正気の沙汰じゃねェ!!! はぁ、はぁ……と息を切らすは空の上。
既に夜も更けて闇空の中、月明かりだけが穏やかに辺りを照らしていた。
最近は暖かくなってきたと言えど、矢張り夜はまだ少し肌寒い。黒い外套を身に寄せて、漸くひとつ息を吐いた。
「はぁ、……ここまで来れば、流石にあの糞鯖も来れねェだろ……」
俺の身体を蝕むのは体力どうこうよりも、精神的な疲弊だった。
如何して俺がこんな目に……
そう項垂れながらも、ふつふつと感じるのは確かな怒り。
俺の災難の原因は九分九厘、彼奴に決まっていた。そして今回も例に漏れず、話は数分前に遡る――
*
数日に掛けて混み合っていた仕事が漸く落ち着き、日付が変わると同時に帰路に着いた。
明日は久々の休日。流石に疲労も溜まっていたが、気持ちは少し軽やかだ。夜食と共に葡萄酒も開けてしまおうか。明日は買い物に行って、掃除もして……と充実した休日を想像し、自然と鼻歌が溢れる。
だか、そんな浮かれた気持ちが続いたのは一瞬で、家に着いて扉を開けた瞬間に、無慈悲にも無に帰したのだった。
当然明かりの着いていない玄関。靴を脱ぎながらも手探りでパチンッと電源を付けると、パチパチと数度瞬いた電気の眩い光で部屋が照らされる。その瞬間、足元を見ていた視界に、確かに『何か』が映り込んで、俺は勢い良く顔を上げた。
「ッ!?」
「お帰り〜中也♡」
油断していたと言うのもあるだろうが、視界に捉えるまで全く気配はしなかった。
俺が視界に捉えた『何か』は、忌々しくも御機嫌に、気味の悪い程の笑みを浮かべた『あの男』だった。
「なッ!? 何で居やがる糞太宰!!」
「何で? 何でってそんなの中也に会いに来たに決まっているでしょう? はい、お帰りのぎゅーは??」
「誰がするか!!」
「キスでも良いよ?」
「イカれてンのか!?」
変だ。普段からちゃらんぽらんでいい加減な奴ではあるが、少なくても俺相手に抱擁だとか、接吻だとかを強請るようなそんな事は、決してするような人間では無い筈だ。
「全く照れ屋さんだなぁ。そんな所も愛らしいけれど」
ブワッと全身に鳥肌が立つ。
可笑しい。今日の太宰は、絶ッ対に何処か可笑しい。疲れているのだろうか。若しくは俺が疲弊していて、此奴自体が俺自身の幻覚幻聴なのでは……
「中也、如何したの?」
「ッな、何でも……」
眉間を押さえていると、不思議そうに首を傾げて太宰の手が俺の頬に触れる。
俺は吃驚して、思わず反射的に後ろへ飛び退いた。
「……いつにも増して可笑しいぜ、太宰……変なもンでも食ったのか?」
心配と言う訳では無く、未知への恐怖から俺は恐る恐るそう尋ねると、太宰は一瞬「変な物?」とキョトンとして、直ぐに思い出した様に手をぽんっと叩いた。
「今朝、仕事の一環で山菜採りに行ったのだけれど、その時に良さげなキノコを見つけてね。如何にも毒々しい見た目のキノコだったから、今度こそ! と思って食べてみたのだよ」
「其れだ」
絶対に其れが原因だ。毒キノコで自殺しようとした天罰と言う事か。天罰……俺にまでかなりの罰なのだが?? そんな事まで巻き込んできやがる此奴は、本当に如何しようもねェな……でもそれなら、吐き出せば治ったりするんじゃ―― カチャンッ
「…………は??」
鳴り響いたのは、確かな金属音。
俺はその音と共に、重くなった手首に目をやる。そこにあったのは、手錠。それも中々重厚感で、手錠の中央から伸びた鎖は太宰の手の中にあった。
「はァ?! おい、糞鯖ッ……何のつもりだ!?」
「え? 何って、犬にはリードが必要でしょう?」
太宰は笑顔だ。それはもう、気味の悪い程に。だが、矢張り何か可笑しい。笑っている筈なのに、纏う雰囲気は何処か刺々しくて、其れでいて怒っているのとは何か違う。
……心臓が嫌に五月蝿い。
俺の手首から太宰の手に伸びた鎖が軽やかな音を立てて揺れる。薄く開かれた瞳は、全く持って色持っていなかった。
「中也ってば私からの電話にも出なければ、メッセージも見ないんだもの。それならもう直接会いに行くしか無いし、それならもういっその事近くに置いていた方が手っ取り早いし、君も喜ぶと思ってね? 」
「誰が、」
「それと今日、君が見知らぬ男と親しげに歩いている所を見掛けてしまってね。私の犬で有りながら他の人間に尻尾を振るなんて、随分と自覚に欠けているじゃないか? まぁ、どうせ君は『仕事だから仕方なく』とでも言うのだろうけど、そんな事は関係無いよ。分かるよね??」
「ッ、だざ」
「私はこんなにも君を想っているのに、真逆拒むだなんて言わないよね? まぁ、元からそんな権利君には無いのだけれど。でも可哀想な駄犬はそれが何一つ理解出来ていないらしいね。だから今日から毎日身をもって分かってもらおうと思ってさ。正しく生きていく為に躾をするのは飼い主の義務だからね」
にこにこと変わらぬ笑顔のまま、饒舌に良く回る舌は止まることを知らない。
ジリジリと近付いてくる太宰から無意識に後退る。昔ですら見たことの無い太宰の様子に、嫌な汗が止まらない。
一歩、一歩と下がった足は、遂に背後の扉にコツンと当たる。手首にぶら下がる手錠の鎖が、カチャカチャと金属音を響かせる。
深淵のように真っ暗でいて、蜂蜜を煮詰めたように酷く甘い太宰の瞳が、じっとりと俺を見詰めた。
「 ――君は私の犬。そうだよね? ちゅーや♡」
「うわあああああ!!?」
混乱、困惑、恐怖。その他諸々の感情が全身に襲い掛かり、俺は思わず悲鳴を声を上げてしまう。
考えるよりも先に、全力で手錠の鎖を引き千切る。所謂、防衛本能と言う奴だった。自由の利いた腕を使い、必死の思いで外へ飛び出す。呼び止めてくる太宰を無視して、宙を舞い、家の屋根から屋根へと駆け抜け、どうにか太宰の目から己を遠ざけたのだった。
*
――こうして太宰から逃げる為に空中で息をついていたのだった。
如何やら得体の知れぬキノコを食べて、太宰の頭は完全にイカれてしまったらしい。
如何したものかと頭を悩ませる。
このまま寒空の中で一夜を明かすのは、疲労の溜まった身体には流石に堪える。だが今、家に帰ったら確実に先程の状態に逆戻りだ。
仮に、他のセーフハウスに逃げた場合――
「お帰り、中也♡」
駄目だ。却下だ、即却下だ。
屹度どのセーフハウスに逃げ込んでも結果は同じ。何故か当然のように居座っている太宰がにこやかに微笑んでいる様が容易に想像出来た。
それなら酒場はどうだろうか。馴染みの酒場が―― ……否、屹度無駄だろう。そもそも酒場に行ってしまえば飲酒は待った無しだ。今酔っ払いでもしてみろ。浮ついた景色の中で抵抗も出来ず彼奴のお迎えからの即強制送還……それこそ本当に待った無しだろう。
寧ろ幹部室へ戻るか……仮にも探偵社なら敵の組織にそう易々と顔を出す訳―― ……否、これも無しだ。今の彼奴ならやりかねないし、最悪の場合、組織に迷惑をかけてしまう。それだけは絶対に駄目だ。
「〜〜ッ、クソ……」
他の方法は無いのかと必死に思考を巡らせる。姐さんや広津、立原に匿ってもらう、若しくは首領にお力添えを頂き新たなセーフハウスを調達する、其れかいっその事船にでも乗って意味も無く遠出して日が過ぎるのを待つ、だとか……色々考えたが、どれも却下だった。いくらあの太宰から逃げる為だと言えど、周囲に迷惑をかけるなど論外だった。
暫く如何にか出来ないかと考えた。が……本当に、本ッ当に、心の底から気に食わないが、どう頑張っても俺の行動を先読みして「お帰り♡」と笑う彼奴の姿が想像出来てしまった。
夜も更けて、何れ日が昇る。
明日は奇しくも久々の休日で、俺は自分の家に帰る他無かった。
休日出勤などしてみろ。首領……と言うよりも、姐さんが鬼の形相で「少しは休まんかッ!!」と容赦無く刀を抜くだろう。峰打ちだが、既に数度やられて強制的に休まざる負えなくなった事がある。正直、あのイカれた太宰と怒る姐さんの何方が恐いかと聞かれたら、太宰の方がマシなのではとすら思う程だ。
「クソッ……何で俺があの陰険唐変木野郎に怯えなきゃならねェんだよッ!!」
暫く悩み考えているうちに、確かな怒りが湧き上がる。抑、疲労はどうに限界を迎えているし、帰ったら葡萄酒でも開けてのんびりと、だとか考えていたのだ。それなのに、あのイカれ太宰の所為でこんな思いをしなければならないなんて……ッ!!
苛立ちに腕を振り上げても空に当たるものなんて一つもなくて、文字通り虚しく空を切る。
……もう、太宰も諦めて自分の家に帰っているかもしれない。
そう微かな希望を考えるが、本能が止めろと激しく主張する。かと言って、このまま逃げて空で日を明かすのも癪だ。
……俺は考え抜いた末、諦めと希望を半分に、地下にある緊急避難用のセーフハウスへと向かう事にした。
勿論、そこも太宰に知られている可能性も十分にある。それでも、そのセーフハウスは偶然にもつい昨日仕入れた所だった。だから他の場所に比べれば、彼奴が知っている可能性は低い、はず…………
「ッ〜〜……」
考えている間に、部屋の前に着く。
酷く五月蝿い心臓を飲み込み、俺は恐る恐る部屋を開けた。
抑、俺自身も立ち入るのはこれで二度目だ。そんな場所だが、矢張り太宰が知らないとも限らない。……彼奴はそう言う奴なのだ。
ゆっくりと開いた扉の先には、広々とした綺麗な室内。足を踏み入れる前に、全力で彼奴の気配を探る。部屋の中、浴室、クローゼット、寝室―― 全ての場所を厳密に探るが、彼奴の気配はしなかった。幾ら気配を消しているとしても、これだけ警戒して探したのだ。もし仮に居るのだとしたら少しは感じ取れる筈……
一通り気配が無いことを確認し、次に全ての場所を目視で居ないことを確かめると、漸く安堵の溜息が零れた。
「…………はぁ……」
ここは厳重なセキュリティが施されているし、部屋もオートロック。幾ら手癖の悪い彼奴と言えど、ピッキングが出来ないんじゃあ、侵入してくる事も無いだろう。
「……クッソ疲れた…………」
風呂に入るのも億劫だ……朝に済ませればいいだろう。
適当に服を着崩してベッドに身体を沈めると、あっという間に睡魔が襲う。
思っていたよりも身体は疲れていたらしく、俺はそのまま抗うことなく瞼を下ろした。
*
何だか僅かに息苦しくて、目が覚めた。瞼を開けると見知らぬ天井……俺はハッとして勢い良く身体を起こそうとする。
「ッ、はァ!? ンだ、これ……」
両手足には左右を寝台へ繋ぐように付けられた手錠。
俺は大の字で寝台に寝かされていて、起き上がることは出来なかった。
首元には緊く締められた普段の物とは違った首輪。その首輪からリードの用に伸びた鎖は寝台の下へと垂れている。
手錠は対異能用らしく、引き千切ろうとしても不思議と異能は発動しない。素の力でどれだけ力んでも壊れることは無かった。
辛うじて余裕のある首を動かし辺りを見渡すと、部屋は見るからに無機質で、寝台と小ぶりの棚が一つだけ。窓は無く、壁も床も混凝土。
扉も如何やら頑丈そうだ。内側にも厳重な鍵が見て取れる。
今のところ太宰の姿は無い。だとしても、こんな事をするような奴は彼奴しか居ないだろう。
不意に、扉の向こう側からカチャカチャと金属の音がし、それが鍵を開けている音だと気付き俺はハッとした。
――逃げなくては、彼奴が来る前に!!
そう思って力一杯に手足を動かすが、ガチガチと音を鳴らすばかりで一向に外れそうにない。異能力も矢張り発動せず、何度やっても無意味だった。
カチャンッ、と軽やかな金属音。そして厳重な部屋の扉がゆっくりと開き、俺は息を呑む。
「あぁ、もう起きたのかい?」
「ッ……太宰……!」
不気味な程にこやかな笑みを浮かべる太宰を、俺はキッと睨み付ける。それでも何ともないような顔をして、太宰はゆっくりと此方へ近寄ってきた。
そんな太宰から逃れる為に後退ることも縮こまる事も出来ない。
「ッ、おい! ッン!!?」
突然だった。
首の鎖を強く引かれ、喉が閉まる感覚に呻く。そして反論をする間もなく、その唇を塞ぐように唐突に接吻をされた。
咄嗟に開いていた口を閉じる。人並外れた反射神経が功を奏して、太宰の舌の侵入を防ぐと太宰は開くように催促するみたいに俺の唇を撫でた。
「〜〜ッ!!」
鎖に引っ張られながらも必死に顔を背けるが、後を追うように太宰の唇が触れる。
そのうち唇から頬、耳から額……あらゆる箇所に口付けが降り、それでも俺は首を振って身を固めた。
如何にかしても逃げようとする俺に、太宰は「はぁ……」と明確に溜め息を吐いた。
はぁ、じゃねェんだよ!!
そう叫び出して殴り掛かってしまいたかった。それでも手足は自由が効かず、首ですらも鎖を引かれて退けられない。
グイッと強く首輪を引かれ、顔が上がる。
太宰の瞳と目が合う。真っ黒で、確かな感情を感じられないその瞳は愉しそうに歪んでいる。
「ッン!?」
不意に、太宰の手が俺の鼻を摘んで塞いだ。
首を捩っても鎖を引かれ逃れられず、確りと。
息が出来ず苦しくて、手足を動かしても虚しくガチャガチャと音が鳴るだけで、体が自由になることは無い。
〜〜ッ何考えてンだ、此奴……!?
頭は完全に混乱して、グルグルと回りだす。
必死に耐えるも遂に酸素が足りなくなって、目には涙が滲む。
「ッはぁ、ンんッ!!」
俺は耐え切れずに、酸素を求めて口を開いた。その瞬間、太宰の唇が再び触れ、舌が入り込む。反射的に噛み付こうとしたその僅か数秒―― 俺の口内へ、唾液と共に“何か” が送り込まれて、喉奥へ……そのまま、こくんと飲み込んでしまった。
残念ながら噛み付く前に引っ込んでしまったが、それ所では無い。
「ッおい! 何飲ませやがった……!!」
「君でも効くような筋弛緩作用がある薬だよ。ついでに媚薬も一寸だけ」
睨み付けるも太宰は愉快に笑い、ばさりと砂色の外套を脱ぎ捨てる。
「効き始めたら手足も外してあげるからね」と微笑む太宰の目は完全に据わっている。
正気じゃねェ……!!
ゆっくりと乗り上げ、太宰の手が俺の身体に触れ、服の釦を外し始める。
愈々拙いと焦った俺は、必死に叫んだ。
「この糞鯖ッ、いい加減に腹ン中のモン吐き出してさっさと正気に戻りやがれ!!」
「何を言っているんだい? 私は初めから正気だよ」
ぷつぷつ、とひとつずつ確実に釦が外されていく。
早くも体の力は入りずらくなっていて、手足を動かすことも儘ならない。
「はァ!? 何処が正気なんだよ!! 手前は今朝変なキノコを食って、」
「うん。確かに食べたよ。以前食べた物とは違う種類だったから、若しかしたらと思ってね。……でもあれは死ぬどころか吐き気を催すばかりで苦しくて堪らなかった。全く酷い目にあったよ。矢張りあの自殺方法は良くないみたいだ」
確かな声色で、太宰はそう言った。
俺の体はピシリッと固まり、理解出来ずに瞬きも忘れて太宰を見詰めた。
「…………手前、何言って……」
太宰は不気味な程にご機嫌な笑みを浮かべている。
あぁ、この顔は知っている―― 太宰が俺に嫌がらせをする時の、あの笑顔だ。愉しくて仕方ないと、そう無邪気に笑う子供のような。
「私は別に『キノコの所為で』だなんて、一度も言った覚えは無いけれど??」
「――ッ!!」
いつの間にか完全に寛げられた襯衣。
肌に直接、太宰の冷たい掌が触れ、つぅーと腹筋を沿うように指先が遊び、俺の身体はビクリと跳ねる。完全に、恐怖からの過剰反応。
いつになく紅潮した頬。そして真っ黒に熱を持った瞳は愉しげに歪み、うっとりと俺を見詰めていた。
「さぁ、躾の時間だよ。ちゅうや♡」
「ヒッ……!!」
恐怖で情けなく喉が引つるのを感じながら、俺は絶望に泣いてしまった。