天国ではみんな海の話をする 天国ではみんな海の話をする。
雑踏の中で消え入りそうなほどのボリュームしかなくても、この子の少し高い声をこの耳が逃すことはない。
「なんやっけ、映画やろ、それ」
知ってんで。そう言うと驚いたみたいに眼鏡の奥にある瞳が丸くなり、閉じていたはずの口はポカンと開かれる。そんな答えが返ってくるとは思ってもみなかったようだ。
世代間のギャップというものはどうあっても存在し、抗うことは難しい。だからどうしても彼の言うことがよく分からなかったりすることは多々あれど、二人共通して分かるものがあることは単純に嬉しい。
けれどこちらのそんな浮ついた思いとは反対に、聡実くんの眉根はすぐにきゅっと寄せられてしまい、開いた口も引き結ばれてしまった。あれ、何か答え間違えたやろうか。やっぱり難しいな。
「……もうすぐ死ぬ男二人が、海見に行く話」
「あー車盗んで行くやつや。古い映画やのによう知っとんな」
古い映画、と自分から出てきた言葉がぐさりと突き刺さる。それはいつかあのカラオケ屋で働いていた時よりも少し前、この子に至っては生まれる前の作品だ。
突き刺さって柄にもなく、ショックを受けたことはおくびにも出さない。取り繕うことにはなれていた。しかしそんな自分とは正反対に、目の前の少年の眉根に刻まれた皺はさらに分かりやすく深くなってしまう。
聡実くんは時たま、こちらとしては博識なことを褒めたつもりだったり、その若さについて言及したりすると、それが気に食わないとでも言うような顔をすることがあった。今も会話はしてくれているが、拗ねたように敬語が取れている。
そうなってしまった彼のご機嫌をとるのは難しいけれど、嫌いではない。ままごとのようないたいけなやりとりに、寒さで縮こまった体の奥がほぐれていくような心地がして気持ちいい。
「なんで天国では海が流行ってんねやろなあ」
「……狂児さんは」
「ん?」
「死ぬまでに見たいものとか、あるんですか」
予想だにしない質問が飛んできて、今度はこちらの目が点になる。先ほど取り繕うのは得意だとか言った気がしたけれど、こうも早く発言を撤回することになるとは思わなかった。
じっとこちらの返答を待つ瞳は不思議な色をしている。恐れるでもなく悲しむでもない。風がそよぐのを待ち続ける、水平線のようにまっすぐな瞳だった。
一呼吸おいて一度、ふむ、と思いを巡らせてみる。
幼いころは一歩外へ踏み出すだけで、目に映る全てが冒険だった。免許をとって車を手に入れてしまえば、どこにでも行ける気がして冒険はそこで終わりだった。
ゴールではない行き止まりの場所。どこへでも行ける気がしただけで、どこにも行けやしない。
天国では海が流行っていようがなんだろうが、地獄行きが決まっている自分には関係のない話だ。
しかしそれではせっかく会話をふってくれた聡実くんに対して、あまりにもな答えではないか。こういうとき、常であればボケに走ろうとしてしまう己の性分が恨めしい。頭によぎらないでもなかったけれど、おそらく今はそのタイミングではない。
「死ぬまでに見たいもんとかは特に思いつかんけど、死ぬときに見たいんはあるかなあ」
こちらを見つめる瞳の中で光が瞬く。暮れなずむ街の中でちらつく光を全て集めてしまうみたいに。今まで見てきたどんな高いものよりも、一番美しいものだと思っていた。
「……なに、それ」
「ん〜」
気の抜けた返事とは裏腹に、聡実くんが返してきた言葉に胸を撫で下ろした。
正解か不正解かのそれだけで測れるものではないにしろ、彼の興味を引けて会話を続けられることに安堵する。ただ、これから口にすることを聞いたとしてもそれが変わらないことを願いたい。
「聡実くんがな、美味しいもん食うてるとこ見ながら死ねたらええなーって」
「…………はあ」
返ってきたのは至ってフラット、しかしローテンションな反応だった。
やっぱり、間違えてもうたかも。けどこれは割と思ってたことやし、嘘ではない。
「人が死にそうな横で飯食うとか、シチュエーション変やろ」
「そやけど、嘘ちゃうよ」
「いや嘘かどうかいうより、やっぱ狂児さんおかしいわ」
「エ〜、何でや」
ふい、と視線を逸らされてしまって、それきり聡実くんの唇は再びきゅっと結ばれてしまった。
しかし通りの灯りの下に差し掛かって、横を向く目のすぐ下が赤いのを見ると、存外この答えをお気に召してくれたのかもしれない。ボケだと思われずによかった。
そうやんな。よう考えたら、死ぬときまでそばにおってって言ってしまったようなもんやんな。
「そん時なったらめっちゃええ肉食ったる」
「デザートもつけてええよ」