Aの肖像(第一章) とぷんという音と共に飛び込んだはずが、水の感触は一瞬で。閉じていた目を開けてみるとどこかの回廊に立っていた。
水に飛び込んだはずなのに…… と辺りを見回すが、壁や床どころか自身すらも濡れていない。不思議に思いながらそこにいるわけにもいかず与一は廊下を歩き出す。
壁の深い青色だけは唯一飛び込んだ絵の水の色に似ている。そんなことを思いながら歩く与一の目の前に不意にドアが現れた。ドアの前には行手を塞ぐバリケードのようにサイドテーブルが置かれていた。
ドアを開けるべくそのサイドテーブルをどかそうと四苦八苦するがびくともしない。何かおかしいと改めてテーブルを見やれば、いつの間にか透明なガラスの花瓶に一輪の赤い薔薇が活けられていた。
「赤い…… 薔薇?」
不思議に思いつつも鮮やかに咲き誇るその魅力につい右手が伸びる。棘は処理されているらしく不用意に茎に触れたが怪我はしなかった。そっと薔薇を抜き取りひとしきり眺めた与一がテーブルへと視線を落とすと、そこにあったはずの花瓶が煙のように消え失せている。返す場所のなくなったそれを捨てる気にはならず無意識のうちにしっかりと握りしめ、与一は改めてサイドテーブルを動かすべく力をこめた。
「よっ…… と!」
サイドテーブルは存外重く、なんとか横にずらすことができた。人ひとり分が入れる程度に開いたドアの隙間から室内へと滑り込む。中は廊下と同じ青い色で彩色されており、がらんとした部屋の奥の壁には、紺色の長い髪を持った美しい女性の絵が飾られていた。絵以外に何かないかと辺りを見回し、絵に近いところに落ちていた鍵に気がついた。腰をかがめて鍵を拾い上げた与一の目の前で、さらりとした紺色の髪が揺れた。
「……」
この部屋には自身と絵以外なかったはず。部屋はそこまで広くはないためもし他に人が入ってきたのならば気付かぬはずはない。恐る恐る見上げると、柔らかそうな女性の髪が額縁さえ越えて床近くへと流れている。先ほどまで淡い微笑みを湛えていた表情は、悪戯っぽく舌を出し嘲笑うように目を三日月に歪めていた。
咄嗟に与一は踵を返し部屋のドアへと駆け出した。廊下へと飛び出すと、今度は壁一面に赤い文字が浮かび上がる。
【か え せ】
【かえせかえせかえせかえせ】
文字から逃れるようにドアとは逆方向へ全力で走る。行き止まりだったと思い出したのは走り出した後で、しかし今更止まるわけにはいかない。兎にも角にも文字の無い方へと走る与一の目の前に、先ほどまではなかったドアが鎮座している。与一は咄嗟に手にしていた鍵を鍵穴に差しこむと同時にドアへと体当たりをした。
力任せにドアを開けたために、勢い込んで隣室へと転がり込んだ与一は後退りながらドアを振り返る。
勝手に閉まったのかドアはきっちりと閉じており文字が追いかけてくる様子はない。
安堵の息をついた与一は辺りをぐるりと見回す。さほど大きくない部屋には、与一が入ってきた以外に左右にもドアがあり、三方が出入り口という不思議な作りだった。唯一ドアのない壁際には小品が飾られており、『永遠の恵み』とキャプションパネルがついている。絵画の中で美しい細工を施したガラスの花瓶が水をたたえているその下方では、絵とまったく同じ花瓶がやはり水をたたえてテーブルに鎮座している。
花瓶をじっと見つめていた与一はおもむろに手の中の少し萎れた赤い薔薇を花瓶へと活ける。赤い薔薇が水を吸い上げ花びらが瑞々しさを取り戻すと同時に、与一の体から疲れだけでなく転んだ際に打った手首の痛みまでとれていた。
まるで、薔薇と自身の体が同期しているかのようだ。
不思議に思いつつも再度薔薇を手に取り、与一はまず右側のドアを開けてみる。その先は廊下になっており壁際には額縁が幾つか並んでいる。
「!」
ひとりの青年が、赤い壁に背を預けて腰を下ろしていた。その首はがくりと落ちまるで眠っているかのようだ。与一は恐る恐る青年に近づきそっと様子を窺う。微かに聞こえる呼吸音は苦しそうな音をたてている。生きている人間らしいことにひとまず安心するが、青年の顔が苦痛を堪えるように歪んでいるのが気になった。静かに声をかけてみたが反応を返す余裕もないようだ。周辺を調べても何も出てこず今彼にしてやれることが見つからない。
瀕死の彼を置いていくのは心苦しいが、助けるための手がかりを探すべく花瓶の置かれている部屋を通り抜け、今度は逆のドアを開けて進んでいく。
何故か室内に更に小部屋があるという不思議な作りの部屋だった。小部屋にはガラス窓も付けられていたが曇って中を覗くことはできなかった。ドアノブに手をかけるも鍵がかかっていてそちらもびくともしない。しかし中で何かが動く気配を感じる。どうなっているのかと小首を傾げて視線を落とせば、小部屋のドアの周囲に青い物が落ちているのが目に入った。拾い上げたそれはちぎられた青い薔薇の花びらだ。
ハッとして顔を上げれば、ドアのそばに貼られたキャプションパネルが視界に入る。
『薔薇とあなたは一心同体 命の重さ 知るがいい』
『その薔薇 朽ち果てる時 あなたも朽ち果てる』
冷たい文字の列にゾッとする。薔薇と一心同体。少し前に花瓶に活けた薔薇が瑞々しさを取り戻すと同時に自身の疲れや体の痛みが取れたことを思い出す。もし、この手にした青い薔薇の花びらが、他の誰かのものであったのなら。花びらをちぎられた人はどうなってしまうのか。
嫌な想像が頭を巡り、与一は慌てて先ほど青年が倒れていた廊下へ向かって走る。青年は先刻見た時と同じ場所で壁にもたれていたが、体を支える力すら失われたのか床に半ば倒れかかっていた。その姿に冷や水を被せられたように与一の体が震え上がった。
床に投げ出された青年の右手のひら上の小さな鍵をひったくるように掴むと、与一は踵を返して先刻の小部屋へと向かった。
小部屋のドアに鍵を差し込むとそれだけでかちゃりと鍵のはずれる音がする。
意を決してドアを開け中へと進むと、小部屋の奥でひとりの女が青い薔薇を楽しげに眺めている。一見すると美しい光景であった。青いドレスを身に纏い、長い茶の髪を肩へと流した凍えるほどに美しい女が恍惚とした表情で青い薔薇の花びらを千切っている。
しかしその光景が異様なのは、女の腰から下が額縁の中へと消えているためだろう。
人の姿をした人ではないモノが、上半身だけを額縁の外へ伸ばし、他者の魂とも言える薔薇を千切って遊ぶ光景は悍ましいとしか言いようがない。
その恐ろしさに一瞬足を止めた与一だったが、大きく息を吸い込むと女の前に姿を見せる。
生きた人間を目にした女は興味の対象を与一へと移し青い薔薇を放り捨てると、奇声を発して彼へと這いずってくる。細い腕だけで前進しているとは思えないほどのスピードで敵意を剥き出しに追いかけて来る女をなんとか躱し、青い薔薇を掴む。絵の女に知性はないらしく直線的にしか動かない。与一は部屋の壁際を巡るように走り、ドアへと向かう。意図に気づいたらしい絵の女は直角に向きを変え、鋭い爪を与一へと振り下ろす。避けきれず手に持っていた赤い薔薇の花弁が一枚ちぎれ、更に片方のふくらはぎを爪がひっかく。スラックスの布が裂け裂けた皮膚から血が滲む。しかし深くは刺さらなかったおかげで走りに支障はない。与一は小部屋のドアへ取り付くと小部屋の外へと飛び出し、ドアを押さえつけるように閉める。ドンドンと拳を叩きつける音と振動に生きた心地がしない。
不意に音が止んだ。諦めたのかと肩越しにドアを眺めた与一の背後で、ガラスの割れる音が響く。
(窓!)
ガラスの破片が張り付いた窓枠に手をかけ、上半身を覗かせる女と目が合う。害意と好奇心の入り混じった凶暴な視線に嫌な汗が吹き出す。笑いそうになる膝を叱咤し、与一は二輪の薔薇をしっかり握りしめて部屋の外へ続くドアへ向かって走る。絵の女が真後ろに迫ってくる気配に叫びそうになるが、それよりも足を動かせと必死に動く。本来なら大した事のない距離が永遠にも思えたが、伸ばした手がドアノブを掴んだ。何とかドアをすり抜け、ドアを閉める。絵の女はドアを開けることはできないらしく、うろつく気配を感じたがしばらくするとどこかへ移動していったらしい音が聞こえた。
安堵した拍子に腰が抜け、その場にへたり込む。
「はぁ〜……」
あんな化け物がいるだなんて…… と遠い目をしながら、息を吐いた。無事に逃げきれた事に驚きつつ手の中の青と赤の薔薇を眺める。赤い薔薇は数枚の花びらが散ったくらいだが、青い薔薇は半分以上の花びらがちぎられ色を失い始めている。
与一は足に力を込めて立ち上がると、あの不思議な花瓶へと向かい、まず先に青い薔薇を花瓶へと活ける。
薔薇が水を吸い上げるごとに花びらも復活し輝きを取り戻していく。
その力強い美しさに目を惹かれ、しばらく眺めていた与一だったが倒れていた青年のことを思い出し、慌てて薔薇を摘み上げると彼が倒れていた廊下へと小走りで向かっていった。