猫ラーメン行こ!〝今日ひま? 猫ラーメン行こ〟
ねこ、ラーメン。
本来であればあまり隣り合っているところを見たことがない、けれど確かに並んでいる二つの単語に首を傾げる。全く違うジャンル同士なのに、妙に口ずさみたくなる言葉だ。
文末にはいつもの腹が立つ笑顔の絵文字、と思いきやよく見ると今回はご丁寧に猫バージョンのほうだった。その無駄な芸の細かさにイラついたところを見計らっていたかの如く、画面が暗転して送信者からの着信を知らされる。その悪魔的なタイミングの良さにどっと汗が出て、思わず手を滑らせてスマホを落とすところだった。
「あっ聡実くんおこんばんわ〜。ライン見てくれたやんな? 今大阪帰ってきてんねやろ? 猫ラーメン行こ!」
「テンション高……見ましたけど、何? 猫ラーメンて」
こちらの一悶着なんて知りもしない呑気な声で、電話の主である狂児はメッセージと同じ内容を繰り返した。猫ラーメン、ねこらーめん。狂児の口からでも自分の口からでも、発せられるそれは何度聞いても珍妙な響きがある。
「おっ、知らんかあ。ほんまの店の名前とちゃうんやけどな。京都になあ……猫で出汁とってるって噂のラーメン屋があるんやって」
なるほど、それで猫ラーメンという。不思議な組み合わせにも合点がいった。だがしかし。
「さすがに猫は嘘でしょう」
正直、狂児が僕をからかって嘘を言っているようにしか思えなかった。わざとらしい咳払いの後、低い声を出しているのが芝居がかっていて余計に嘘くさい。動物愛護とか、食品衛生法的に絶対嘘やん。
「どやろな〜ほんまかもしれんで? せやから行ってみよ」
「……まあ、いいですけど」
特別な予定があるわけでもなし。興味があるかないかと言われると、ないこともない。楽しげな狂児の目論見に、乗ってやるのも悪くないかと思った。
**
その店は京都が誇る一級河川、市内を流れる鴨川の源流、憩いの場として親しまれていると音に聞く鴨川デルタの程近い場所に出現する。出現、というのも噂のラーメン屋は、屋台の形をして営業をしているらしかった。
営業日は固定ではなく、毎日17時ごろ更新される店舗のブログによってその日の営業状況を知ることができる。週に2日もやっていたらいいほうで、一週間以上休むことも珍しくない。あまり出会えることがない店だというのも、怪しい噂に尾鰭がつく要因にもなっていそうだ。
以上が移動中に狂児から聞いた猫ラーメンの概要である。狂児もたまたまそんな話を仕事先の人伝から聞いて、興味本位でブログをチェックしてみたところ、これまた運のいいことに今日営業しているらしかったので僕を誘ってみた、という顛末のようだった。
夕飯は外で人と食べると母には告げて、迎えに来た狂児の愛車に乗り、揺られること一時間ほどで目的地に辿り着く。到着した頃にはすっかり日も沈み、ラーメンには絶好の時間帯だった。
手近なパーキングに車を停め、目的地までは徒歩で向かう。すぐ側に川の流れる音が聞こえる中、ぽつりとした佇まいの屋台は思いの外簡単に見つかった。
「いらっしゃいませ」
「こんばんわ〜二人です」
のれんがわりのビニールシートをくぐると、中は相当こじんまりとした空間になっていた。客は誰もおらず、タイミングがよかったらしい。木の板が置かれただけの簡素なテーブルに、空き瓶ケースを椅子として使う、いかにも即席な屋台の造りだ。水はセルフサービスだったようで、入り口近くのピッチャーからグラスを二つ、いつの間にか抜け目なく手にした狂児は僕の隣に腰掛けた。
「並と大、どちらにしましょう」
溌剌とした声で店主が僕たちに話しかける。メニューは至ってシンプルで、メニュー表なども特には見当たらなかった。
「聡実くん大食えるか?」
「食います」
「ほんなら大二つで」
「大二つですね。ピリ辛のニンニクありかなしか選べますけど、どうしましょう」
悩ましい選択肢を提示されてしまった。ピリ辛のニンニクという、空きっ腹には魅力的すぎる存在だ。隣に座る狂児を盗み見ると狂児は僕の選択を待っているのか、ゆるく口角を上げて微笑んでいた。
「……入れます」
「ふ。二つともありでお願いします」
「はーい二つとも。少々お待ちください」
注文を承った店主はこちらに背を向けて準備に取り掛かりはじめた。
狂児はこちらを見つめたまま笑っている。僕の返事を待ったその後も、確かに笑っていた。
「僕は明日もなんもないからいいですけど、狂児さんはいいんですか」
「俺も別に何もないからええねん。せっかくやしな〜」
気になんのやったらあとでコンビニ行こ。何でもないことのように告げてくる狂児に無性に敵わない気持ちが起きてきて、眉間に皺が寄るのが自分でも分かった。このえも言われぬ悔しさはなんだろう。狂児の手のひらの上で踊らされているような気がしてならない。
「お待たせしました。ラーメン大、ニンニクありです」
程なくして運ばれてきたラーメンを覗き込むと、立ち上る湯気にあてられてメガネのレンズが一瞬で曇る。ふふ、と息の漏れる音が隣から聞こえて、その先をきっと睨みつけると想像通りの顔で狂児が笑っていた。
「こうなるねん。しゃあないでしょ」
「何も言うてへんよ〜。ラーメンうまそやな〜」
にやついたままの顔を隠そうともしないで、何事もなかったかのようにそそくさと丼と向かい合う。ぱきりと乾燥した音を立てて箸を割った後、律儀に手を合わせるその様子は、いつもながらヤクザには似つかわしくない真面目さが不釣り合いで妙なおかしさがあった。
しばらく眼前のラーメンには手をつけないまま、恨めし気に狂児に視線を送っていたつもりだったけれど、狂児はそんなものなど意に介さずに食べ進めるだけだった。麺を持ち上げて入念に、やりすぎなくらい時間をかけて冷ます。それから口に運んでいく様をじっと見つめていると、僕の腹の底はきゅう、と情けない音を出した。
「……いただきます」
自分の腹の虫に諭されてようやく、意味もない上によく分からない狂児への反抗をやめることができた。熱いから気ぃつけて。隣から飛んできた言葉に狂児さんじゃないから大丈夫です、というのは言わないでおいた。
さて、目の前にはラーメン。いまだ立ち上り続ける湯気に注意を払いながらも、ぱきりと自分も箸を割って向かい合う準備をする。
一見して麺はストレートの細麺、もやしとねぎが惜しみなく散らされていて、脂身の少ないチャーシューも添えられているごくありふれた見た目のラーメンだ。乳白色のスープには点々とラー油の赤い色が、マーブル模様のように浮かんでいる。見た目には、豚骨か鶏白湯のように思えるスープだった。
猫の出汁。狂児が言っていたことをまるきり信じているわけではないが、やはり意識はしてしまう。もちろん猫なんて食べたことはないので、仮に本当だったとしても猫かどうかは分からない。意を決してまずはスープを一口、口に含んでみる。
「……猫の出汁?」
ぐふ、と隣の狂児から呼吸を詰まらせたような音が聞こえる。ばっと顔を向けて狂児を見やると、笑いをこらえているのか震えながら麺をすすっている。やっぱり僕をからかっていたのだと、分かっていたけれど空恥ずかしい。
しかし猫は冗談だったとしても、今まで食べてきたどんなラーメンにも似ているものはない、まさに無類の味だった。豚骨や鶏白湯などとはもちろん違う。醤油や味噌、塩でもない。あっさりめではあるが後味はしっかりと残る、クセになる味をしていた。
「おいし」
「な。うまいね」
酒飲めるやつはシメに食うとうまいとか言うんやろうな。ぽつりと狂児はそう溢したが、ここにいるのは酒が飲めない人間だけなので何と言ってよいか分からず、言葉には反応せずにラーメンが冷めないうちにただ食べ進めることにした。
**
「ほい聡実くん、アイス」
「ありがとうございます」
ひとしきりラーメンを堪能し終わった後、おあいそを済ませた僕たちはそのまま大阪にとんぼ返りするでもなく、せっかくならばと少し散歩をしていた。近くにあったコンビニでアイスと飲み物を買って、散歩と言っても河川敷に降りて川を眺めるゆったりとしたものだった。 狂児がアイスを食べたいと言いだして、当然のように僕にもどれがいいかを聞いてくれるので、食べるミルクシリーズを買ってもらった。
「知ってるか聡実くん。ニンニク臭にはな、ヨーグルトが効くらしいで」
「へえ……そうなんですね」
「せやから飲むヨーグルトもあげるわ」
アイスも食べかけの途中だと言うのに、狂児はまるで四次元ポケットのように次々と袋から物を取り出して渡してくる。普段自分ではあまり買うことがない飲むヨーグルトにそんな効果があるのは知らなかった。もしかするとニンニクの摂取をためらっていた僕のことを少しでも気にしてくれているのかと思うと、先ほどのからかいを帳消しにするほどではないにしても少しは許してもいいかと思えた。
「春や言うてもまだ夜は冷えんなあ。けどアイスは食いたかったよな」
まるで僕も積極的にアイスを食べたかったかのような物言いに少しひっかかりはするが面倒なので何も言わないでおいた。狂児は早々に食べ切ろうとして大口を開けながら棒アイスにかじりつく。一気に食べて頭痛くならんのやろうかと思っていたところ、眉間に寄った皺を指でほぐしている姿が目に入る。言わんこっちゃない。思えば狂児はそういうところがよくあるよな。暑いといいながらホットコーヒーを頼んだり、行動がどこかちぐはぐになることが多々あった。
「京都はよく来るんですか」
「そうでもやな。おけいはんでも意外とすぐやねんけど近いとあんま来ーへんよな」
「狂児さんも電車乗ったりするんですね」
「車持っとったらそれが一番楽やからあんま乗らんねんけどなー」
ぶすりとためらいもなくヨーグルトのふたにストローを刺し、ずぞぞ、と中身を吸い出している狂児はいつのまにかアイスを食べ終わっていた。もたもたしていたつもりではないけれど自分とのあまりのスピードの違いに勝手にせかされているような気持ちになる。
「向こうにあるん、飛び石やんなあ。行ってみーひん?」
僕が一つのアイスと必死に向き合っているうちに、よくそんなに次から次に本当に色々なものを見つけられるものだ。やっと全てのアイスを口につめ終えたのを見た狂児は、ん、と僕にコンビニの袋を差し出した。こういった抜け目なく気遣いができるところに、助けられているなと感じるのと同じくらい、無性に煮え切らない思いを抱いてしまうのは僕が悪いのだろうか。
ざあざあと音を立てて流れ続ける川にぽっかり浮かぶ飛び石は、けんけんぱのようにリズム良く配置されて向こう岸まで繋がっている。側にかかる橋の上の街灯のおかげで、何も見えないほど暗くはなかったが、それでも足元は覚束なくて、流れる川は夜の闇を吸い込んで真っ暗だった。
昼間であればきっと憩いの場所として賑わっていることが想像できるこの場所は、今この時間に人影は見当たらない。川の側に降りていくと、橋の向こうから漏れる街明かりは辛うじて見上げれば届くだけだ。すぐそこにあるはずの市井の人々の街が随分遠くに感じられて、一層夜の底に降りてしまったようだった。
狂児はなんでもないようにひょいひょいと身軽に石を次々飛び越えていく。僕が一つを飛び越える間に、数歩先を行く。彼と僕とのリーチの長さの差をこんな形でも見せつけられることになるとは、少し心外だった。
「見て〜聡実くん。この石亀の形しとる」
くさくさと一人いじけている僕には気づきもしない、狂児は少し離れた先から振り返って、からりと明るい声で僕を呼ぶ。たどたどしい足元ばかりを見ていた顔をあげると、街の明かりと月の光の中でぼんやり笑う狂児が見えた。
まだまだ後ろの石でもたついている僕を見つけた狂児はその場から動かない。追いつくのを待ってくれているようだ。狂児のようにそうほいほいと進むことができない僕は、狂児の倍くらいの時間をかけて側にまで辿り着く。
亀の石は通常の石よりも少し大きく、その背中に人間が二人乗っても平気そうだった。僕にも同じ亀の上に飛び乗るように、狂児は革靴の爪先を少し右にずらしてスペースを作る。自身の運動能力をそれほど信用していない僕は、バランスを崩さずに辿り着くことができるかと、恐る恐る足を伸ばした。
「な、亀やろ」
「ほんまや」
丸い亀の背に乗るのは、石とは言え少し不思議な気持ちになる。甲羅の模様を眺めていた目を上げて、随分近づいた狂児の、それでもまだ少し高いところから僕を見る目をとらえた。
「猫と亀て、なんかおとぎばなしみたいな組み合わせですね」
夜の水面と同じ色をした瞳は、僕がそう言うと不思議そうに形を歪ませて、弓なりの月のようにきらめいた。
「そう言われると、そうかも?」
どうやら狂児にはあまりぴんと来ない例えだったらしい。同じ思想を持ち合わせていないと悲しくなるなんてそんなことは微塵もないので、伝わらないことをどうこう言うつもりはない。それに僕も僕の方で、狂児が僕のそういうところを気に入っていて面白がっている節があることには気づいているので、何も言わないでいる。
猫のラーメンに亀の飛び石。今日はおもしろいものをたくさん教えてもらったので、狂児と同じように僕も今度、家の近くにいるかわいい犬のことを教えてあげようか。スピードを落として石を飛び越えていく背中を見ながら、そんなことを思いついた。