それはとても大切なものヌヴィレットの手にある一つの懐中時計。
これはかつてフリーナがくれたものだ。
『最高審判官になったのだから持ち物も高価なものがいい。というわけで僕からのプレゼントだ』
そう言って自信満々に出てきた小包の中に入っていたのがこの懐中時計だった。
デザインは細やかでクロックワークマシナリーによって的確に時を刻む懐中時計。
ヌヴィレットにとって、この時計はフリーナと過ごした大切な時間を刻んできたものでもある。
しかしだ。今日、懐中時計を開くと精密に時を刻んでいた時計が止まっていた。
形あるものは壊れるのだとヌヴィレットだって知っている。だがこの懐中時計が止まったことはヌヴィレットにとってフリーナと刻んだ時を奪われたようなそんな気がしてしまい、心が落ち着かなくなった。
外はヌヴィレットの感情を表したかのように雨が降り始め、窓に大粒の雨が打ち付けて水滴となり垂れている。
それはまるでヌヴィレットの涙のような……そんな気がしてしまうほどの雨だった。
フリーナは本日、次に公演する舞台の監修の仕事をしていた。
監修の仕事が一段落し、後は本番を待つだけとなり、買い物をして帰ろうとフォンテーヌ邸を歩いているといきなりの大雨になった。
「何なんだ全く!さっきまで晴れていたじゃないか!」
フリーナは空に向かって文句を言いながら近くの店の前で雨宿りをする。
空はさっきまでとは様変わりして、どんよりと重く黒い雲が掛かっている。
フォンテーヌではにわか雨は良くあることだ。
なにせこの国には水を司る水龍がいるのだから。
ヌヴィレットの感情一つで雨が降る。
しかし最近はこのようなにわか雨は無く晴天か自然的な雨ばかりだった。
「水龍…水龍…泣かないで」
フォンテーヌに伝わる言葉をフリーナは口にする。彼女がこの言葉を直接口にしたのは五百年の人生の中でないと思う。
なんとなくヌヴィレットがこの言葉を嫌がっているような気がしていたからだ。しかし彼と離れ、こうして人の人生を歩むと、この言葉を口にしたくなる時がある。
『きっと僕らは、近くに居すぎて距離の取り方が分からなくなっていたんだ』
近くにいるからこそ分からなくなることもあるのだとフリーナは知った。
離れてみるもそれが互いに良いこともあるのだから……
しかし先程から雨足は強まるばかりで止む気配はない。
「コホン。仕方ない。この大スターフリーナが慰めに行こうじゃないか」
自分を鼓舞するように囁きフリーナは雨の中を歩き始める。
なんとなく、ヌヴィレットに会うのは緊張してしまうから、こうして鼓舞するのだと自分に言い聞かせながら、パレ・メルモニアに向かったのだった。
フリーナがパレ・メルモニアに着くと、ヌヴィレットの執務室前に人だかりが出来ていた。
「どうかしたのかい?」
「フリーナ様!!」
「おっと……ど、どうしたんだい?ヌヴィレットになにかあった?」
フリーナが人だかりに声をかけると一人の女性がフリーナに近寄り彼女の手を強く握った。あまりの勢いの良さにフリーナは少し下がってしまうが、なんとか体勢を取り直し、彼女に尋ねた。
「それが、ヌヴィレット様が部屋に籠られてしまいまして……」
「え?」
「先程、部屋をノックすると、本日私は籠るといい初め……」
「な、なんだって!?」
いやいや有り得ない。あの堅物なヌヴィレットが部屋に篭もるなんて言うはずがない。
そう思うフリーナだが、皆の顔を見るに嘘では無さそうだ。
まさか本当に?本当に?
最高審判官が部屋に篭もる事態なんてスティームバードに知られたら明日の新聞の一面紙になってしまう。それだけは阻止しないといけない。
「コホン。状況は把握したよ。僕がヌヴィレットと話をするからキミたちは持ち場に戻ってくれるかい?」
「本当ですか!フリーナ様!!」
「ああ。この大スター、フリーナに任せたまえ」
「ありがとうございます!これでパレ・メルモニアは今日も平和です!」
人々はそう言ってフリーナの命令通りに持ち場に戻っていく。
とりあえずは第一関門突破だ。
そう思いフリーナはヌヴィレットの部屋のドアをノックするが返事は無く、仕方なくドアを開けて中に入ると、ヌヴィレットは椅子に座り空を見上げていた。
フリーナからはヌヴィレットの背中しか見えないがその背中はあまりにも元気が無く見えた。
「やぁ、最高審判官殿。キミが引き篭ったと職員達が嘆いていたけどなにかあったのかい?」
「フリーナ殿か……」
フリーナが話しかけるとヌヴィレットはフリーナをみて小さく彼女の名前を呼ぶ。
「実際は、いきなり雨が降りだしたからキミに何かあったのではないかと思って会いに来たんだよ」
「そうか。すまない。雨に濡れて気持ち悪くはないだろうか?君は今は人の身である為…風邪というものを引くこともあると聞いた」
「体調の方は大丈夫だけど、君こそ職員を心配さたり、雨を振らせてみたりしてなにがあったんだい?」
フリーナの問いかけにヌヴィレットは少し目を細め、そして手に握っていた懐中時計を見せる。
「これ、僕がキミにあげた……」
「そうだ。君が私にくれたものだ」
はるか昔、ヌヴィレットにプレゼントした懐中時計。
デザインが良く、ヌヴィレットに似合いそうだと思ってプレゼントした。
しかし精密に時を刻んでいたはずの懐中時計は今は十時の所でその動きを止めていた。
「まさかキミ…この懐中時計が止まってショックで引き篭ったのかい?」
そんな馬鹿な話があるわけないと思いながらも尋ねるとヌヴィレットはうなづいた。
ヌヴィレットが人間らしくなったことは喜ぶべきなのだろうけど、そんな事で引き籠ったなんて職員にすら言えるわけがない。
それに時計はただの電池切れで、クロックワークに詳しいものに頼めばすぐ直る。
「えっと…ヌヴィレット……時計なら直るよ?」
「本当か?」
「う、うん。多分電池が切れているんだ。だからクロックワークに詳しい人に頼めば簡単に直ると思う」
「そうだったのか…良かった」
しかしまさかヌヴィレットが時計一つでここまで大変になるとはフリーナも思って居なかった。
ふと窓を見れば空は晴れており、ヌヴィレットの機嫌が良くなったことが伺える。
「キミ、人間らしくなったね。嬉しいよ」
「そうだろうか?」
「そうさ。けど、物が壊れたぐらいで引きこもられたら困るよ」
「これからは気をつけよう」
フリーナは頷き、そしてヌヴィレットの手を取り執務室から一緒に出る。
パレ・メルモニアの中のものに直してもらうことは気が引ける為、フレミネに頼むことにした。
フレミネは驚きながらもフリーナとヌヴィレットの頼みを受け入れ、数日後には懐中時計はまた精密に時を刻み始め、ヌヴィレットの元に戻ってきた。
「良かったね。しかし、キミ、その懐中時計気に入ってたんだ」
懐中時計が直ったとフレミネが報告してくれてフリーナはヌヴィレットに会いに来た。
ヌヴィレットは懐中時計を眺めながらフリーナを見る。
「どうしたの?」
「君と過ごした時間が、この懐中時計には詰まっているような気がした」
「僕と過ごした時間?」
「ああ。君と共に過ごしたあの時間は私にとっては悪いものでは無かった。だからこそ、懐中時計が止まった時、その時間が奪われたような気がしたのだ」
ヌヴィレットにとって僕と過ごした時間が有意義なものだったとは知らなかった。
それに今の言葉、人に寄ったら告白と間違えられそうだ。
そう思いながらフリーナはヌヴィレットを見る。
「フリーナ?」
「ありがとうヌヴィレット。キミがあの時間をそう思ってくれている事が嬉しいよ」
フリーナは微笑み、ヌヴィレットもつられて小さく微笑んだ。
暖かな時間が今日の執務室には流れており、フリーナはもう少しこの時間が続けば良いと思ったのだった。
end