Aの肖像 第二章
暗い場所で目が覚める。足元の固い感触に床があることだけは確かだったが、周囲に光源が無いために部屋なのかどうかもわからない。
『与一』
不意に声が聞こえた。耳にした与一の背がぞわりと震えた。
『与一』
今度は背後から聞こえてきた声に瞬間的に走り出す。周囲が壁かもしれないがそんなことに構っている暇はない。考えるよりも先に足を動かす。
『与一』
ねっとりとまとわりつくような重い声が追いかけてくる。絡まりそうになる足を動かしていた与一の目の前に淡い光に照らされた通路が見える。考える余裕もなく与一はその通路へ飛び込んだ。
光は少しずつ弱くなる。通路は長くトンネルのようになっているので不安がいやます。
『どこへ行くんだい? 与一』
声は一定の距離を保ち与一の名を呼びながら追いかけてくる。必死に逃げてきた与一だったが、目の前の通路は行き止まりになっていた。
ゼェゼェと喘ぎながら与一は壁を叩いて出口がないか探す。
『おまえは、僕のものだ』
暗闇から伸びてきた腕に抱き込まれ、その声に包み込まれた与一はヒィっと情けない声をあげた。
***
はっと目を開ける。自分がどこにいるのかわからず呼吸が荒くなる。ゆっくりと体を起こすと視界の端に煉瓦色の髪が見えた。
「目が覚めたか。…… 大丈夫か?」
膝をついて与一を覗き込む駆藤の姿に、大きく息を吐き出す。
「だ…… 大丈夫」
声が震えているのはもう諦めた。さっきまで見ていた夢の残滓が全身を支配している。
「悪い。…… 無理はするな」
震える与一の手に、駆藤の手が重ねられる。伝わる温かさにほっと息をつく。
「ありがとう。君には助けられてばかりだ」
震えが止まり呼吸も落ち着いた頃合いで礼を言えば、駆藤は僅かに口元を緩ませる。
「ここは安全そうだからな。もう少し休んでから動こう」
駆藤の提案に甘え、与一の体力がある程度回復するまでその部屋で休息を取ることにした。
なんとなく黙っているのもおかしな感じがして当たり障りのない会話をする。
与一が気を失ってしまった後、駆藤は近くの小部屋に運んでくれたという。この部屋には特に美術品などはなく、今のところ落ち着いて休息ができていた。
会話の中で知ったのは同じ大学の学生であったことだった。更に駆藤に至ってはようやく飲酒できる年になったという。
駆藤が自身より年下だったと知った与一は驚嘆の息をこぼす。
「…… 君は歳のわりに落ち着いてるよね。すごいなぁ」
「俺はおまえが年上だったことに驚いているが?」
軽口を返してくる駆藤の表情が年下を見守るそれであることに少しばかり不満を感じ、初めての感情に与一は首を傾げる。
「兄がいたらこんな感じなのかな」
少しだけ口元を尖らせて言えば、駆藤は僅かばかり眉を寄せる。彼なりに外見への言及は不満があったのかもしれない。そうと思ってみれば険しい表情が拗ねた子供のそれに見えてきて、与一は駆藤の頭に手を伸ばして優しく撫でた。
「ごめんね」
優しいやりとりにいつの間にか夢の恐怖は薄らいでいた。