Aの肖像 第一章(続き2) ふたりは当て所なく続く廊下を歩いていく。
どこともしれない不可思議な場所ではあるが美術館であることだけは確かである。飾られた絵画や彫刻が動き、こちらをじっと眺めたりと不穏な動きをする以外は。
薄暗い照明と最小限の装飾。人間は駆藤と与一だけだけのはずが、うるさいくらいに人の気配がする。
美術館とは基本的に飾られた美術品に視線を向けるために通路や装飾に気を遣っている。人がいても気にならないことよう工夫されていることの多い印象であるが、この場所は人がふたり以外存在しないにも関わらず落ち着かない騒がしさだった。
そんな中をふたりは周囲を警戒しながら並んで歩く。
ドアを潜ってたどり着いたさきは、エントランスのようになっており、壁にそれぞれ男女の絵が飾ってあった。その絵の前には肘から先だけの手が、何かを求めるように指を開いた状態で床から突き出ていた。
「なんだこれ」
思わず眉を顰めて駆藤が呟く。与一は女性の絵の下に設置されたキャプションパネルを読み上げ、首を傾げる。
「『嘆きの花嫁』だって」
「…… 何かの暗喩か?」
ふたり揃ってわからないと首を傾げる。現状将来を誓い合うような異性もいないふたりには結婚への示唆程度にしか考えられない。
ひとまず絵のことは置いておき、更に奥へと進む。部屋はぐるりと回廊のようになっており、中央部分は独立した部屋になっているようだった。一番近いドアの前にはまるで巨大な綿毛のような白猫がドアの前に寝そべっている。その巨体でドアがすっかり隠れているため、手を差し入れる隙間もない。仕方なくふたりはその隣の部屋のドアを開け、中へ足を踏み入れる。
正面の壁に一枚だけ飾られた絵画は白紙であった。床の中央部分だけが白く真四角に囲われ、四方には巨大なティーポットが四つ置かれている。その大きさに思わず隣に並んでサイズを測ってしまう与一を、駆藤が呆れたように見守っている。
「凄い。巨人のお茶会かな」
与一は白い四角の中に鎮座するティーカップを眺めて感嘆の声を上げる。
「これを片手で持ち上げるような巨人が来たら、俺たちなんてひとたまりもないだろうな」
呆れた声のくせにノリの良い返事を返してくる駆藤に与一は肩を揺すって笑う。
ティーポットに寄りかかった与一は、側面に文字が書いてあることに気がついた。
「ここ。なにか書いてある」
「なんて書いてあるんだ?」
「説明…… かな」
ティーポットに刻まれた文章を与一が読み上げる。曰く、ティーポットとティーカップは四色ずつあり、同色にしか茶を注がない。ティーカップは白い床の中でのみ動くが直線的にしか動かず、またぶつかるまでは止まらない。ティーカップに茶を注ぐことで進む道が開かれるだろう。
「ようは、パズルを解かなければ次に進ませないってことだな」
巨大なティーポットとカップを眺め、駆藤が眉間に皺を寄せる。白い床に不規則に置かれているカップだが、おそらく動かず順があるのだろう。
「とりあえず適当に動かしてみたら駄目かな?」
のほほんと言う与一に、思わず「は?」と声が出た。
「やり直しちゃ駄目とも書いていないし、とにかく動かしてみたらいいのかなって」
あまりに感覚的な発言だったが、確かに禁止事項は明記されていなかった。動かしてから考える方法もあるかと駆藤は与一の提案を採用する。
まずはこれから、とカップに取り縋った与一が力を込めて押し始めたが、しばらく経っても動く気配がない。
「…… おい。発案者」
「だって、ものすごく重いんだよ!」
弁解するように叫ぶ与一が「なら君がやってよ」と口を尖らせる。駆藤ははぁとため息をつき、与一と場所を替わるとカップの縁に手をかける。押し始めこそ力を込めたが、その後は滑るように移動していく。たいして力は必要なかったなと振り返れば、納得がいかない顔をした与一と目があった。
「ずるい」
不貞腐れる与一の腕の細さにあまり力がないのも仕方ないことかと内心で納得しつつ
「まあ、普段から鍛えているからな」
とだけ返しておいた。
しかし、ひとつ動かしてみると確かに見え方もだいぶん変わる。次にどれを動かせば良いか、相談をしては駆藤がカップを動かす。それを繰り返していくと、それぞれのティーポットの前にカップがうまい具合に並ぶ。すると、カチャリと軽やかな音と共にポットから鮮やかな色の紅茶が注がれる。ふわりと部屋中に紅茶の馥郁たる香りが広がった。
『ニャーン』
猫の鳴き声に驚いて周囲を見回すと、白紙だった壁の額縁内に一匹の猫が姿を現した。
「え? 猫の絵なんてあったっけ?」
困惑する与一だが、隣の駆藤は表情を変えずに首を傾げただけだった。
結局部屋の中を歩き回ったが、特になにも発見することはできず、ふたりは再度回廊へと出る。と、先ほど白猫が行く手を阻んでいた扉が通れるようになっていた。
「あれ。ここ…… 白い猫さんがいなかった?」
「いなくなったな。中を調べるなら今のうちだろう」
駆藤は開けられるようになった扉のノブに手をかける。中は彫刻が数点置かれている。
飲み口が斜めに切られ、赤いクッションを詰められたワイングラス。人が絡み合うっているかのような緑の木。白く輝くヴィナス像。カラフルに彩色された骸骨。
そのどれもが大きく作られ、物によっては見上げなければならないほどだ。その精巧な出来にじっくりと眺めてしまう。
「…… 本物じゃないよね?」
三色に塗られた骸骨を遠巻きに見る与一の腰が引けている。
「多分違うな。…… ん?なんだこれ」
本物かどうを見極めるために近づき骸骨を観察していた駆藤が何かに気がついた。おっかなびっくり与一が近づくと、駆藤は骸骨の左の指から指輪を抜き取り見せる。
「大きな指輪だね」
「ああ。どこかに使うんだろうか」
「指輪だからなぁ。指に嵌め……」
頭を突き合わせて指輪を眺めていたふたりは同時に黙り込んだ。指輪を嵌める。与一が発したその言葉に、思い当たることがあったからだ。
「まさか、これが失くし物なのか?」
眉間に皺を寄せる駆藤の顔は更に険しくなり、厳しさを増す。
「とりあえず、行ってみよう」
黒いオーラを纏う駆藤の背中を押し、この回廊のエントランス部分へと向かった。
薄暗い室内、絵画の中でひと組の男女が嘆きに身を震わせている。床から突き出した大きな手は、しっかりと見てみれば右手と左手になっていた。
「結婚指輪を失くしたから、嘆いていたんだね」
与一がしげしげと手と指輪の大きさを確認しながら言う。
「どうしてあんなところにあったのかは知らんが、こういう物には細心の注意を払うべきだろう。哀しむ相手がいるんだ」
呆れた声音で花婿の絵を見上げる駆藤に、与一はアハハと笑う。
「君は見かけによらず優しいよね」
与一の声に駆藤は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をする。厳しい。ストイック。厳格。そういった評価は多いが、優しいと言われたことはなかった。
「変わった奴だな」
「そんなことないよ。それより、指輪嵌めてみよう」
さっさと話を変えてしまう与一につられて、駆藤も床に視線を向ける。そこから突き出しているのは左手の肘から先だ。その左手薬指に指輪を嵌める。
すると、クラッカーぎ鳴り響き、花婿、花嫁の絵画にスポットライトが当たる。幸せそうに頬を緩めた花嫁は手にしたブーケを放り投げた。
「わっ!」
緩やかな放物線を描いたブーケは、ポスンと与一の手の中に収まる。驚いて顔を上げるが花嫁の絵はそれ以上動くことはなかった。
「ブーケ、貰ってしまった……」
手の中にあるそれを見せながら、与一が呆然と呟く。両手で持つように作られたブーケは歩くのに邪魔かもしれない。が、貰ったものを放り捨てる頭は無い。
「…… とりあえず持っていくか。なにが役に立つかわからないからな」
駆藤の提案に頷き、それを捧げ持つようにしながら先の回廊へと歩きだす。しかしこれが存外大きく赤い薔薇とブーケ、どちらも持つのに苦労していると見かねた駆藤が手を差し出した。どちらかを渡せということだと理解した与一は迷うことなく自身の赤い薔薇を駆藤の手のひらに乗せた。
「おいっ!」
「お願いするよ。君なら安心だ」
慌てる駆藤にそう告げた与一は、いつの間にか自分が彼に絶大な信頼を置いていることに驚いていた。このところ、他者に対して疑心暗鬼になることが多かった自分が、会って間もない青年に安心感を抱いている。それだけ会話や態度の中に彼の人柄が滲み出ているのだろうと結論づけたが、なんとなく気恥ずかしく与一は足早に回廊を進んでいく。進んだ先の突き当たりで道が途切れていた。なにかスイッチや鍵穴でも無いかと壁を探すがそれらしいものは見当たらない。
「行き止まりだったよ」
背後から追いかけてくる駆藤を振り返る。
『お花、美味しそう』
「与一っ!」
声が聞こえたのと、強く腕を掴まれて引き寄せられたのはほぼ同時だった。勢いが強すぎそのまま駆藤に抱き込まれる形で床に転がる。
背後ではなにかを咀嚼する音が聞こえ、体が恐怖に震えた。恐る恐る振り返れば、黒い壁に現れた大きな唇が見えた。薄い唇の端についたブーケの残骸を、ぶ厚い舌がじっとりと舐め取っていく。
『美味しかった』
ねっとりとした男の声に、全身から血の気が引き意識が遠のいていく。
「与一! しっかりしろ! 与一っ!」
(あぁ…… この声……)
きつく背中に回された力強い腕と暖かさに取り縋り、与一は暗闇の中へ滑り落ちていった。