Aの肖像(第一章 続き) 壁にもたれてかかっている青年に駆け寄り、呼吸を確かめる。先ほどまでの苦しそうなそれとはうってかわり、落ち着いた息遣いになっていて与一は良かったと息をつく。
「大丈夫ですか?」
そっと肩に触れて揺らすと、青年は小さく呻き声を上げて閉じていた瞳を開いた。
「くっ…… 痛…… くない?」
訝しげに首を傾げ呟いた青年は傍らで心配そうに顔を覗き込んでいる与一の近さに僅かに体をのけ反らせる。
「これ、君のものかな」
与一が青い薔薇を差し出すと、青年は頷き薔薇を受け取る。与一の姿を値踏みするように視線を寄越した青年は一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、今度は真っ直ぐに与一に視線を合わせる。
「すまん。あの化け物から取り返してくれたんだな」
あまり表情が動かない性質なのか、僅かに眉が下がったくらいではあるが、声から申し訳なさと感謝を感じた与一は首をブンブンと横に振った。
「気にしないで。君が無事で良かった」
ふにゃりと笑顔を見せる与一の手を青年が掴む。
「どこか痛むか? 薔薇が少し萎れている」
与一は驚いたように掴まれた手とその手が握ったままの自身の薔薇を眺め、そうだったと思い出した。
「ちょっとだけだよ。僕の方は」
ふふ、と肩を震わせると与一の白い髪が揺れる。煉瓦色の髪を持った青年は与一をじっと見つめたのち、思い切ったように口を開いた。
「おまえ、美術館にいたよな」
「え? うん。もしかして君もいたの?」
確かに与一は美術館にいた。いたというか居座っていた。しかし、その間に彼を見た記憶があるかといわれれば曖昧だ。最も、彼どころかあの場にいた人々のどの顔も覚えていなかった。
「ああ。まぁ、いたな」
「ごめんね。僕、あまりあの時周りを見ていなかったから……」
申し訳なさそうにそう弁明したが、青年の髪色にどことなく見覚えがある気がして首を傾げた。
「そうだろうな。休憩室で酷い顔していたからな。おまえ」
改めて青年を見て警備員の制服を着ていることに気づいた。それと同時に、ひとの目を避けて向かった休憩室で何度か警備員が巡回していたことを思い出す。
「あれ、君だったのか。変なところ見られちゃったな」
苦笑いを浮かべる与一だが、青年が美術館にいたとわかると、同じ不可解な出来事に巻き込まれたという親近感が湧いた。
「なぁ。ここから脱出するまで、一緒に行動しないか?」
青年が尋ねてくる。
「いいの? 僕は助かるけど……」
「ああ。協力した方が安全に脱出できるだろう」
小首を傾げて答える与一に、青年が頷く。
「そうだね。よろしくお願いするよ。僕は与一。…… 死柄木与一」
「駆藤だ」
青年—— 駆藤が差し出した右手に自身のそれを重ねる。彼の温かな手のひらに安心する。
「それじゃあ、まずはおまえの薔薇を回復させるぞ」
立ち上がった駆藤は与一の手を引いて立ち上がらせ、そう告げた。
水の入った花瓶に薔薇を活けると、薔薇はみるみる水を吸い上げ輝きを取り戻していく。
「すごいね。体の痛みも疲れも無くなってる」
痛めた腕を眺めながら、与一が嘆息する。隣に立つ駆藤もその様子に安堵したようでわずかに瞳が和らいでいる。
「死柄木が辛くなければ、移動しようと思う」
「…… うん。大丈夫」
青年—— 駆藤が辺りを見回して告げる。頷いた与一が微妙な顔をしていることに気づいたらしい駆藤が首を傾げる。
「俺はなにか気に触ることでも言っただろうか」
「え?」
「さっき変な顔をしただろう。なにか変なことでも言ってしまったかと思ってな」
「ごめんね。君のせいではないよ。その、名字で呼ばれるのがね。今、色々あって」
眉を寄せて笑う与一の顔を眺めていた駆藤はしばらく考え、ふむ、と首肯した。
「与一」
「え?」
「名字は嫌なんだろう? 名前なら良いかと思ったんだが……」
与一の反応をみての提案だった。どうやら駆藤は無骨な見た目とは違い、相手のことを優先して考えるきらいがあるようだ。まだ出会ったばかりだというのに、彼の為人には好感しかない。
「いや。嬉しいよ。名前で呼んで」
ふふっと笑みをこぼした与一が答えると、駆藤は「そうか」とだけこぼして首の後ろを撫でた。