破滅1
「退屈……」
日が傾いた頃、英智がそう言ったのでつむぎは椅子に改めて座り直す。二人きりの病室に小さな金属音が響いた。
「退屈?」
きょとんとした風につむぎが言った。英智は無言で頷いて、つむぎが授業の内容を書き留めたノートを扇子のようにして扇いだ。特徴的な丸い文字が見え隠れして、つむぎはそれをただ眺めている。
「ごめんなさい、今日はあまりためになる情報とか無かったですよね」
困ったように笑うつむぎを見て、英智は少し苦笑した。
「違うよ、勘違いさせてすまないね、つむぎ。僕が退屈なのは……ほら、この病室がさ」
「ああ、ほぼ一日ここにいるんですもんね。……そうだ。暇つぶしがてら、今度おすすめの本でも持ってきましょうか?」
「……そうだね。お願いしようかな」
つむぎはにっこり笑って、分かりました、と頷く。英智の好みはどんなものだろうか、スリルが欲しいならサスペンス? 自分が好むファンタジーは、あまり好かないだろうか? そう考えるだけでたくさんの選択肢が広がってつむぎは腕を組んで真剣に考え始める。
そんなつむぎにふと、英智が問いかけた。
「ねぇ、つむぎは恋愛ものとか読むの?」
「えっ?」
「話題のドラマとか、原作は小説のことが多いだろう?」
「確かに。……でも、うーん、そんなには読まないですかね……英智くんが読みたいなら見繕って持ってきますよ」
「……いや、いいかな」
そういうもの、僕はあまり好きじゃなくて。と、英智は続けてから微笑した。
恋愛もの、といって思いつくものが、つむぎは特に無かった。先程の通り恋愛ものを好んで読む訳でもないし、自分の好きなジャンルであるファンタジーものでも、多少は恋愛の要素が絡んでくるが、つむぎにとってそこは大して重要なものでは無かった。
確かに、ドラマでも恋愛を取り扱ったものは多々あり、勉強の一環で流し見をすることもある。英智も、この病室に一人でいるのだし暇つぶしやつむぎと同じく勉強に見ることもあるだろう。しかし、英智はそれをあまり好きではない、と言う。
自分はどうだろう、とつむぎは考えて、なにも思いつかなかったので、ただ笑った。
「……壊したくなる、から」
つむぎの顔を見ないで、ベッドのシーツに浮かぶ皺をじっと見て英智が呟く。
つむぎは何も言わなかった。
近くにあるナースステーションの雑踏が遠い世界のもののように聞こえる。
「つむぎ、今日はありがとう。また明日、待ってるよ」
何事も無かったように英智が笑うので、つむぎは頷いて、病室を後にした。
2
あんずが、それではよろしくお願いします、と礼儀正しくお辞儀をしてから、ニューディの事務所を出ていく。所属しているアイドル何人かが、子役としてとあるドラマに抜擢された。
つむぎはあんずから預かった書類に目を通す。主演、天祥院英智。その後に、女優や俳優の名前が連なる。
「……」
ふぅ、と小さめのため息を吐いて、ぐっと腕を伸ばす。原作は、つむぎも知っている恋愛小説だった。人と人が出会って、紆余曲折を経て幸せに結ばれるという、スタンダードな物語。英智は、この仕事をどのような気持ちで受けたのだろうか。もうずいぶん前のことを覚えていてわざわざ気にしているのは自分だけで、英智はとっくにそんなもの忘れているのかもしれない。
アイドルたちの役はエキストラだったり一言二言だがセリフがあったりして、これは喜びそうだ、とつむぎは書類を見て微笑む。
今日の事務仕事を終えたところで、夏目も宙もそれぞれの仕事に赴いたため、ちょうどすれ違いになってしまった。手持ち無沙汰となったつむぎはたまにはご褒美でも、と喫茶店シナモンへ足を運んだ。今月限定のケーキは濃厚なガトーショコラで、ラズベリーのソースとそれからホイップクリームが添えられている。光と翠が一緒に食べに行ったのだと部屋で嬉しそうに話しているのと、翠が見せてくれた写真に一目惚れしたのを思い出しながら吸い込まれるように店内へ入る。
「……あ」
「あれ、英智くん? 奇遇ですね?」
「……つむぎ……うん、奇遇だね。休憩?」
ちょうど店内に入ってきたばかりらしい英智が驚いたように声をかけてくる。三時のおやつには遅いし、夕飯にしては早すぎるこの時間帯にここへ来るということは、英智もちょうど仕事がきり良く終わったのだろうか。店員がまだ来る気配が無いので、つむぎは記名台に青葉、と書き込み横にある椅子に座る。
「そういう感じです。英智くんもですか?」
「まあ……そうだね、僕もそんな感じ」
「お疲れ様です」
ああ、君もお疲れ様、と英智は力なく微笑む。店員が小走りでこちらに向かって来て、英智に
「一名様でよろしいでしょうか?」
と、問いかける。英智は椅子に座るつむぎを一瞬見てから、
「いや、二名で」
「えっ」
言うが早いか、英智はつむぎが書いた青葉という字を素早く二重線で消し、つむぎに早く立て、と促す。
「二名様ご案内です!」
店員が明るくそう言うので、つむぎは何も言えなくなり、英智の後ろについて行く。
向かい合って座り、お冷が出されたのでつむぎはそれをちいさく一口だけ飲んだ。英智は真剣にメニューを見て、戻ったり進んだりをしている。
「あの、英智くん?」
「……何」
「き、機嫌悪い……えっと、なんで俺と相席してくれるんですか?」
英智は心底――本当に疲れたようにため息を吐いた。つむぎの困った顔はますます困ったようになり、英智は疲れ果てた顔でつむぎを見つめた。見つめる、というよりは睨み付ける、の方が表現として正しい気もするが、つむぎはとりあえず見つめ返した。やがて、英智は完全に俯いてから、ぱっと顔を上げた。
「……ガトーショコラにしようかな。つむぎは?」
「あ、えっと」
俺も、ガトーショコラで、とつむぎが言ってからさっと手を挙げる。注文を手早く済ませてから、つむぎは英智のことを注意深く――なぜ不機嫌なのかを探るように――観察し、英智もつむぎを暴くように目を配らせる。
「そういえば……聞きましたよ、ドラマの主演が決まったんですよね? すごいです、おめでとうございます」
「ありがとう、君のとこの子たちも出るんだったね」
「はい! 伝えたらみんな喜んでて……もし会ったら、よろしくお願いします」
つむぎがぺこりと頭を下げて、英智がもちろん、と柔らかい声色で答える。微笑みを貼り付けたまま、英智が言う。
「つむぎ、この話ってどう思う?」
「ドラマの話ですか? うーん、最終的にはみんな幸せになって――その、良かったな、って」
「そう……」
英智はテーブルにある氷と水が入ったコップを見つめる。それに一切手を付けないので、氷の角は取れて滑らかになり、水も量を増していた。氷がにわかに動いて、淡い音を出す。
「英智くんは、覚えてないかもしれないですけど」
何かを言おうとした英智の雰囲気を汲み取りつつ、つむぎはそれを断ち切るように口を開いた。英智がつむぎの目を見つめて、続きを、と訴えるので、見つめ返して返事をする。
「……昔、俺が病室に本を持っていくって約束をしてたんです。英智くんは、普通の恋愛もののお話は好きじゃないって言ってて、だから普通じゃなくてもっと変わったものが欲しいんだと思って、沢山探したんです」
「…………」
「でも、やっぱり見つけられなくて。思い切って自分で書いてみたんですよ」
英智は、ああ、と声を出した。相槌や意図したものでなく、全く気付かないで落としたものを拾われた時のような、そんな驚きに満ちた声だった。英智の記憶に、確かにあったのだ。一面につむぎの特徴的な丸い文字で書かれた原稿用紙も、それを持ってきたつむぎのはにかんだ笑顔も。英智が、それにどんな要望をつけたのかも。
「もっと破滅的にして」
と、英智が言ったのに対して、つむぎは焦ったような顔で、
「もう充分だと思ったんですけど」
なんて言うので、英智はいやまだだ、と語気を強くして言うとつむぎが困った顔をするので英智は少し充足した気持ちになった。
結局、その物語というのは中途半端なところで終わってしまって、でも、つむぎにそれについてなんと言えば良いのか分からずじまいのまま、自分は別のことをしていてその物語を奥へ奥へ押し込んでいたらしい。
「覚えてる。たくさん書いてくれてたよね」
「あ、覚えててくれたんですね!」
嬉しいです、とつむぎがしみじみ言うので、英智は居心地が悪くなり、ぶっきらぼうに、それで? と突き返す。
「結末、きちんと伝えられなかったなって思ったんです」
英智が少し驚いたような顔をしたので、つむぎは苦笑して、恥ずかしそうに水を飲んだ。
結末。英智はそれを自分が聞く資格があるのだろうか、と思案する。だが、資格というのは自分で決めるものではなくて、大体他者から与えられるものなのだ。この場合、物語の作者であるつむぎから英智へ結末を伝えたいとなるなら、英智は聞く資格というそれよりも、それを聞かなければならない資格があった。
「そう……それは、なんと言ったらいいのかな。……僕は、嬉しいけれど」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。作者冥利に尽きます」
「……」
つむぎが、ちいさく息を吸った。その呼吸の音が聞こえるくらいに、英智は耳を澄ませていた。
「あの二人は――」
「ガトーショコラのティーセット、お二つお持ちしました」
二人で顔を見上げると、どうやら注文していた品々が到着したようだった。
卓上に、つややかなガトーショコラと鮮やかなラズベリーのソースにホイップクリームの乗った皿、それから少々大ぶりなカップに入った紅茶が手際よく並べられる。伝票を置いて、店員は速やかに去っていく。
「……あはは、歯切れが悪いですけど、一旦食べましょうか?」
「ああ、うん……そうだね」
「わ、おいしいっ」
つむぎはさっそくガトーショコラをひと口食べて、にこにこと幸せそうに笑った。英智もひと口食べて――もちろん、ホイップクリームを付けてから――顔を綻ばせた。紅茶も濃厚なガトーショコラとよく合うさっぱりしたフレーバーのものだった。
今まで、つむぎとこうしてお茶するなんて考えたことがあっただろうか? 英智はそう考えてから、ない、と自答する。それがなぜかというと、やはり自分にそのような資格は無いと思っていたからで――。
「久しぶりですね、こんなふうにお茶するの」
「……うん、本当に」
「英智くん、俺に紅茶淹れさせたの覚えてます? すごく高価な茶器を持ってきて、『紅茶を淹れて』って……」
「ちょっと、それまさか僕の真似? それに淹れさせたって言い方も気になるのだけど?」
「あはははっ! でも本当じゃないですか?」
僕は君に紅茶の淹れ方の心得を、と英智が屁理屈を言うのを、つむぎは懐かしそうに見つめて時折声を出して笑って、英智にじとっと睨まれた。
「も、もうこの話はいいでしょ。さっきの話に戻ろうよ」
「……あ、そうですね?」
「あの二人、どうなったの」
つむぎが、紅茶をひと口飲んだ。
「死んじゃいました」
「…………」
独特な、あの感情の読めない瞳でつむぎは言った。微笑んでいるように見えたし、真剣な表情にも見えた。とにかく、読めなかった。ただ、英智は薄気味悪いものだったり、いわゆる恐怖のようなものは微塵も感じなかった。
――死んだか、そうか。
そう、すんなり飲み込めた。どうして死んだのか、何が原因か、聞く気は起きなかった。英智にとってもつむぎにとっても、それはさして重要なものではない。交通事故でも、急に隕石がいきなり突っ込んできて死んだ、とされても、英智は反論せず飲み込むだろう。
「……ふぅん。そう」
「…………」
破滅的だ、と英智は思った。物語のシナリオとしても、英智自身が望んでいたことも、それを叶えてくれたつむぎも。
破滅とは、滅びることで、身を滅ぼすことである。
「破滅的だね」
だからそう言った。つむぎは、そうですね、と妙に安心した顔でそう言った。
英智がガトーショコラをひと口食べた。それから、ふと思った。
「……つむぎ、僕は、退屈じゃなくなったよ」
「え……」
「……あの時、君に退屈だって相談しただろう。そうしたら君は、退屈じゃなくなるようにあの物語を描いてくれた。なら、僕はその行動に報いるべきだと思ってね」
「いや、そんなこと」
英智は目だけで微笑んで、つむぎを封殺した。つむぎはたじろいで、迷った末に冷たい水をぐっと飲み、その様子を見て英智は微笑みを崩さず続けた。
「もう僕は退屈じゃない」
英智は変わった。それと同じようにつむぎも変わった。破滅的では無くなった。それはきっと、いいことなのだ。
「それは……」
つむぎが柔らかく微笑む。
「それは、良かったです。英智くん」
幸福そうに笑うつむぎを、英智はまっすぐ見ることが出来た。おっとりした瞳が紅茶の水面を見つめて、やがて目が伏せられる。
「また、英智くんのために何か書いてもいいですかね?」
退屈じゃなくなった英智くんに、とつむぎは続けて困ったように英智を見つめた。英智は数秒ほどつむぎの困った顔を見てから、
「……もちろん。むしろ、いいのかな」
と、少々驚いた面持ちでそう言う。懐かしい、あのさらさらで薄い、どこか頼りない原稿用紙の束。つむぎの丸まっていて、それでいて迷いのない文字たち。それを読んでいる時の、つむぎのそわそわした雰囲気。
そんなものを、英智は連鎖的に思い出した。英智はつむぎの持ち込んだものに、面白かったら面白い、と言ったし、つまらないと感じたら分析してからここがつまらない、と根拠を持って言った。つむぎはそれに従うこともあったし、また、それを否定することもあった。いいえ、英智くん、とそう言ったつむぎの顔を、英智はパズルを組み合わせるかのように思い出した。
「じゃあ……英智くん。どんなお話が見たいですか?」
つむぎが英智に問いかけた。英智が、つむぎの顔を見つめ返す。相変わらず言うことを聞かない髪の毛や、きれいに幅の広い二重や、まさにアイドルらしい優しい微笑みを。
「……そうだなあ」
思いっきり、幸せなものにして。
つむぎが笑顔で頷いた。