彼の面影に浸潤す姉が異国に旅立ち、姉弟が離れ離れとなって過ごす、初めての夏。
スグリは仰向けで寝転がり、キタカミの地に息づく虫ポケモンたちのざわめきを聞いていた。自宅の縁側はひんやりとしていて、触れた素肌は心地良い。窓に重なる簾が日除けとなって強い日差しを遮っているのだ。
簾の傍には風鈴が下がっている。風鈴の外身は、雪のように真っ白のまろい陶器。表面は、紫色の花を咲かせた植物で彩られている。時折、微かに風が吹く。風鈴は、ゆらゆらと短冊を棚引かせながら、慎ましくも涼やかな音を奏で続けている。
じわりとかいた汗は滴ることなく、スグリの体から離れては纏わりつくことを繰り返す。ぼんやりと初夏の爽やかな熱っぽさに浮かされていれば、細やかな音色と共に、坂下の田畑から湿った気配が漂ってきた。
スグリは体を起こした。簾を捲り、軒下から仰ぐ。綿雲と碧が、空のキャンバスを仲良く半分に分けていた。
スグリは思う。あの日の天気は晴天だった。
新鮮ない草の香りが鼻を掠める部屋。深々と下げた面を上げれば、口数が少なく、表情も固い男。将来の伴侶になることは決してない人。料亭の庭の立派な青芝を一歩一歩進み、覚束ない足が容易く地を踏み外したあの瞬間。心は坂道に置いたボールのように転がり落ちて、触れた彼の体温に包まれていた。
更に言えば、大安吉日でもあったらしい。これから出会う男女のために、できるだけ周囲の人間から誂えられた日取りと演出であったことを考慮しても、スグリは身に余る程の愛情を与えられたような気さえした。
スグリは何度もその思い出を振り返っては思う。
ーーあの日は晴天だった、のに。
今から一年ほど前の夏のことだ。
まだ日差しの柔らかな早朝、スグリは叔父と叔母に連れられ、高級料亭の控え室に居た。大きな鏡の前で、スグリはぎゅっと目をつむり、なされるがままになっていた。
素肌が綺麗だから。そんな理由から顔全体におしろいを叩かれて、土台は完成した。眉は小さな鋏を使い、形だけを整えられ、厚い目蓋の上には、陰影の役割の朱色の顔料に重ねて、蜜柑色のアイシャドウが薄く薄くひき伸ばされる。
目の前の女性は、舞台で舞うバレリーナの如くしなやかに洗練された動きで、スグリ相手に化粧を施していく。鏡の前から彼女が退く度に、スグリは鏡を覗き込んだ。どことなく目の幅が大きくなったようだと感じた。物珍しさに、顔を前後左右に動かせば、細かいラメが光を反射してきらきらと輝いた。まるで魚ポケモンの鱗の光沢のようだった。
ほぅ、と関心で思わず頬が緩めたのも束の間のこと。たっぷりの毛束が両頬を撫で付け始め、急にスグリの心臓がぎゅっと縮まった。
最後に唇を閉じ、くすぐったさに耐える。毛の短い筆が右往左往したかと思えば、己の唇に朱色が塗られていた。雪の中で咲き誇る一輪の椿のように、それは一際目立つ朱だった。
「あら、あらあら。可愛くしてもらって~」
甲高い陽気な声が聞こえ、鏡に叔母の姿が映りこむ。
もう約束の時間なのだ。きっと、この化粧も完成なのだろう。
「さ、もうお客様がお待ちよ。行きましょう。ゼイユちゃん」
暑い暑い夏の日、振り袖を着込んで、寸胴になって、スグリは、ゼイユとして振る舞うことになった。
スグリは年期の入った板張りの廊下をよたよたとした足取りで歩いていた。
歩く度に揺れる色鮮やかな振り袖は、誰が見ても一等級のものだと分かる。しかし、彼にとっては全身を覆い尽くす窮屈な布の固まりでしかなく、小さな両足に履いた足袋ですら伸縮性が少なく彼の動作をよりぎこちなくさせた。
日本庭園を横目に縁側を進んでいると、案内人が座り込む。失礼いたします、と声を上げれば、中から短く返答があった。
今から両家の顔合わせが始まるのだ。スグリはゴクリと音を立て唾を飲み込んだ。スグリの躊躇いは少しも気にも止めず、障子が敷居に沿ってゆっくりと滑った。
まず、世話役の叔母や叔父が部屋に入り、スグリも二人に続く。部屋では、不意に転ぶことのないようにゆっくりと足を上げ、慣れない足取りで敷居と畳の縁を跨いだ。廊下はギシッと一際大きな音を立て、スグリを送り出した。
スグリは室内を見渡す。畳の上に白髪の青年が一人、隣に妙齢の男性、二人の後方には親族らしき人々がズラリと並んでいた。
襖を背にし、向かい合うようにスグリたちも座った。
「お忙しいところ、どうぞおいでくださいました。本日は良きご縁になりますよう、お集まりの皆様、どうぞよろしくお願いいたします」
着席するや否や、見合い相手らしい青年の横にいる男性がつらつらと話し出す。彼は、叔母同様に世話役らしかった。
見合いが始まった。その男性から順々に自己紹介と挨拶を行っていく。男性から促され、目の前の青年も口を開いた。
「ご紹介に預かりました。カキツバタです」
抑揚のない音の響きだった。
スグリも叔母に促され、答えるように名を告げる。
「ゼ、ゼイユ……です」
「……」
「……」
二人とも、名前だけを口にしただけに留まった。
スグリは伏し目がちに、前方の青年に目を向けた。彼は真っ白なシャツの上に、銀色のベストを重ね、折り目のついた同色のスラックスを履き、畳の上に鎮座している。胸元にはループタイ。見たことのない宝石がついていた。
青年は動かない。
スグリは動けない。
いつまでも、二言目の無い男女に室内は静まったままだ。スグリはぎゅっと唇を結ぶ。なんとも居心地が悪い。
隣にいる叔母に目を向けようとすれば、青年の隣に座る男性が苦笑したのち、ゆっくりと語り始めた。
「身内である私が言うのも何ですが、カキツバタは常識にとらわれず行動できる柔軟な思考を持ち、ポケモンバトルの腕前もなかなか光るものがあります。バトル特化の学園に在籍しておりましてな。ただ、年の割にやんちゃな部分も少々ありますから。なぁに、ゼイユさんの気丈さでよくしつけてやってください」
饒舌に主役を褒め称えた親族らしき男性と目と目が合う。思わず、スグリは目線を下に向けた。口元は緩く弧を描いているものの、形も瞳孔も細い瞳は冷たい印象が色濃かった。
尚も無口なスグリの様子を見て、叔母がすぐに言葉を続けた。
「海の向こうの大地は広大だとお聞きします。数えるのが億劫な程、多くの人々が暮らしてらっしゃるのでしょう。そのような方々を追い抜き、優秀な学園で過ごされていらして。大変ご立派ですわ」
叔母が惚れ惚れするように言う。
視線の端の方で相手の青年は一度だけ、深々と頭を下げた。
スグリは、まるで叔母自身が見合いをするかのようだ、と思った。すぐに、それはそうか、と一人納得する。このお見合いはスグリだけの問題ではない。叔母も含めた家同士の都合なのだから。
もしかしたら、気乗りしているとは思えない青年も同じような理由なのかもしれない。スグリは青年を気の毒だとも思った。
「当方のゼイユは、キタカミの里ではなかなかの美人として人気者でして、見た目に違わず気丈な振る舞いをしつつも、淑やかな女性です。きっとカキツバタさんの支えになるでしょう。意思が強いといえば聞こえがいいですが、頑固な部分も持ち合わせておりますゆえ、時には根気強く話をしてやってくださいませ」
紹介文が姉のままで、驚く。
自分は人気者でもなければ、気丈な人間でもない。元々は姉を連れてくる予定だったのだから、致し方ないかもしれない。はったりはいつまで持つのやら。
ご趣味は。
何を学んでいるのか。
ポケモンバトルについては。
親族から続々となされる質問に細々とした声で短く返答するばかりの時間が続いた。
スグリの足がしびれて限界が来ようとしていた頃。
世話役の男性が笑みを湛え、そろそろですな、と呟いた。
「さあさあ、あとは当人同士で、庭でも散歩していらっしゃい」
「そうですね、あとは若い人たちにお任せしましょうね」
男性と叔母が微笑みあい、閉じきっていた障子を開ける。途端に熱風のような風が入ってきた。
青年の親族が出ていき廊下に並んでいた。スグリたちもそれに続いた。
太陽は頂点を目指して天をなぞる途中のようだった。縁側に出れば、日差しは庭の緑を鮮やかに照らしていた。春には若かったであろう新芽がより力強く葉を広げて、青葉がよく映えている。
広大な庭には、通路の境界として玉砂利が敷き詰められ、真っ白の道が庭の奥に続いていた。庭に降りるために置かれた一際大きな庭石には、既に青年の革靴とスグリの下駄が仲良く並んでいた。
先陣を切ったカキツバタという青年は、スラックスのポケットに手を入れたまま、涼しい顔で靴を履いて、こちらを振り返る。
スグリも靴を履くために、小さな歩幅で廊下に踏み出した。しかし、靴を履くことでさえ手間取ってしまう。
振り袖はあちらこちらに神経を使うのだ。重なった布のせいで、屈むのも一苦労。袖は着物の丈と長さが変わらず、廊下や地面で擦れてしまうことが怖くて碌に動かす気が起きない。結局、そろそろと右足に下駄を履き、左足も同じように時間をかけた。
足元に目を向けていれば、視線の端で彼の大きな革靴が輝いていた。磨かれて間もないらしいそれは、スグリの下駄よりも二回りほど大きい。
スグリはごくりと唾を飲み込んだ。
庭先で待つ青年に向かい、顔を上げた。が、スグリは思わず目を伏せた。
青年は口を固く結び、細い眉は平坦で、瞳孔の細い瞳にも覇気がない。スグリは彼の緊張の表れというよりは、拒絶の意図だ。和室では感じていた。いつまでも縮まることのない距離感。それは確信に繋がる。
スグリは威圧感を覚え、一歩下がった。そろりと廊下を振り返る。もう後方の廊下には叔母も叔父も、目の前の男の親族も居なくなっていた。先ほどまで緊張の種だった人々に縋るのは虫のいい話だが、彼ら以外の大人は彼らだけだったのだから仕方がない。とはいえ、今更取り付く島もない。
二人の時間が始まった。
「あ、の……」
「……なんでぃ?」
「い、いえ」
「ほぉ、言ってみたらどうだぃ?」
カキツバタが身を屈めてスグリの口元に耳を寄せる。スグリは親族も含め彼の目線に苦手意識があったので、ゆっくりとおぼつかない口元をこじ開ける。
「……お!!」
「お?」
「むぐ」
あぁ、やってしまった。スグリは咄嗟に手で口元を押さえ、心の中で唱える。
ーー今日はワタシ、わたし、私だべ。よし!
カキツバタは「ん?」先を促すように耳に手を当てたのを見て、大げさだと思いながらも言葉を吐き出す。
「……わっ私たち、今から、ここで何を」
「やや、そいつは難題だねぃ。だが、それはオマエさんが一人だったらの話」
ほら、と緊張から振袖を握っていた手を解かれ、捕まえられる。
和室でカキツバタは仏頂面で塗り固めていた表情が色濃い印象だった。しかし、眼前では仮面を外したように彼はふにゃりと微笑んでいた。
「ちっせー手だねぃ」
紅葉みてぇ、緊張感のない言葉をこぼした彼はスグリの手をまじまじと見ている。
「あぁう……」
「そーんなに、カチカチになんねぇでも。こーいうのは二人でテキトーに……」
頭上から声が注がれる。スグリは彼の手を見た。彼の手は関節の骨が角ばった男らしい手だった。特に気の利いたことが言える気もせず、それらを喉の奥底に飲み下す。
「あー。さすがに歩き出してもらわないとオイラのエスコートは始まらないってもんで」
頭をかきながら、目の前のカキツバタが言った。
「あ、は、い……!!」
緊張は歩くことさえ忘れてしまうほどであったらしい。彼に手を引かれ、ゆっくりと歩き出す。
彼の手のひらは再びスグリのそれをぎゅっと握った。重なった素肌に熱が溜まっていった。