の二つ年上の小林が後ろで言った。
小林保佑(ヤススケ)は出身は元川越藩、父の代より続く八百屋から徴兵された行動も言動も軽々しい男だ。
野菜は海では採れないからなと、左隣に腰掛けた同年入営の来生(キスギ)が笑った。
決して広くは感じない船室に、たむろする男四名の汗と日焼けした肌と重機械の切詰まったような匂いが馴染み始める。
窓もなく、鬱鬱とした閉塞感に苛まれるばかりた。
小林はよもや東京から北海道へと活動拠点を変えるとは思えぬほど小さ荷物を抱えたまま、落ち着きなく室内を見渡したり
歩き回ったりしている。
酷く目障りで目を閉じた。
ぼつぼつと残り一人の足音も小林に続くが、その行動はもう映らない。
少しして、扉も叩かずぞんざいに入室してきた上官がある。
緩んだ空気が一変し、尾形も起立して背筋を伸ばした。
上官はその身に似合わぬ洋服を翳すように、丁度尾形の向かいのカウチの後ろに立っていた小林の前にわざわざ足を進め、真っ向から「邪魔だ」と言った。
退こうにも、うまい場所はない。
「暢気だな、小林。」
北へ向かう中で一番の上級に当たる新井上等兵が嘲るように口を開いた。
新井誠之助(セイノスケ)はとにかく部下をいたぶるのを愉しむ変態である。殴るや蹴るが好きなのではなく、恫喝されて畏縮する下級の顔を見るのが好ましいらしい。上等兵に進級してからの約変ぶりは目をるものがあると別の大人しい上等兵がいつか愚痴を吐いていた。よほどである。
思い通りに萎縮した小林に気を良くした新井は、恐らく上級将校が腰を落ち着けるであろうカウチに座り、続いて腰を下ろした三名の部下を見渡した。
誰もが視軸の交わらぬよう宙を見ていたが、尾形はわざと上官の目を見続けた。
「何だ、何か文句でもあるのか? 尾形。」
鷹のような、獲物を常に狩らんとする射抜くその眼をすいと抜け、足元のトランクから煙草を取り出して一本差し出す。
「空気が悪いので、ひと喫みいかがですか? 新井上等兵。」
隣や斜向かいに座っていた一等卒らの空気が凍る。
わざと「空気が悪い」と強調したことに恐れたのだろう。
愚かな上官の思うツボだ。それが気に食わない。
新井は差し出された煙草と尾形を一頻り睨んで舌打ちをし、
「俺のがある。」
と開襟シャツの胸ポケットから自らの煙草入れを取り出した。
間を空けずにマッチを擦って持っていくと、その手は払われて燃えたままの火は行き場を失う。
仕方なく自分の口元にマッチを寄せ、それから火を消した。
誰も何も言わず、微動だにしない。
ただ尾形ひとり分の吐き出した煙が浮かぶ。
「高い香(こう)の匂いがするなァ。なあ来生、そう思わんか?」
「は…高い、香ですか?」
高圧的でハリのある声が、来生へ振る。
来生峰生(ミネオ)は虚弱そうな見目の割に体力のある男で、元々属していた第一師団第四連隊では群を抜いて体術に長けていた。実家が道場らしいという噂と、裏腹にに豆腐屋だという噂がある。どちらでも同じようなものだろう。
ただでさえ薄暗い部屋の景色が煙で濁る。
「もしやその煙草は御母堂に譲ってもらったものか?」
火をつけず指先で煙草を弄ぶ上官は下卑た笑いを口元に携えたまま問う。
尾形は芸者であった母と第七師団長である父の妾腹である。
第一師団内であれば誰もが知るそれを言いたいのだろう。
下らないと思い切り溜息を吐いてやりたいのを堪え、尾形は首を傾げた。
「母はずっと先(せん)にありません。」
右隣で縮こまる小林が視界に入る。
余計な事を言うなとひしひしと伝わって面倒だった。
すると部屋の隅の床に腰を下ろしていた同じ一等卒の松本が腰を上げ、甲板に出てみないかとやや不自然ながら新井を誘った。
松本蔵重(クラエ)は尾形や小林よりも一年先に入営した元尾張藩出身の男で、この面子で唯一、新井に好かれている男だ。
色白で、太ってはいないが全体的にぽってりとしていて物腰が柔らかい。団子屋の娘のような面で、縫物に長けているから「姉さん」と内務班の内では呼ばれていた。
「どうした、松本。」
「以前、小隊長殿に甲板で喫む煙草の方が美味いと聞き及びましたものですから、ぜひ。」
この緊張感でも変わらぬ物腰で誘う。割に口を開けば存外声が野太いから、尾形は松本を面白がっている。
「松本、お前は気が利くなあ──来生、お前も来い。」
「はい、お供します。」
ぞろぞろと狭い部屋から鬱陶しい気配が去ると、小林は不明瞭な声を発して尾形を思い切り睨んだ。
鼻息が荒く、詰まった便所を掃除した後の当番兵のような顔をしている。
「何だよ。」
「尾形お前なァ! あの人の機嫌を損ねるような態度とるなよ!」
「元はお前が邪魔だったんだろ。」
「一言余計だったのはお前だろ!?」
小林は溜め込んでいたであろう鬱情を何とかして晴らしたいらしく、尾形の口元にあった煙草を奪って吸った。
「返せよ、小林。」
「詫び料だろ。」
「知るかよ、等価じゃねえ。」
たった二人になるだけで広く感じる部屋を見渡し、潮気ある外の空気を想像しようとしたが出来ない。
汚くて暗い空間だから無理もないが、そもそも北上しつつある海の上の空気を知らなかった。
自分にはこれくらいが丁度いいと尾形は思う。
「ニノスケよぅ。」
軽々しい情けない声だ。元属していた連隊の人間の名に「之助」があるのは新井と尾形の二名だけだったからついたアダ名であると説明されたが、小林しか呼ばない。
備え付けの机に乗ったアルミの箱に煙草が投げられる。
返せと言うのも面倒だった。
「俺、帰れるかな。」
「さぁな。」
小林は心残りがあると漏らさんばかりに「寒いのは嫌だなあ」と呟いて立ち上がり、壁にあった心得らしきものが彫られた木の前に向かった。
その頼りない背中を何ともなしに見る。
新井は厄介払いされて第一師団を出た。
来生と松本は、兵士として昇級しても戦力になる。
小林は数合わせである。別段、いてもいなくてもいい。
尾形は──間諜だ。
それぞれが、それぞれの思惑と裏側を抱えて海を渡っている。
「第七師団ってどんなかな。」
振り返って聞いた声は情けないのに、表面は軽々しい。
凡庸な目鼻立ちで特徴はこれといってない顔がやけに印象的に感じた。
まじと見るのが初めてだったかもしれない。
「有象無象の寄せ集めって聞いたが、それだとあそこも変わらんかっただろ。」
「野蛮かぁ…野蛮なんだろうなぁ」
「真っ先に貴様が死ぬ、に一円かけてやるよ。」
「じゃあ二番手くらいに俺が死ぬ、に五十銭。」
「一番手は誰だよ。」
「イチノスケ。」
「ははァ、そりゃいいや。」
廊下が騒がしくなり、小林は慌てて尾形の隣に距離を詰めて縮こまる。
嫌な声が響いて近づいてくるのが憂鬱で、厄介な上官の頭を撃ち抜く妄想を幾度もした。
有象無象の中にいる上官もこうでなければいい──と、祈るばかりだった。
【登場人物】※新刊には基本出ません。
新井 誠之助(アライ セイノスケ):
第一師団第四連隊十一班上等兵
小林 保佑(コバヤシ ヤススケ):
第一師団第四連隊十一班一等卒
来生 峰生(キスギ ミネオ):
第一師団第四連隊九班一等卒
松本 蔵重(マツモト クラエ):
第一師団第四連隊八班一等卒
《捏造です》
尾形百之助:
第一師団第四連隊十一班一等卒