Aの肖像(プロローグ) 日の光が僅かに届くすっきりとしない薄曇りの空の下、死柄木与一はとぼとぼと町の美術館へ向かっていた。家に帰りたくないというそれだけのために、さほど詳しくもない画家の展覧会へと足を向けていた。
昔からあるその美術館は未だ機械化されておらず、受付にはスタッフが常駐し来場者の対応を行なっている。物販とは別にリーフレットやパンフレットも置かれているため、忙しいであろうに初老の男性スタッフは涼しい顔で来場者をさばいていた。あまりひと目につかないようにと俯きながら足を踏み入れた与一は、並べられた美術品を横目に歩いていく。さほど時間をかけずに一階、二階と回廊を回り、案内板に従って三階の休憩スペースへと辿り着く。
美術館は良くも悪くも絵を観に来る人ばかり。他人に意識を向けるような人間は基本いないおかげで、与一は他者の視線に晒されることもなくひと息つくことができた。
最上階の休憩スペースはかなり広めに作られており、本来はここも展示がされるべき場所なのだろうと推測できる。今回の作家は絵画を基本としているが彫刻など様々な媒体を残しているため、この場所も展示室に休憩スペースを併設していた。現に部屋の壁一面を埋め尽くすほど大きな絵が飾られており、その保全のためか時おり煉瓦色の髪をした警備員が巡回していたが、さすがに休憩している人間にまで声をかけては来なかった。
「はぁ……」
このところずっと感じていた違和感と緊張感から解放され全身から力が抜ける。一息ついた与一はポケットから一枚のハンカチを取り出した。シルクのさらりとした懐かしい手触り。そこに縫い取られたイニシャルをそっとなぞり、与一は眉を下げて口元を緩めた。
年月が経ち、刺繍糸が色褪せ始めているが折に触れてこのハンカチを眺めるのが与一の癖になっていた。
ベンチに腰掛け誰に咎められることなく思い出に耽り、ようやくひとりだと実感できた与一が肩の力を抜き息をはいた瞬間、休憩室の電灯がちかちかと瞬いた。停電かと身構えたが、その後は何事もなく電灯は元の輝きを取り戻した。そのとこに安堵はしたものの、何かあってはと不安にかられた与一は握りしめていたハンカチをポケットへ突っ込むと三階の休憩室を出て階下へと降りる。
少し前まで階下は絵画や彫刻を楽しむ人々で賑わっていたはずが、今は人影どころか気配すらない。
「え……?」
思わず言葉が漏れる。回廊をぐるりと周る。来場者がいないのは先ほどの電灯の点滅による避難と考えられなくはないが、警備員や美術館のスタッフすらいないのはおかしい。少なくとも何かあれば館内放送もしくは誘導があるはずだ。
膨らむ不安を抱えながら歩いていると、突如咳をする音が響く。ビクッと肩を震わせて周囲を見回すが人がいる様子はない。ふと目に留まった絵画のネームプレートを見ると、そこには『咳をする男』と書かれている。
「…… そんなわけないよな」
怯える心に見ないふりをして、独り言を呟く。自分以外の誰かを見つけるべく小走りで行く与一を嘲笑うように絵画の中の果物が目の前で床へと転がり落ち、黒猫が呑気な鳴き声を響かせる。その度に増す恐怖心から逃れるように、与一は先ほどまで変化のなかった休憩スペースへと駆け込んだ。
元々人のいなかったそこには、絵画だけが静かに佇んでいる。ここは変わらないと安堵のため息をついた与一は、額縁の縁から青い絵の具が染み出していることに気がつき顔から血の気を引かせた。
またチカチカと電灯が瞬き、今度はベチャッと湿った音を伴い床に赤い文字が浮かび上がる。
【お い で ヨ イ チ】
「ひっ!」
文字が言葉として繋がり、与一は怯えて壁際まで後退る。赤い文字は次々と同じ言葉を繰り返し、まるで手を伸ばすように与一の足元まで伸びてきている。どこか逃げ場はないかと目を走らせた与一は、額縁から垂れた青い絵の具が文字に変わっていることに気がついた。
『ついておいで。いいところに連れて行ってあげる』
優しい言葉に心が揺らぐ。その間にも、赤い文字は怒りをあらわにするように床に文字を増やしていく。
【おいで。おいで】
『ついておいで』
【来い】
『こっちだよ』
【来るんだ】
『下までおいで』
足の踏み場もないほどに床が赤い文字に埋め尽くされる。その文字に追い立てられるように、誘われるように与一は青い文字の示す方へと足を向ける。
今この場から逃げ出せるのであればたとえそれが罠であったとしても、縋りたい気分であった。
階段を駆け下り二階へ降り立つ。相変わらずひと気はないが、赤い文字が追いかけてくる様子はない。知らぬうちに詰めていた息を大きく吐き出し、与一は壁に手をついた。ひとまず呼吸を整え、意を決してひとりきり美術館の回廊を歩く。壁に反響する自身の靴音にさえ恐怖を掻き立てられる。そのまま一階まで降り立つと、与一は美術館の入り口へと走った。入り口のドアへと取りつき、外に出られないものかと押し引きしてみるがどれほど力を込めてもびくともしない。ようやく辿り着いた入り口からも外に出ることができず、どうしたら良いものかと与一は唇を噛む。と、背後からコツコツと落ち着いた足音が聞こえて思わず振り返る。しかしそこには誰もおらず、ただ青い足跡が与一を誘うように続いていく。
「ついてこいってこと……?」
正解だと言わんばかりに足跡は入り口から美術館の中へと続いていく。怯えながら歩く与一がついてくるのを確認するように時おり留まり、彼が追いつくとまた足跡も進んでいく。
とうとう青い足跡が一枚の大きな絵画の前で止まった。
深い海の底とそこに生きる不可思議な生物を描いたそれは、絵の主題に沿うように床に設置されている。最初に見た時には近くに寄ることができないようロープのパーテーションで囲まれていた。しかし今は一ロープの一部が外され、絵に直接触れられるようになっていた。絵の具で表現されていたはずの深い青は緩やかに波打ち、奥底で怪しい光が与一を誘うように、導くように明滅している。
美術館から出る術を見つけられないまま閉じ込められるよりはと、与一は今は深海と化した絵画へと飛び込んだ。