きみはポラリス「シンジ、ええ加減にせえ」
「嫌や」
「日焼けが痛いねんボケ」
腕の中のひよ里が抗議の声を上げながらわなわなと震えるのを肌で感じながら、あ、こらそろそろ拳が飛んでくる頃やなと思う。見てるこちらまでヒリヒリしてくるような、むき出しの背中や肩の赤み。いくらひよ里の代謝がよくたって、これが湯の温度のせいだけでないことは明白だ。
「これに懲りたらもう遠出はよすんやな」
「仕事やっちゅーねん!しゃあないやろが」
「やからその仕事を辞めろて何遍も言うとるんやろが!」
「やから!なんでアンタに指図されなあかんねん!ウチの人生やッ!!」
狭い浴槽で真子に抱え込まれながら、ひよ里は声を荒げた。嫌でも視界に入るタイルの境目の黒カビは、真子たちが越してきた時には既にこびりついていて、何度ハイターを吹きつけてブラシで擦っても取れない。こんな風呂、カップルが二人で入ったって雰囲気もクソもない。真子だってわかっている。それでも久しぶりに帰還したひよ里と何かにつけてイチャイチャしたいという、いたいけな彼氏ゴコロを理解して欲しい。
『今日そっち帰るで』
『何時着』
『わからん、今飛行機。14時半とかちゃう?』
いつもながら突然の連絡を寄越したかと思えば、ひよ里は今日、南アメリカから3ヶ月ぶりにこのボロアパートに帰ってきた。
長らく音信不通であったひよ里からの連絡に気づいたその時真子は勤務中であったため、平静を装ってはいたものの内心感極まってうっかり客先とのやり取りでタイプミスをかましたりした。そして急用だと部下に謝り倒してうまいこと仕事を引き継ぎ無理くり半休を取り、なんとか迎えに行ったのであった。
空港で迎えたひよ里は相変わらずスーツケースひとつ持っておらず、コンビニ帰りと言われても差し支えない身軽さであった。どこの国から帰ろうが頑なに崩さないツインテールと淡い色彩のヘアピン(これだけは欠かせないらしい)のみが、かろうじてひよ里を女の子たらしめている。
真子はひよ里の帰還のたびにそのいつも通りすぎる出立ちに拍子抜けするのだが、ほっとした気持ちをひよ里に悟られるのも気恥ずかしいため挨拶もそこそこに山のような小言を吐いてなんとか誤魔化すのであった。
それにしても同棲中の彼氏ほっぽって3ヶ月アマゾンて、どないやねん。オレがその間に他の女連れ込んだりせんか不安にならんのか?コイツは。いや、そないなコトはせんけど。ちゅーかこないなボロ部屋、オレにその気があったとて女の子誘えるような場所やない。まあひよ里以外の女のコとイチャイチャしたって楽しくも何ともないのだが。さして会社も近くないボロアパートで一人、いつ帰るかもわからん恋人を待つ日々。我ながらなんて健気な。大体、オレの給料ならもっとええとこ住めるっちゅーねん。それもこれも滅多に部屋に帰らないひよ里が勿体無いからの一点張りでこないな安アパートを選んだせいである。いやオレの意見は?お前と違おて毎日ここで生活せなアカンのやけど。
やから今日こそは話をつけんと。もうワケわからん仕事はやめてもろて、結婚や結婚。こっそり指輪の目星もつけてある。この辛気臭い部屋も引き払うて、もっと俺の通勤時間短縮できる都内に一軒家建てて、できたら子供こさえて犬も飼いたい。仕事して疲れて帰ってきたらひよ里がちゃんと家におって、メシも用意してあって、おかえりってはにかむそんな我が家。そのために今日こそ俺らの今後に関して真剣に話すんや。今日こそは……
しばし考え事をしてふと我に返りチラリと視線を戻すと、今にも殴りかかって来そうなひよ里の赤い肌に今さらバツが悪くなってくる。本当に痛いのだろう。いや、やっぱし可哀想やからこの話の続きは部屋に戻ってからにしよう。身体拭いて着替えて髪乾かして、茶でも淹れて落ち着いて話そう、うん。
しゃーない解放したるかと仕方がなしに諦めようとしたその時、少し離れたところからカン、カンと音が耳に届く。表の階段を、誰かが昇っているのだろう。
「あれ、カギ閉めとったっけ」
「わからん」
「わからんてお前。今暴漢入って来たら俺らおしまいやで」
「ウチが迎え撃ったる」
自信満々に豪語するひよ里は流石、しょっちゅう海外を飛び回っているだけありその小さな身体に反して肝が据わっている。ひよ里なら直接手を下さずとも気迫だけで撃退しそうやなと頼もしく思っている自分が情けない。
まあ、足音の主は高確率で同じ階の住人なのでこのまま表を通り過ぎるのだろうが。
しかしそうタカを括った次の瞬間。真子たちの部屋の、玄関のドアがガチャリと開く音がした。
「うわヤバい、アカンアカンアカン」
嫌な予感はかすかによぎったもののまさか現実になるとは。あまりに急な展開に思考がフリーズした。なんたって家賃五万のこのボロアパートは玄関開けてすぐ右横がダイレクトにバスルームなのである。ただでさえ丸腰全裸なのに。
やはりひよ里を何とかして説き伏せ脱衣所のある物件を選ぶべきだった。何か武器になるものをとひよ里を庇うようにおたおたシャワーホースに手を伸ばすもやはり間に合わず、無情にも浴室のドアが開かれる。
「ひよ里ちゃん!なかなかいいところに住んでるじゃないかい!すぐそこの土手に菜の花がたくさんあったから摘んできたよ!からし和えにしようか!」
真子が情けなくも死を覚悟していると、溌剌とした女性の声が室内に反響した。
「曳舟隊長!」
ひよ里は一瞬驚いた様子だったが真子を押し退けザバリと湯から立ち上がり、目を輝かせ意気揚々と声を上げた。ああ、こうなってはもうダメだ。
「いつ帰ってきたん?」
「今朝さ!ひよ里ちゃんに頼みたい仕事があってね。夕方にでも出発できるかい?」
「よっしゃ!もう今フロ上がったら行けるで!」
「そうこなくっちゃ!」
「いや何勝手に話進めとんの。さっき帰ってきたばっかやん。オレまだお前に言いたいコトぎょうさんあんねやけど……ちょお、聞いとる!?ひよ里!桐生サン!待てやコラッ!!ひよ里ッ!!ひよ里ーーーーーッ!!!」
桐生サンもいる手前おいそれと股間を晒すわけにもいかず、そうこうしているうちにひよ里は手際よくタオルで身体を拭き、濡れた髪もろくに乾かさずそのまま出かけてしまった。
「嘘やろ。行ってもうた……」
叫びも虚しく取り残され、全裸で呆然と佇む。
ああ。根無し草みたァ男とズルズル付き合うてまう女の子ってこんな気持ちなんやろな。
「ひよ里のアホぉ……」
誰が聞いているでもない罵倒はエコーのように浴室に響いて、情け無さに拍車をかけた。
『夏の研究発表会』
真子は学校教材の営業の仕事をしている。そこで仕事の一環としてまあまあお堅い人たちの集まる立食パーティーに呼ばれたことがあり、それがひよ里との始まりだった。もう二年ほど経つだろうか。
植物学の教授である桐生サンのツテでその会に参加していたひよ里は場にそぐわぬ赤ジャージと二つ結びで他の参加者とろくに交流もせずにガツガツと肉料理を貪っており、アカン奴の近くに来てしもうたと思ったのが第一印象だ。
その異質さに関わらん方が身のためだということはわかっていたし、それとなく別の卓に行くことだってできた。なのに真子は、始終そんなひよ里が気になって仕方がなかった。今だかつて自分の周りには、こんな振る舞いをする女はいなかった。単純に、もの珍しかったのだろうか。しばらく手元の皿に乗った料理も気もそぞろに味わいながら眺めていると、無造作に料理にガッついていたひよ里が声をかけてきた。
「アンタ、野菜は好きか」
「何やいきなし。まあ、それなりにやな」
「見てみいあの大皿を。みんな肉ばっか食うて野菜を残しよる」