夏にエアコンが壊れたら「凛ー! りん! りーんー!!」
騒々しい声。けれど俺の好きな声。意識が浮上しかけた俺はそのまま浮き上がるかもう一度沈むかを考える。今日は盆休みの一日目、しかも同棲している男との休暇が奇跡的に重なっている。そして先ほどの騒々しい声の主は、昨日の夜はもっと熱っぽく俺を呼んでいた。外は大雨で、雷も鳴っていて。そんな夜だったからルーティンのランニングに行くことも出来ず、あるいは周囲の家に配慮して声を押し殺す必要もなかった。
『無理させちゃってるから、明日は俺が朝ご飯作るよ。好きなだけ寝てていいし。だからさ……もう一回シよ?』続けて『お願い♡』なんて言われたら、まぁ5回も6回も変わんねぇか、なんて絆されてしまう俺も俺だ。これから起こることも知らずに、自分の順番だったはずの朝ご飯担当をやってくれるならいいかなんて思ったのが運の尽き。まさかその『一回』が3時間もかかるなんて思いもしなかった———いやそんな事はどうでもいい。とにかく主張したいのは、俺には朝ゆっくりとベッドを占領する権利があるという事だ。
ここまで三秒。よし、もう一度寝る。そう決めた俺は再び意識を手放す。台風一過なのだろう、昨夜とは打って変わって明るい陽射しがカーテンの向こうに見えるけれど、それを無視して寝ても良いというこの贅沢。瞑った目の裏にはキッチンにいるはずのアイツの背中が浮かぶ。起きる頃には多分、俺の機嫌取りの為の好物であるプリンと目玉焼き、パンにバター、スムージーが……出来上がって……
「りーん!!」
俺の目の前に現れたのは背中ではなく顔面ドアップだった。最悪な起こされ方をした事に、俺の不機嫌メーターが一気に振り切れる。
「……ンだよ!?!?」
「大変なんだって!!」
「俺の機嫌が悪くなる以上にお前にとって大変な事があるか?」
「ない」
即答。わかってんじゃねーか。俺の不機嫌メーターが標準値に戻る。チッ、と舌打ちをしたのは、わかってて起こしやがったのかというコイツに対する怒りではない。そう答えれば俺の機嫌が少しはマシになるとわかっていたコイツの策略に、まんまとはまってしまった自分に対してだった。
「いいか? 凛、落ち着いて聞けよ?」
「もったいぶってねぇで早く言え」
よく見ればコイツは昨日の夜俺が見上げていた表情と同じくらいに余裕がなく、同じくらいに汗をかいている。思わず姿勢を正すと、ソイツは一呼吸置いて言った。
「……リビングのエアコンが壊れた」
潔に無理やり起こされ、リビングに連行される。ちなみにそんな灼熱地獄のリビングに行きたくない、犠牲は一人で良いと主張したのに『凛が操作したらエアコンも機嫌直すかもしれないだろ?』と意味の分からない反論を許してしまったのは、糸師凛今日一番の失策だったと思う。
「あっつ……」
「な? 言っただろ?」
「てめぇ喧嘩売ってんのか。涼しい部屋で待ってろ俺が今直すから、くらい言えねーのかよ」
「俺は健やかなるときも病めるときも、エアコンが壊れた時も同じ部屋で苦楽を分かち合いたい派だから」
初めて聞いたぞそんな宗派。
「だいたいお前が見つけてきた物件だろ、なんとかしろ」
「ここで残念なお知らせだけど、お盆休みでどの修理屋さんもお休みです」
「つまり?」
「5日間エアコンなし」
膝から崩れ落ちた。既にじんわりと額に汗が滲んでいる。俺はふらふらと立ち上がり、近くて遠い寝室への道を歩き出す。実際は遠くはないのだけれど、この暑い部屋から抜け出すのにはそれ位の労力が必要に感じられた。聞こえるように舌打ちを残して背を向ける。
「待てって! 今朝ご飯作ってるから!」
「作り終わったら向こうの部屋に持ってこい、以上」
「やだー! 暑い! 凛も一緒にいてよ!」
「意味わかんねーよ、何で俺も一緒に暑い思いしなきゃなんねーんだよ! 大体お前が俺に無理をさせるから今日の朝担当がお前になったんだろ」
そう言うと、分かりやすく潔は頬を膨らませた。俺と違って世間を味方につけるのがうまい潔の『真面目な試合中の顔と違ってオフに時折見せるかわいい潔選手』の顔だ。世間の奴ら全員騙されている。昨日の夜の眼光鋭い捕食者の如く威圧的な潔世一の顔を公表してやりたい。いや、俺以外の奴に見せたら殺すけど。
「それが効くのはお前のごく一部のファンだけだからな」
「え、じゃあ凛にも効くはずじゃん」
「俺はお前のファンか?」
「ううん、コイビト♡」
うわー殴りてぇ。
「まぁまぁ座ってよ、とりあえずコーヒー淹れるからさ、そこで俺が熱中症で倒れないか見守ってて。ついでに滞在時間短くしたいから目玉焼き焼いてよ」
「テメェ本音はそこか。腰が痛くて目玉焼き焼けねぇ」
「腰が痛くても目玉焼きだけは焼けるって、盆で戻って来たばーちゃんが言ってた」
「お前のばーちゃんご健在だろ、暑さで真っ先に頭やられたか?」
適当にも程がある。俺はため息をついてもう一度、部屋に向かって歩き出す。
「りーん、良く考えて? 俺がもし熱中症で倒れちゃったらお前は朝ご飯食べる前に救急車で付き添いだぞ? おなかすくぞ? 昨日いっぱい運動してるし結構おなかすいて……痛っ」
「俺の知ってる潔世一は室温30度ごときで熱中症で倒れたりしねぇ。昨日の夜も汗かくほど運動して鍛えてるしな」
「え、凛の口から聞くとおっさんくさくて嫌だ……」
うわー殴りてぇ。
ごめんって、凛はかわいいもんな、なんてほざきながら汗ばんだ手でぽんぽんと頭を撫でられ、ちゅ、とキスをされる。振り切れていた不機嫌メーターが正常値を示し、握った拳を降ろさざるを得なかった。機嫌は直ったけれどなんだか釈然としない。今のどこに機嫌が直る要素があったのか俺にはわからないのに、潔にはわかっているらしいのが一番腹立たしい。
「まぁ、無理させたのは俺だしな、朝ご飯作るって言っちゃったし」
「目玉焼きはなくてもいい。パン焼いてスムージー作ってプリンと一緒に持ってこい」
「はいはいわかった。10分経って物音しなかったら救急車呼んで」
適当にあしらい寝室に戻る。転がっていたスマホを見れば『熱中症警戒アラート』の通知。とはいえ、リビングがダメなら寝室で過ごせばいい。せっかくの重なった休暇、ホラー映画をTVで見ようと思っていたけれどそれは難しそうだから、寝室にタブレットを持ち込んで見る事になるだろう。そうなると絶対に映画を見るだけでは済まない。『凛は怖くねぇの?』とかなんとか言いながらアイツの手が腰に回り『怖いんだけど、俺』と画面なんて全く見てない癖にそんな事をほざき始め、滲む汗と熱い息を隠すことなく———
「……あつい?」
想像していたら体が熱くなってきた。いや違う、この部屋が暑い。つけっぱなしのはずのエアコンを見ればいつもなら点灯しているはずの緑色が消えている。リモコンを手探りで探し電源を入れるが、何も音がしない。
電池切れ? いや違う。この前変えたばかりだ。コンセント……ちゃんと差し込んである。まさか。
その時勢いよく寝室の扉があいた。
「りーん!!」
なんだか既視感のある光景だ。けれど違うのは今回は『何か大変な事が起きている』事が俺にもわかっているということ。
「ごめん! プリン無かった!」
「プリンは今どうでも良いんだよ! 良くねぇけど! これどーなってんだ?!」
「あぁ。それなんだけど」
潔は悟りを開いた顔をしていた。額の汗がきらきらと光って、穏やかな笑顔を浮かべているのがかえって怖い。そういえばこのさわやかな好青年の演出も一部ファンには効いてたな、なんてどうでもいい事が頭をよぎる。
「昨日の落雷でブレーカーがやられたらしくて、電気系統全部死んでる」
「……つまり?」
「家中のエアコンも冷蔵庫もTVも全部死んだ」
「……管理会社は?」
「もちろんお盆休み。盆明けまでは何もできないなぁ」
くらくらしてきた俺はベッドに倒れこんだ。いっそ熱中症なら今すぐ涼しい病院に連行してもらえるのかも、そんな不謹慎な事を考えた俺に釘を刺すように「俺の知ってる糸師凛は室温30度ごときで倒れたりしないからなー」という声が降ってきた。
結局、家からの脱出を画策した俺たちはスマホで近隣のホテルを必死で探す事を選択する。時期はお盆。ほとんどが満室なうえ、スマホの充電は夜中に中断されていた。残り数パーセントの充電を駆使してなんとか数日間のホテル住まいを勝ち取った俺たちは、謎の連帯感と達成感、そして暑さによる倦怠感に包まれて、波乱のお盆休みを迎えることになった。