今のところ無し その2 食器とフォークやナイフが擦れ合う音に、老若男女の談笑する声。そんな中、小さな子供がぐずり出し、スピーカーからは流れる流行の音楽をかき消すほどの大きさで泣き叫んだ。
ファミレスに呼び出された紫檀色のゲソをしたイカが一人。ドリンクバーで何となく注ぎ入れたソーダの泡が、プラスチックのコップから逃げ出している。
名前をイッカン。表情を一切変えずに、冷ややかな目をしている。
「大変なの! イッカンくん!」
「ファミレスで大声出すな。うるせー」
正面のオレンジ色の席に座るのは、大学の同級生であり音楽サークルの仲間であるバンドの3人組。ボーカルのイカガール、ギターの鯛、ドラムのホウボウ。
生活費を稼ぐために深夜のバイトを終え、ようやく眠れると思った矢先に携帯電話が鳴った。切羽詰まった様子だったので仕方なく来たが、悲劇のヒロインムーブをするボーカルに呆れ果てる。
「でもでも、大変なの」
「ぶりっ子してる暇がったら、さっさと要件を言えよ」
涙目の元サークルクラッシャーであるボーカルに、イッカンは一切動じない。
「実は二週間後に、私の大事な妹が通う中学で文化祭があるの。バンド演奏をしてもらうように頼まれてて、快く引き受けたのはいいけど……二日前にベースの子がバイクで事故って入院したの!」
「それはご愁傷様」
入学当初はサークルに良く足を運んでいたが、2年から3年になるまで一切顔を出していない。そのベースの顔が思い浮かばないので、1年か2年の誰かだろう。
一大事であるが、イッカンは感情的にはならなかった。
「だから、フリーのイッカンくんに代役頼めないかなって!」
「見返りあるわけ?」
えっ、とボーカルは声を漏らした。
「頼まれたからってホイホイやるかよ。俺はなんでも屋じゃねーんだぞ」
「で、でも」
「文化祭の特別参加枠でも、一曲で終わらないだろ。何曲やるんだ?」
「俺達の予定では、8曲」
鯛は鞄から、楽譜のコピーを取り出した。中学校の生徒向けに、3分から5分のメジャーアイドルの曲が中心だ。
「それを今から一から練習して、二週間後に舞台に立つ相手の身にもなれよ」
演奏経験のある曲であっても久々であれば、どこかに綻びが生じる。中学生は流行の曲は履修科目のように必ず聞いているので、それ相応と完成度が求められる。
個人とバンド練習を今から8曲分スタートとなれば、寝る間すら惜しいハードスケジュールだ。誰であっても負担が大きい。
「バンカラとハイカラの距離も考えてくれ。ちょっとした旅行だぞ。その分の予定も割いて」
「それでも、イッカンくんに頼みたい!」
イッカンの声を遮り、ボーカルは言った。
「私の両親は離婚してて、10歳の頃から弟と離れ離れで……だから、あの子の頼みは断りたくない! 絶対に成功させたいの!」
「へー」
事情があったとしても、それで揺らぐ彼では無かった。
こちらに降りかかる重圧が増しただけだからだ。
「夜行バス代と演奏代払うから! ご飯も奢る! お願い!!」
「俺からも頼むよ。実力のあるベースをイッカンしか知らないんだ」
「きっちり3人でお礼します!」
このとおり、と3人は懇願する様子に、イッカンは大きく息を吐いた。
「さっき言ったこと、なあなあにするなよ」
「当然でしょ。ささっ、誠意の証に奢るから、何か注文しちゃってよ!」
調子のよいボーカルは、メニュー表をイッカンへと押し付けた。
モブについて
イカガール→元サークルクラッシャーのボーカル。ブラコン
若干メンヘラでぶりっ子で自分と弟最優先だったが、ギターのスパルタによって割とまともになった。
鯛(男)→天然のギター。一年生の時にサークルぶっ壊しかけてたイカガールの声が良いと気づき、バンドに誘った。彼女にボイストレーニングさせまくってたら、サークルが救われてた
ホウボウ(男)→気が小さめのドラム。問題児気質ボーカルと天然のギターの間に挟まれてる
ベースの魚介類→3人の後輩。事故った