あのね「結斗くん、おかえりなさい」
相も変わらず薄暗い実家に帰ると、弟のつむぎが俺を出迎えた。つむぎは髪の毛を後ろでちいさく一つに留めて、エプロンをつけている。漂う匂いは、香ばしくて食欲をそそった。
「……ただいま。なんか作ってんの?」
「夕ご飯……母さんが今日も遅いって連絡入ったから」
「……あの人変わんないなー……」
靴を脱ぎながらなにを作っているのか聞くと、カレーだと言う。これから水を入れて煮込むのだそうだ。
「忘れもの?」
「うん」
答えてから、自室のある二階へ向かう。昔と変わらない扉を開けると、部屋はほぼそのままだった。大学に入ったら買い足せばいいと思っていたが、一人暮らしは思った以上に楽じゃない。こうして来たくもなかった実家に戻るのも不本意だが、残していてくれるだけありがたいものだろう。
もしかしたら、つむぎが母に言ったのかもしれない。
捨てないで。結斗くんの持ってるものだから。
そんな風に言ったのかもしれない。想像したつむぎの顔は、なぜだか今の高校生であるつむぎではなくて、幼い――小学生くらいのつむぎだった。
「……お、あったあった」
「見つかった?」
「ん」
階段を下って台所に顔を出すと、つむぎが鍋をかき混ぜていた。ぐつぐつぐつ、と煮込む音と、いい香り。ルウは甘口と中辛を混ぜて使うらしく、箱が二つ積み重なってそばに置いてあった。
「……結斗くんも、食べていく?」
「んー……そうしようかな」
「えっ、ほんと?」
つむぎはあからさまに嬉しそうに振り返った。ばっちり目が合うとつむぎは即座に目線を戻す。
「ちょっと時間かかるけど」
「いいよ」
「えへへ……」
「何、うれしいの?」
「うん。だって、ひとりだと寂しいし」
そばに寄って鍋を覗き込むと、ふわふわと湯気が顔をくすぐった。ローリエがくるくる回って、透明な水とじゃがいもやにんじんがガスの火によって浮かび上がっては沈んでゆく。
つむぎは都度丁寧に灰汁を取って小皿によけて、を繰り返していた。単純作業が性に合うらしく、じっと鍋を見つめている。
「どう、学校」
「……今、ユニット誘われて……それで、組んだ」
「そ」
「結斗くん……」
「どした」
「大学、卒業したら……戻ってくる?」
ゆっくりと顔をあげて、つむぎが聞いた。
「……なんで?」
「……三人で、」
「つむぎ」
制するように名前を呼ぶと、つむぎは少し泣きそうな顔をしていた。その顔は、子供のころとあまり変わらなくて、すこし懐かしい気持ちになる。
つむぎはきっと純粋に、信じているのだ。母と、俺と、つむぎとで暮らした幸せな日々を。信じ続けているのだ。
母親に似ている。
「ルウ、そろそろ入れる? どれ入れるの?」
「甘いのと、辛いのを半分ずつ入れる……けど、その前に、はちみつ」
「隠し味? チョコじゃなかったっけ」
「前に買ったはちみつがすごい大きいやつで、使い切れないから最近入れるようにしてる」
「なるほど」
そう言いながら戸棚から持ってきたはちみつは、なるほど、確かに二人暮らしでは到底使い切れない量のものだった。
いただきます、と手を合わせてから、夕食のカレーを食べた。居間のテレビはニュース番組の的はずれなコメントを吐き出している。
「お、美味いね」
「ほんと? よかった」
俺の一言を聞いてからつむぎはスプーンを口に運んで、うんうん頷いた。
「誰かと飯食べるの久々かも」
「俺も」
つむぎと目が合って、お互い苦笑する。母親の帰りが遅い時は、買いためていたレトルト食品で夕食を済ませたものだ。たまの外出の時は、チェーンのファミレスなんかに入って、お互い頼んだものを半分こしたりもあったな、と思い出した。
「……相変わらず? あの人」
「あはは……相変わらず。でも、ちょっとずつ良くなってるよ。カウンセリングとか通ってるし」
「カウンセリング? 怪しい」
「ほんとのやつだよ。臨床心理士さんが話を聞く」
一体どんなカラクリなんだろうか。あの母親がまさかカウンセリングだなんて、俺には到底想像がつかなかった。
「どういう風の吹き回し?」
「……さっき言った、ユニット組んでる子が……」
話を聞いて、俺はますます事態に混乱した。理解できる許容範囲をとっくに超えてしまった、というほうがより正しいかもしれない。
つまるところ、つむぎの通っている学校にとんでもない御曹司がいて、その子が我が家の抱えている借金を全て肩代わりして返済した(!?)うえに、母親の散財再発防止のためのカウンセリングに通わせている、という。
「……なんだ、それ」
「……」
「いや、それ、なんか……騙されてないか?」
「……誘われたユニットでアイドルをしてくれれば、お金は返さなくて、いいって」
「でも……母さんは?」
「『やったあ!』って……」
「なんなんだよ、アイツ……」
母の顔は容易に想像出来た。つむぎに似ている――この場合、つむぎが母に似ているのだが――おっとりした瞳で、にっこり微笑むのだろう。胡散臭い神様だか、霊能者だかのおかげだなんだ、うんざりするほど聞いた。
しかし、この場合――相手はぼったくり目的の宗教や占い師ではない。ぽっと出の御曹司だ。金なら文字通り腐るほどあるのだろう。我が家の借金は、彼にとって『はした金』だという。生きている世界が違うのだ。そのはした金を後から返せなどという、ケチで品のないことは、彼はしないように思えた。
「……ごめんね。勝手なことして」
「いや、問題解決はしてるから、まあかなり助かるけどさ。それ、お前大丈夫、なの?」
「……うん。やりきれば、きっと」
「きっとって……。つむぎ。もう分かると思うけど、うまい話には絶対に裏があるから。絶対」
「……」
「直接危害を加えられなくても、なにか大事なものを取られたりしたら、元も子もないよ」
多分、俺たちは同じような思い出を思い出していた。一人目の父親のことや、元の家に住んでいた時や、母親のことを。人より余計な思い出だけは持っている俺たちは、そういうものに敏感だった。つむぎは、母親にやっぱり似ているから、若干疎くはあったが。
「つむぎなら大丈夫だと思うけど」
「……結斗くん」
「困ったらあの人じゃなくて、俺のこと頼れよ」
「……ありがとう」
カレー冷めるよ、と声をかけると、つむぎは急いだ様子でスプーンを口に運んだ。
俺が食べ終わった皿を洗っていると、つむぎがそばに寄ってきた。
「何」
「洗い物、ありがとう」
「いいって。作ったのつむぎじゃん」
「うん……」
そのお礼だけ言いに来たのだろうかと思うが、つむぎは言い終えても尚台所から出ていかなかった。食器は二人分で、とくに溜まっているものもなかったので、さっさと洗い終えてしまう。
つむぎは結局終わるまでずっとそこにいた。
「どした」
「ううん」
帰り支度のために居間の端に置いていたリュックサックとアウターを手に取ると、やっぱりつむぎは着いてきた。
「つむぎ〜、どした〜」
「……」
「どしたって」
「帰る?」
「なんで。帰るよ」
「そっか」
そうだよね、とつむぎは繰り返して、玄関に向かう俺に着いてくる。
だって、ひとりだと寂しいし。
と、言っていたつむぎを思い出して、なんだか悪いことをしているかのような気持ちになった。そりゃあ、寂しいだろう。三人で暮らしていた家だ。一人でいてはどうしても持て余す。
家を出る時に、つむぎに着いてくるか聞いたことがある。つむぎはやっぱり首を縦には振らなかった。弟は人の気持ちを考えられるやつだから、母親を置いていけなかったのだ。俺のように、気付いていて置いて行けるほど、つむぎは冷たくない。
「今日は帰るけどさ」
「……」
「今度はつむぎが俺の家遊びに来たらいいよ」
「……ほんと?」
「ほんと、ほんと。なんなら、泊まってもいいし」
「ほんとに?」
繰り返して、つむぎが言った。いいよいいよ、と俺は頷き返す。つむぎが嬉しそうに笑って、右側の髪の毛を指で巻いていじった。俺と違って柔らかいつむぎの髪は、すぐくるんと元の通りに戻る。
「カレー、ありがと。一食分浮いちゃった」
「ううん。……明日もあるよ」
「あはは、明日かぁ。明日はバイトあるからなぁ」
「じゃあ今度は、結斗くんの家で作るね」
そうやってつむぎが笑って、俺は実家を後にした。
つむぎが、両手であのはちみつを抱えてくる様子を想像して、笑ってしまう。
やっぱりなぜか、想像のつむぎは小さくて、はちみつは見たままの大きいそれなのだった。