ヴィーナスベルトへようこそ 薄明。マジックアワー。ブルーアワー。ゴールデンアワー。地球影。ヴィーナスベルト。様々に名付けられた日の入りに見える現象の名前は、きっと心を奪われた人間の数だけあるんやろうな。
数十分間のわずかな時間で刻々と移りゆく空の色によって僕たちは、今まさに地球を通じて空間と時間が回転しているのだということを体感させられる。ぼうっとしていて夜を迎え入れる準備も整わないまま、目の前に広がる海がもうじき、太陽を飲み込んでしまおうとしていた。
海面には夕陽が作り出した輝きで、火柱と見紛う明るさの燃える道が作り上げられていた。そのまわりではさざなみが、まるでちらちらと舞う火花のように、うねりに共鳴して生きているみたいに煌めいていた。
本当に楽しくて素晴らしい一日やったな。昼間に歩き倒した江ノ島が目の前に広がる浜辺で腰を下ろしてぼうっとしていると、泡飛沫のように今日一日のことがぷつりぷつりと浮かび上がる。
一日を締めるのにはまだ早い。けれど昼が終わろうとしている今この瞬間、目の前に広がると素晴らしい夕焼けとともにあることができて忖度なしにそう思えた。
隣に座って自分と同じく、ただ静かに目の前に広がる景色を眺める狂児も、同じように感じてくれているといいなと思った。
バレないように動きは最小限にして、夕陽を眺める横顔をちらりと盗み見る。遮るものは何もない、暖かなオレンジ色をした光は狂児のことも包み込んでしまうようだった。日中はかけていたサングラスもいつのまにか取り去られている。まもなくやってくる夜を迷わず過ごすために、瞳をランタンにして夕陽を灯して閉じ込めようとしているのかもしれない。
けれどそうして見つめていると、どうしてかすぐにバレてしまう。どこか別のところにも目があるとしか思えない。放り出すように伸ばしていた膝を立て直して、狂児は目尻を細めて口角を引き上げる。それは僕にしか読み取れない最小限の、それでいて最も穏やかな笑顔だった。
「しらす丼めっちゃ美味しかったなあ」
「生しらすあってよかったです」
「あんなんほんまにペロリやったな。天気もずっとよかったし」
「テラス席も海見えて気持ちよかったですよね。天気よすぎてちょっと暑かったけど」
「帽子とサングラスあって正解やったわ。あとついてた味噌汁熱すぎねんて。でもうまかったな〜」
ぽつりぽつりとお互いの口から、今日見てきたもの、味わったもの、体験したもののあれこれが溢れ出す。噛み締めるように、反芻するように、二人で過ごしたことの輪郭をひとつひとつ確かめて、忘れないように形作る。
「着替えもタオルも持ってきとけばよかったなあ。今度は海も入ろな」
「うん……ヨット欲しいですね」
「そやねんな〜! 免許とろかな」
視界の端で波打ち際を走り抜ける子供たちと時々犬を見て、狂児の語る今後に心踊らせる。全部が実現しなくとも、同じものを見て同じことを夢見て、それだけで良かった。
水平線にまどろんでいた太陽は、いつのまにかすっかり姿が見えなくなる。夜と星の帷を引き連れているけれど、まだ完全に消えてはいない夕陽が空に映し出されていて、一日で最も境界線が曖昧な時間がやってきた。
「めっちゃ綺麗な色。写真撮らんでええの。撮ったろか?」
「いいです……」
申し出を断る僕に狂児は少しだけ不服そうに口を突き出してみせる。拗ねるポイントがたまによく分からない。僕とは対照的に、スマホを取り出した狂児は空に向かってシャッターを切っていた。
徐々に藍色が空を占める割合が大きくなっていくと、呼応するように江ノ島の街には光が灯りはじめる。昼間に二人で登った展望台は夜は灯台となり、それは空の星と対をなすように広がり始めた夜闇の中で輝きを放っていた。
刻一刻と時は進み、マジックアワーも終わりを迎える頃。水平線の少し上、ひときわに輝く星を見つけた。
「あれって金星かな」
「ん? どれ? あの明るいやつ?」
「そう」
「金星やな。宵の明星」
「なんで知ってんねん……」
「え〜聞いたん聡実くんやん」
おそらく金星に違いないはずとは思ったが、こうして星空をじっくり眺めるのもずいぶん久しぶりだったので確証が持てなかった。ほとんど独り言として呟いたにも関わらず、狂児からはっきりとした答えが返ってきて失礼ながらその意外性に驚いた。
「あんなあ聡実くん。山で迷った時は空見んねんで」
「へえ」
「写真撮んの?」
「ちゃいます。星座が分かるアプリ」
「へー! そんなんあんねや」
空に向かってスマホをかざす僕に、狂児は小首を傾げる。アプリを起動して空にかかげると、今目の前に広がる星を象って、星座が一面に映し出された。
「夏の大三角形もまだ見える」
「へー、秋の空でも見えんのやね」
画面に写るいっぱいの星空が面白くて、上へ上へと腕を伸ばしてみる。これ以上は動かない首の可動域に限界がやってきてしまったことを悟ったので、いっそ背中を地面に倒してしまうことを思いついた。狂児はそんな僕を見てアッと声をあげたかと思うと、砂つくやん〜、なんてお小言も飛んできてしまった。それでも視界いっぱいに星空しか見えない、この景色を諦める理由には申し訳ないけどならなかった。
「狂児さん、大三角形の星分かります?」
「えっ、分からん」
「デネブ、ベガ、アルタイルです。織姫と彦星の星座」
「デ……あかんもう分からん。聡実くんだけそのアプリ見てずるいわあ。俺にも見して」
「狂児さん」
「ん?」
「キスしてもええよ」
どうしてだか、ものすごく無性に、突然狂児とキスがしたくなった。許可を与える体でしか狂児に乞うことができない僕はずるいだろうか。
あまりに唐突な申し出をしてしまったものだから、狂児の反応を見る勇気も準備ができないままにどうしていいか分からず目を閉じてしまう。さっきまでべらべら喋りよったくせに、なんで何も言わんと黙んねん。
さざなみの音が聞こえる。かすかに風に乗って香る潮の匂いに包まれる中で、こうして目を閉じているとまるで海の中にいるようだった。日が暮れても尚、浜辺を駆け回る子供達の声が聞こえるのも一層、現実がここではないどこか別にあるような気にさせる。
息があがってしまわないうちに、他でもないこの男から、一刻も早く酸素が欲しい。そう思って一度、早まる鼓動を落ち着かせようと息を吸う。その瞬間にふわりと、はしゃいだせいでずいぶん遠くに行ってしまったけれど、たしかにいつもの香水がすっかり狂児の肌に交わり溶けた香りとなって鼻先を掠めた。
香りが届く範囲に狂児がいる。浅ましい期待が瞼にぎゅっと力を込めさせる。中々訪れないその瞬間を待ち侘びる一秒が、永遠にも思われる長さだった。けれど永遠なんてないことを僕はとっくに知っている。ようやく触れ合った唇は、今度は打って変わって加速度的に時を進めてしまう。待っていた時間より唇を合わせている時間の方が短いことが許せなくて、離れようとする狂児を逃したくなくて、その首筋を絡めとる。今度は狂児の時間がぴたりと止まり、これでようやく帳尻が合う。
「おい舌いれていいとは言ってないんですけど」
「口開けてくれたのに」
「うるさいです」