Aの肖像(続き) 小部屋から出て先ほどブーケを食べた唇があったところへと向かう。しかしそこにあの唇は無く、扉が鎮座しているだけだった。扉の向こう側にもまた同じものがあるのではと身構えながらドアを開いたが、くぐり抜けた先にあったのは一面灰色の部屋だった。かなり広いその部屋は仕切りで先が見えない。しかし先ほど動き出して彼らを襲ってきた女の絵画と同じ物が幾つも並んでいる。
さすがに襲われた時の光景が記憶に新しく近寄り難い。ふたりは壁からなるべく離れるように進んでいった。壁に仕切られた区画の一面には新たな絵画が飾られている。絵の前面には新聞紙がばら撒かれ、傍らに鼻にランプを下げたゾウの像が置かれている。
『ねぇ。そこ、どいてくださらない?』
突如声をかけられ驚いて辺りを見回すと、絵の中の女性が困ったように眉を下げている。絵のキャプションボードには『新聞を読む貴婦人』と書かれている。
「そこに立たれてしまうと、新聞が読めないじゃない」
「あ…… ごめんなさい」
謝罪して与一が場所を移動すると、貴婦人は満足そうに頷いた。
『でも、ここ暗くて新聞読みにくいのよね』
ボソリと呟く声に与一と駆藤は苦笑する。これまでの攻撃的な絵画と違い、まるで日常のひとコマのような落ち着いた雰囲気に思わず安心してしまう。ふたりは彼女の邪魔をしないようそっとその場を離れ、通路の先へと進んでいく。室内の中にあつらえられた部屋が現れたが、その扉の前には重々しい鉄格子が下ろされている。その鉄格子は隣に設置された銀色の鳥籠によって上下するようだ。
「これをどかさないと先に進めなそうだな」
駆藤がため息をつく。
「とりあえず引っ張ってみる?」
鳥籠に両手をかけて与一が言う。力を込めて引くというよりもぶら下がっているという表現に近い与一の姿に、一瞬ぽかんとした駆藤だったが一度息をつくと与一と場所を入れ替える。
「試すのなら俺がやろう」
ぐっと力を入れて鳥籠を引き下ろそうとするが銀色のそれはびくともしない。
「僕もぶら下がろうか?」
与一が手を伸ばそうとするが、駆藤は首を振り自身も手を離した。
「多分だが、おまえに協力して貰っても駄目そうだ」
「そっか。じゃあなにか鍵になる物があるか探そう」
ふらふらと与一が歩き出す。駆藤は慌ててその後を追いかける。美術館特有の入り組んだ廊下をしばらく歩いた先、与一の行く手に扉が現れた。鍵を探して中へ入ると正面の壁に巨大な鏡が設置されている。鏡のそばには小さな金色の魚の模型が転がっており、それを拾い上げると鏡に赤い文字が浮き上がる。
『魚の片割れ、女の絵のそばに』
どうやらここに落ちている魚の模型は未完成で残りが別の場所にあるようだ。その片割れを探すべく、またふたりは部屋を出て廊下を歩き回る。
黄金の鳥をその指に乗せて自慢げに胸を逸らす貴族の像。赤いドレスと大きな鍔の帽子を被り颯爽と歩く女性の像。通路のところどころには首のない女の彫刻が立ち並ぶ。部屋の外周は女の絵で埋め尽くされているが、最奥の一枚の前に光る何かが落ちていた。与一がそれを拾い上げると、横から覗き込んでいた駆藤が魚の模型を取り出す。
「取り付けられそうだな」
光を発する部品を器用に魚の模型に取り付けると、それはチョウチンアンコウの形のランプへと姿を変える。取り付けた途端、光が増し辺りを煌々と照らした。
「これ…… もしかして」
隣を見上げると同意するように駆藤も頷いてくれる。ふたりは来た道を戻り、『新聞を読む貴婦人』の元へ向かう。絵の中の貴婦人は、ふたりの手の中のチョウチンアンコウのランプにその瞳を輝かせる。
『ねぇ…… その、すごく明るいランプ。私のゾウと交換してくださらない?』
光を直視しながら貴婦人が提案してくる。与一たちにしてもこのランプを持っていても使い途がないため交換に応じる。
少し大きめのゾウを抱え上げた駆藤がおやと眉を上げた。
「これ、本物の金じゃないな。軽い」
像を抱えた駆藤の隣にくっつくように歩きながら、へぇと眺める。よくできたそれは金メッキとは思えないほどの出来だ。それを抱えたまま廊下を進むと、金の鳥を手に乗せた貴族の立像が見えてくる。すると立像の台座に文字が浮かび上がった。
『なんて大きな金のゾウなんだ。そのゾウをこの鳥と交換してくれないか?』
文字から男の羨ましげな声が聞こえてきそうなほどだ。駆藤と与一は顔を見合わせたあと、わずかに頷く。
「これ? 構わないけど」
与一が了承の意を示すと、顔のない貴族が喜色を浮かべる。駆藤が黄金色のゾウを貴族の足元に置き、代わりに手に乗っていた鳥を持ち上げる。
『ああ。なんで大きな金のゾウなんだ』
うっとりとする貴族が像の大きさに目を奪われ、メッキであることに気づかないうちにとふたりは金の鳥を手に鳥籠へと早足で向かった。
「鳥籠といえば鳥だ。これで鉄格子が開くといいね」
どことなく楽しそうな声で与一が言うのを聞きながら、駆藤は鳥籠に金の鳥を入れる。籠の扉を閉めると重い音を立てて鳥籠が床へと降り、その動きに連動して鉄格子が上がっていく。ガシャンという音と共に解放された扉は特に鍵も鍵穴もついてはおらずふたりは部屋の中へと入っていく。
扉の先、部屋の中央には白く大きなソファが置かれていた。他には数個の段ボール。大きなソファの後方に架けられた絵画の額縁に小さな鍵が乗せられている。鍵を手に入れたふたりは部屋の外へ出ようとしたが、ドアには鍵穴すらないというのに鍵がかかり開けられなくなっていた。
「開かない……」
困惑した与一が駆藤を振り返ると、彼は与一を背中に庇うように立ち、正面の壁を睨みつけていた。ドンドンと壁を叩く不穏な音に合わせて亀裂が入り、少しずつ広がっていく。
外から何かが中へ入ろうとしていると理解すると恐怖で足がすくみそうになる。駆藤は与一の腕を掴むと壁から死角になっている段ボールの陰へ押し込み、彼の手に自身の青い薔薇を押しつけた。与一が引き留めるより早く彼は中央のソファを移動させ、反対側の壁に近づけていく。
「くど……」
与一が声をだそうとした瞬間、壁が大きな音を立てて崩れ、女の絵画が奇声をあげ這いずりながら侵入してくる。彼女たちは姿を露わにして立つ駆藤へと真っすぐに突き進んでいく。しかしソファは越えられないらしく回り込んで壁際へと向かっていく。駆藤は女の絵が集まってくるのをギリギリまで待ち、すんでのところでソファを飛び越える。床に足をつけると同時にそれを蹴り動かして女たちをソファと壁の隙間に閉じ込める。そして勢いのまま走って来た彼は与一の手を掴むと崩れた壁をくぐり抜け部屋から脱出した。
部屋の外、女の絵が飾られた廊下には首から上だけのマネキンがずらりと並び彼らの行く手を阻む。そのマネキンの壁の奥に先ほどの部屋で手に入れた鍵と同じ色のドアが見えた。
「その鍵であの扉が開けられるはずだ。おまえは……」
駆藤の言葉を最後まで言わせず、与一は駆藤の手をしっかりと握る。
「一緒に行こう」
先ほどのようにひとり囮になろうとする駆藤に最後まで言わせず、与一はその手を引いた。思いのほか強く握られた手に駆藤も今度はふたりで逃げることに同意した。
マネキンの首によって通れる道が制限され迷路のように遠回りをさせられる。迷うふたりの背後からは絵画の女だけでなく、大きな腕と爪を閃かせた赤いドレスの女の彫刻が追いかけてくる。光景としてはひどくシュールなそれだが、逃げるほうとしてはたまったものではない。一緒に逃げようなどと豪語したものの、体力のない与一のほうが駆藤に引っ張ってもらう始末だ。申し訳ない気持ちになりながらも強く握られた手にあと押しされ、足を前に出し続ける。
「!」
角を曲がった瞬間に、前方から首のない女の彫刻が数体立ち塞がる。
「くっ!」
駆藤は走る勢いのまま、女の彫刻に体当たりをする。彫刻の女は勢いよく吹き飛び床に当たって砕ける。床に散らばった破片を気にする暇もなく走り続ける。途中何度か与一に彫刻の手が届きそうになるが、その度に駆藤の腕が与一の体を引き寄せ距離を稼ぐ。彼からすれば面倒この上ないだろうに、先ほどのように駆藤が自身を囮にと言いだすことはなかった。
ようやくドアの前へと着くと、駆藤は取りつくように鍵を差し込み力を込める。ドアは勢いよく押し開かれ、ふたりは次の部屋へと転がり込んだ。どうやら、各部屋の作品たちは展示された部屋から他へ移動することはできないようだ。ガラス戸でもはまっているかのようにドアを境界にして鈴なりになっている作品たちから距離を取りつつ肩で息をする。さすがの駆藤でも息が切れている。体力の無い与一に至っては息も絶え絶えの状態で床にくずおれていた。
わずかでも距離を取ろうと与一を抱え少しずつ後方に下がる。ギィっと微かな音がして扉が閉まり、異形たちの姿が視界から消えるとようやくひと息つくことができた。
落ち着いたことでやっと周囲を見回す余裕ができた。灰色の廊下の壁には特徴のない男の顔を描いた絵が飾られていた。連作のように同じ表情の男の目からは赤い涙が少しずつ流れ出している。その不気味な絵画の脇を息を殺して通り抜ける。突き当たりかと思われた先には下へと降りる階段があった。階段の途中から壁の色が紫色に変わっていく。
「また部屋の色が変わったね」
「そうだな。…… また何かおかしなことが起こるんだろうな」
疲れた雰囲気でふたりが苦笑する。
「それでも、まだ同じ色の部屋の中でどうにかなっているのが助かるな。あちこち走り回らされたらたまったものじゃない」
「確かに」
ぼやく駆藤に与一が笑いながら同意する。どれほどの大きさがあるのかもわからない場所を無作為に歩かされることにでもなっていたら与一などあっという間にゲームオーバーだっただろう。
「君がいてくれて本当に助かったよ」
「のん気な奴だな」
ニコニコしながら言う与一に駆藤が呆れたような、仕方ないと苦笑するような複雑な表情を浮かべた。
紫色の部屋はこれまでの場所よりも一層照明が薄暗く、まるで紫色の壁が光を吸い込んでいるのかと思うくらいの暗さであった。そのためか手にした薔薇が淡く光を足元に投げてくれているのがよくわかる。
階段を降りきると直進と右折の二股に道が分かれていた。しかし直進の道には首のない女の彫像が立ち塞がり行く手を塞いでいる。仕方なく駆藤と与一は角を右に曲がる。曲がったすぐの壁に真っ白な絵画が飾られている。額縁に近づいてみれば、それが白い絵の具を塗られたパズルであるとわかるが、初見では飾るものを間違えたのかと思ってしまいそうだ。へぇ、と与一が絵を見ていると隣の駆藤が口を開いた。
「ミルクパズルって知っているか?」
「ミルクパズル?」
「これみたいに絵のない真っ白なパズルだよ。頭のいい奴はすぐに解けるらしい。…… おまえは解けそうだよな」
「へぇ。そんなパズルがあるんだねぇ。でも、絵があってこそのパズルだと思うけどな。真っ白って楽しくなさそう」
微妙な表情を浮かべる与一に、駆藤が「確かに」と苦笑する。
くだらない話をしながら、廊下を進んでいく。真っ白な絵画の隣には散り始めた桜が月明かりに照らさ淡く輝く絵が飾られている。それだけ見ればただ美しいと感嘆する絵なのだが、やはりこれもキャンバスの中だけでなく廊下にまで花びらが降り積もっている。
「こんな時じゃなければ、奇麗だなって感動するんだろうけど」
至極残念だとため息をつく与一に、駆藤が隣で頷いている。この場所ではまだ追いかけてくるような凶暴な絵画には出会っていない。そのせいかふたりとも少しだけ絵を見る余裕もできていた。
「ここから出られたら……」
「ん?」
「いや。なんでもない」
静かに首を横に振る駆藤。聞き逃した言葉が大切なものだった気がしたが、しばらくしたら教えてくれるだろうかと引き下がる。
静かな廊下を並んで進んでいくと、目の前が壁が現れる。こんなところで行き止まりかと調べてみれば壁にスイッチがある。
「押してみるよ」
そう言って与一がスイッチを押すと壁がスライドして道が現れた。現れた道は二股に分かれており、進んでは突き当たり来た道を戻るのを繰り返す。どうにも出口のわからない迷路のようになっているらしい。ふたりは薔薇の灯りを頼りに壁や床を探していく。するとところどころに隠されたスイッチが存在し、それを押すと別の場所で壁が動いたような音がした。その音を頼りに先へ進んでいく。
散々迷った末になんとか迷路を脱出することができ、ふたりはぐったりと肩を落としながらも先を目指していく。二股の道の一方には扉が、もう一方には首のない女の背中が見えている。そちらは避けて扉を開けて中へと入る。しかし部屋には何もなくただ一枚の絵画が飾ってあるだけだった。
「また絵か」
「美術館だしね。えっと…… タイトルは『決裂』って、縁起でもないな」
与一が絵のタイトルを読み上げた途端、部屋の明かりが消える。何故か薔薇も光らず人の気配すらわからないほど真っ暗になる。
「わっ」
「与一。そこにいるか?」
焦ったふたりが声をあげる。
「いるよ。けど何も見えなくて動けないかも」
「少し待ってろ。ライターがあったはずだ」
しばらくすると微かな音と共にオイルライターの火がつき、周囲がぼんやりと見えるようになる。しかしそれと同時に奇妙な悲鳴が響き、床に赤い文字が浮かび上がる。それは美術館によくある火器厳禁の言葉ではあったが、最後は『さもなくば……』と締め括られ、扉の先に続いている。その様子に与一は顔色を青くして駆藤を見上げる。
「大丈夫だ」
一瞬顔色を青くした駆藤だったが、与一の顔を見るとわずかに口角を上げて彼の頭を撫でる。それに納得したわけではないがこの場に留まっても仕方ないと部屋を出る。扉を開け、廊下へ出た途端ふたりは再度足を止めた。床には流血した何かを引きずったように赤い痕が行き先を示すようについていた。続く猟奇的な様子はさすがに彼らの精神を疲弊させる。
「さっさと進んでここから出るぞ」
顔色の戻らない与一を気遣いながら駆藤は先へと進む。道の先、女の彫像を協力して退かして道を作ると、先ほどまで無かったはずの扉が出現していた。来た道を戻っても仕方ないと新しいドアを開けると、ドンっと何かが駆藤にぶつかった。
「わっ!」
十歳くらいの少年が床に尻餅をついていた。
「すまん。大丈夫か?」
差し伸べられた手に捕まり立ち上がった少年は、与一と駆藤を交互に見比べる。
「君も美術館にいたのかい?」
与一が声をかけると少年は
「あ……」
小さく声をあげた。
「やっぱり。僕たちも美術館にいたのに気づいたらこの場所に迷い込んでしまっていたんだ。今は、なんとかして出口を探しているところなんだけれどね」
与一が子どもが怯えないように視線を合わせながら話す。こちらの情報を開示することで少年に安堵してもらうつもりのようだ。
「君も、そうじゃない?」
小首を傾げる与一に少年が口を開いた。
「僕も、誰かいないか探していた。外に出たくて……」
やはり自分たちと同じ状況らしいとふたりが頷きあう。
「もし良かったら僕らと一緒に行かないかい?」
「ここはおかしな絵画も多い。子どもひとりよりはいいはずだ」
ふたりがそう交互に言うと、少年はしばし考えたのち、頷いた。
「一緒に行く」
嫌がられずに同意されたことで、駆藤も与一もひとまず安堵の息を漏らす。
「僕は与一。こちらの彼は駆藤君。君の名前は?」
少年は短く切りそろえた白い髪に、深い赤色の瞳で真っすぐに与一を見つめる。整った顔立ちはどことなく見覚えがあるように思えたが、彼とは初対面だと断言できる。
パニックになっている様子ではないが、少し元気がないように見えるのはこれまでひとりだったせいだろうか。
「僕は、アキラ」
「アキラ君。…… よろしく。一緒に出口探そうね」
「うん」
そうして彼らは連れ立って出口を探すために歩き出した。