「幸せの泥濘」第六話ちょうど仕事がひと段落して手が空いた。アベルを消しにいくにはいいタイミングだ。セルは一度自宅に戻り、女に声をかける。
「おい、これからアベルを殺しに行くが、お前も着いてくるんだよな」
女は顔色一つ変えずに、ただいつも通り、まるで買い物にでも誘われたかのような声音で答えた。
「ええ、ええ、行きますとも。お別れをしにいきましょうね」
人を殺す場面を見せる、というのは女にとってショッキングなものにならないか、と考えたところで、こいつも殺人犯だったなと思いなおす。女の手は血に染まっているはずなのに、それでもどうもこの女を穢れなき存在と誤認してしまうときがある。美しくて、柔らかくて、そして静かに狂っている。セルは、これから人を、それも仲良く話していた人間を殺しに行くというのに淡々とでかける準備をする女に、不気味さを覚えた。でも、それと同時に安心もしたかもしれない。女も、こちら側の人間であることに。人を殺すことをいとわない、悪だということに。
「お前、本当にそれでいいのかよ」
アベルを殺していいのか、という意味だったろうか。それとも、こちら側の人間でいいのか、という意味だったのか。セルは「それ」の意味を説明しなかったが、女は穏やかに、全てわかったかのような顔をしていた。
「いいんですよ」
女は小さなクラッチバッグに口紅を入れた。
「もう、今更……」
女の瞳が深く絶望に染まったような気がした。
―幸せの泥濘 第六話―
セルは女を連れてイーストンへ行った。セルは変身魔法を使い、女にはレアン寮の制服を着せた。廊下を歩いている途中、レイン・エイムズに遭遇した。レインは険しい顔でこちらを睨んでいるが、所詮取るに足らない相手だ。セルに向かって打ち出された剣を、魔法で弾き飛ばす。
「イノセント・ゼロ……一体この学校に何の用だ」
女はひっと小さく悲鳴を上げると、セルの後ろに隠れる。肝が据わっているのかいないのか、こいつの恐怖の基準がよくわからない。
「探し物だよ」
セルは猫撫で声で答える。かばうつもりはないが、女の前に一歩でた。
「とっても大切な探しものをしているんだけど、全然見つからなくってね……」
セルは困ったような素振りを見せる。なるべく大仰にふるまって、そう、女に目がいかないように。と思ったがそうもいかず。
「その女は誰だ?」
レインの刃が女に向けられる。女は無駄だとわかっているだろうに、シャボン玉状のバリアを張ってふるふると震えていた。
「この女は関係ない!……僕が個人的に雇っている小間使いだ」
思ったよりも大きな声がでてしまう。レインはこの女は敵にならないと判断したのか、女から意識を外す。そうだ、それでいい。セルは話を続ける。
「アベルに探させてたんだけど、ちっとも見つけられなくて……」
ぎろりと睨みつけてくるレインをものともせず、セルはこつんと頭に拳を当てる。
「おっと、いけない。アベルを殺しに行かなきゃいけないんだった」
セルは女の手を取るとふわりと宙に浮く。
「相手してあげられなくてごめんね。……おい、行くぞ」
セルはレインに脱走させた死刑囚をけしかけると、宙を舞ってアベルのもとへ急ぐ。
「セル様って初対面の人の前ではあんなかわい子ぶるんですねぇ」
意外そうにそう言う女に、うるさい、と一言言うと速度を速めた。
「やあ、アベル」
周りにいた雑魚どもを吹き飛ばして、アベルの前に降り立つ。
「セル、それにジーン……」
アベルはかなり大きなけがをしていた。女は心配そうにアベルをのぞきこむ。
「まあアベル様、ひどいけが。すぐに手当をしないと……」
ああ、と女が言葉を切る。
「もう死ぬんだから、大丈夫ですね」
あー、そうか、この女は壊れてしまっているんだな、とセルは思った。たぶん、夫を殺したあの日に、人間として備わっている何かが壊れてしまったのだ。アベルは変わらぬ表情で、じっとジーンを見つめていた。
「まあ、そういうことだ。お前はもう必要なくなったんだよ」
「それでは、さようならアベル様」
セルはアベルの手を操ると、自らの手で首を絞めさせる。これで終わりだ。帰りにケーキ屋にでも寄って帰ろう、と思ったら。空気の読めない黒髪の少年が部屋に入ってきた。とたんに、痛みだす頭。まさかこいつが探し物、なのか。まあいい、とセルはアベルに向き直る。アベルを魔法で貫かんとしたその瞬間、肩に衝撃が走る。魔法の軌道がずれた、と思った時、アベルの横から影が飛び出してきた。
「まあ、アビス様」
炭素はアビスの腹を貫き、血が噴き出した。女はそんな様子を見てもけろりとしている。
「アビス様ったら、アベル様を庇って?なんてけなげなんでしょう」
女は心の底からそう思っているようで、感動したふうに涙ぐんでいた。セルはちっと舌打ちをする。
「キメェんだよ、そういうの」
僕にはなにもないのに、お前だけなんでも持っていて、ずるい。そんな子供じみた感情だったと思う。セル自身は気づいていなかったが。さっさと死ね、と次の魔法を放つ前に、黒髪の少年が地面を強く踏みつけ、浮いた石をこちらに蹴り飛ばしてきた。
「セル様!」
女が叫ぶが、こんなものどうってことない。
「なんだ?お前も殺してほしいのか」
パフォーマンスのため、セルはぺろりと石を舐めた。
「えっ、なんで石舐めたんですか」
黒髪の少年から冷静なつっこみがはいる。
「その口で私にキスしないでくださいね……」
女が余計なことを言う。普段キスしてる仲だってばれるだろ、やめろ、お前はただの小間使いだバカとセルは心の中で叫ぶ。それを見透かしたようにアベルが口を開いた。
「君たちがそういう仲だってことなら知ってるけど……」
この女、アベルたちの前で余計なこと言いやがったな、とセルは女を睨みつける。女はばちんとウインクしていた。
「じゃあ、二人は勝手に仲良くしててください。僕は仮面さん病院つれていくんで」
「おい、そういうわけにはいかないだろ」
セルは女に小さく隠れてろ、と言う。女はこそこそと柱の陰に隠れた。セルは黒髪の少年と交戦に入る。こんな雑魚、パワーで押しきれる、そう思ったセルは炭素の塊を乱打して、黒髪の少年を追い込む。
「不憫なもんだな、大切なものひとつ守れやしない」
セルはそうあざ笑う。守ろうとしてくれる人すらいない自分の人生から目を背けるように、高笑いした。
「とどめをさしてやるよ」
魔法の出力をあげ、黒髪の少年を殺しにかかる。それを守ったのは、アベルの人形だった。
「奪うものと奪われるもの、奪われまいと足掻くのも弱者の権利だ」
くだらない、くだらない、くだらない。セルは腹立ちまぎれに人形を破壊する。
「この程度で僕に敵うと思ったのか?」
さあ、今度こそ終わりだ。そう思った瞬間、人形のかけらから黒髪の少年が飛び出してきた。その拳をもろに顔面に受ける、女の悲鳴が聞こえた。しかしどうってことないことだ。とっさに表皮を固め、身を守る。
「まぁいいよ、それならこれを使うまでだ」
セルは魔返しの鏡を取り出す。黒髪の少年はためらうことなく足を振り上げ。
「セル様危ない!その子はっ……」
女がとっさに飛び出してきて、こっちに手を伸ばした。それと同時に、黒髪の少年の蹴りにより鏡が破壊される。飛び散った鏡の破片が、女の伸ばしたその腕を切り裂いた。
「セル様、そ、その子は魔法を使ってません……!」
その場にいた全員が固まる。今までの全部生身で、ファンタジーだろそれは、という言葉が誰からともなく漏れた。女の腕はざっくりと深く切れていて、セルは眉間にしわを寄せる。足手まといめ、お前がいなければなんてことなかったのに。
「あの……ごめんなさい……」
謝る黒髪の少年を無視して、戦闘に戻ろうとしたセルに、アベルが声をかける。
「放っておいていいのか、大切な人なんだろう」
「はっ、なにが大切なもんか、こんな女……」
僕を守ろうとしてくれたんだよな、とセルはふと思う。自分を庇おうとして女は物陰から飛び出してきたのだ。あの時のアビスのように。自分にも、守ろうとしてくれる人がいた、ということがセルの心を揺り動かした。
「セル様、ごめんなさい……」
小さく謝る女を見て、セルは魔法で自分の服の袖を切り裂くと、傷口に当て強く結ぶ。女を抱き上げて、ふわりと宙に舞った。
「ふん、今日はこのくらいにしておいてやるよ」
セルは忌々し気に黒髪の少年を睨む。
「……僕の名前はセル・ウォー。そのうちまた会うだろうね」
女の出血がひどい、布に血がにじむ。セルはそのまま病院へと飛んだ。
傷は綺麗にスパッと切れていたらしく、数針縫うだけにとどまった。不幸中の幸いと言うべきか。家に帰り、テーブルに向かい合って座る。包帯を巻いた女の腕を見ながら、セルはため息をついた。
「セル様……本当にごめんなさい、私がいなければ……」
お前が無事でよかった。そんな一言がでてこないセルは、もう一度深くため息をついた。
「……二度と仕事についてくるなよ」
「……はい」
セルは立ち上がって、ベッドルームへ向かう。
「もう休むぞ」
いつもの元気はどこへやら、しゅんと沈みっぱなしの女になんて声をかけていいものかわからず、セルはベッドに潜り込んだ。ほどなく、女もベッドに入る気配がする。おやすみのあいさつも交わさずに、きまずいまま眠りに落ちた。
翌朝、セルが起きるころには、女は普段通り朝食を作っていた。女が怪我をしたのは右腕だ。セルは女からフライパンを取り上げる。
「傷、痛むだろ」
「でも……」
「怪我が治るまで家事は控えていい、できることだけやれ」
セルは女の代わりに朝食を作る。女よりかは劣るが、セルだって一人暮らしをしていたのだ、一通りの家事はできる。少し不格好な朝食の皿を、女の前に置く。
「ありがとうございます……」
沈んだ声で女は礼を言い、小さく手を合わせると、焦げたベーコンをかじる。食欲もあまりないのか、いつまでも目玉焼きをこねくり回していた。気の利いた励ましの言葉なんてでてこないセルは、ばんと机をたたく。女から箸を取り上げると、目玉焼きの白身の部分を掴んで女の口にねじ込んだ。
「あー、もう、鬱陶しいんだよいつまでもめそめそと!」
調味料のかかっていない白身をもそもそと咀嚼し飲み込んだ女は、突然の大声にびっくりして目を見開く。僕はあの時お前が飛び出してきてくれたことが嬉しかった、とか、お前に怪我をさせてしまったことを悪いと思っている、とか、考えてることがなにひとつ口からだせなくて。たったひとつ言葉にできたのは。
「……お前の笑顔が見たい」
「せる、さま……」
女はぎゅっとセルの手を握った。ぽろりと涙をこぼす。そして、ぎこちなく笑った。
それから数か月して、イノセント・ゼロがイーストンを襲撃する運びとなった。女の腕の傷は塞がっていたが、約束通り女は家で待っていた。イーストンにて、セルは黒髪の少年、マッシュ・バーンデッドと再びの交戦にはいったが、結果は敗北。マッシュに締め落とされ、意識を失うその瞬間。
「セル君」
知らない男の声で名前を呼ばれた気がした。意識がうっすらと浮上する。これは夢だろうか。花畑のようなところで、見知らぬ男がこちらに手を振っていた。柔和な雰囲気で、聡明そうだ。
「いつもあの子の面倒をみてくれてありがとう」
「……なんの話だ」
セルはふと気づく。そうか、この男はあの女の亡き夫だと。男は黙ったまま優しく微笑んでいる。聞きたいことは山ほどあった。お前は女を恨んでいないのか、僕が憎くないのか、どうしてそんなに穏やかにしているのか。でも、男はセルの肩を優しく叩くと、セルの後ろを指さした。
「もう目を覚ます時間だよ、君を待っている人がいる」
セルの身体は、その言葉に導かれるまま、光のさすほうに歩いて行った。
「セル様!セル様!」
「……っは、……うるさいな……」
やかましいくらいの声量で名前を呼ぶ女の声。セルはぱっと目を覚ます。見慣れた自室の天井だった。
「ああ、セル様、目が覚めたんですね。よかった……」
僕を待っていてくれる、心配してくれる、庇ってくれる、そんな人間がそばにいることが、こんなに幸せだとは。抱き着いてくる女の背中をあやすように力なく叩きながら、セルはそう思った。でも、この幸せは続かない、お父様の計画が進めば、いずれこの幸せは終焉を迎える。セルは苦悩する。今あるこの幸せだけでも手放さないように、セルは弱弱しく女を抱きしめた。