悪夢 はっと意識が覚醒し、英智は辺りを見渡した。今日はfineの仕事に関する先方との打ち合わせをする予定だったのを瞬時に思い出し、だんだんと頭が冷えていく。話し合いの内容は上手く思い出せないが手元に資料と『来週火曜日 9:00~』という走り書きを見るに自分はしっかりと打ち合わせを終えた後のようだった。その割には記憶が無く、英智は眉間を少々強めに押しつつ疲れをひしひしと実感する。特に今日は予定が詰まっていたはずだ。次の集合場所はどこだったかな、と記憶を手繰り寄せつつ会議室のドアノブに手をかける。
「あれ」
ドアを開くとそこは見慣れた廊下ではなく事務所だった。自分の事務所ではなく、ニューディメンションの未だに見慣れないオフィス。先程の仕事は、英智の記憶が正しければニューディとの合同でも無かったはずだ。それなら、なぜニューディのフロアにいるのだろうか。兎にも角にも、英智はここに用事は無いため足早にそこから出ようとする。
「テンシ!」
無邪気で弾んだ声色。振り返ると月永レオがいつもの人懐っこい笑顔で自分を見ていた。
「月永くん。どうかしたの?」
レオは相変わらずニコニコと微笑んでいる。
「オバちゃんが探してたぞ!」
「……え」
レオの言う『オバちゃん』とは、即ち青葉つむぎであり英智は彼との予定は最近なにもなかったものだから、余計に驚いた声をしていた。つむぎはまあ、言わせてみればどんなに小さな用事でも自分を探して直接会おうとするところはあるにはある。
ただ、自分を探しているなら。
「こっちには何もないけど……」
英智は自分のズボンのポケットにしまっていた端末を取り出しホールハンズをチェックする。自分へのメッセージはつむぎ以外からも受信していなかった。神経質なつむぎの事だから端末にメッセージを送った上で自分を探しそうなのに。
「えっと」
端末から目を離し、レオにつむぎはどこかと聞こうとすると、そこは夢ノ咲学院の生徒会室だった。
そうだ、英智は今日ライブの可決やらこれからの方針やらでfineのメンバーと話し合いをするところだった。つむぎが凪砂と日和を捕まえるのにずいぶんと苦労したようだから、せめてこのくらいは報いなければと早い時間に入室したのだ。英智以外のメンバーはまだ集まっていない。変に焦って資料を確認する。これからの方針、Valkyrieとのライブ対決。メンバーの氏名や生年月日や経歴。つむぎの集めた学年内のイメージや情報。つむぎのまあるい文字がびっしりと並んでおり、それらは壮観だった。
ふと、英智は思い出す。もうこれは過ぎ去った事ではなかろうか。Valkyrieは放送委員会の子が故意に犯した機材のトラブルで音源が再生されず、不戦敗のような結果になっていたはずだ。英智はじっとりと嫌な汗をかきながら、もがくように他の資料を漁った。紙の擦れ合う音が、変に鼓膜にこびりつく。
七夕。七夕ライブ。
その文字を目が拾い、ホチキス留めにされた資料を手元に寄せる。そうだ、もうこんな季節なんだから汗もかく。今は夏だ。英智は手をぱたぱた仰いだ。少しの風と快適さ。今日遅くまで残っていたのは、このライブの概要の確認や内容の詰めだった。ああ、嫌な夢。英智は天井を軽く見上げてから伸びをした。
ちょうど、生徒会室の扉が音をあげる。
「英智くん、ちょっといいですか?」
のんびりした声と共につむぎが入ってきた。英智の身体は、ほとんど反射的に冷や汗をかいた。もちろん、動揺も警戒も決して見透かされないように平然とどうぞ、なんて口走ったりもした。群青の短い髪をふわりと跳ねさせ、少し申し訳なさそうにつむぎが近づいてくる。眼鏡も取り払って、まるで出会った頃そのままのような風貌だった。
「髪、切ったの?」
「すみません、忘れ物だけ」
英智の疑問など聞こえないかのようにつむぎが小さな紙切れを机に置いた。切符だった。英智は車の送迎が主だったので最初はゴミかと疑ったが、薄いピンクと小さな穴の空いたそれは切符と言う他なかった。しかし、英智にこの切符の記憶はなく、つむぎの言う『忘れ物』ではない。校内で拾ったものをここに届けに来たのだろうか。
切符からつむぎのいる方向に顔を上げると、つむぎはまだそこに居た。両手を組みながらなんだか不安そうに自分を見ている。英智は久しぶりだな、なんて思いながら切符を片手でつまむと
「悪いけど、僕のじゃないよ。これ」
と努めて面倒くさそうに呟いた。ため息も混じるくらいに。つむぎはますます困ったように眉を下げた。
「いえ、それ、英智くんのですよ。天国行きの」
「……なにか、冗談?」
天国行き。英智の耳にはハッキリそう響いた。天国行き? まだ死ぬ訳には行かないのに、どんな冗談だというのだろう。つむぎに冗談が通じないのは常々感じていたが、まさかこんな悪趣味な冗談を好むとは思ってもみなかった。英智は刺すような頭痛から、眉間をグッと抑える。
「あ、やっぱり忘れてましたね」
つむぎが眼鏡を上げながら苦笑気味に言った。英智が顔を上げると、そこには青葉つむぎがいた。よく見知った長い髪の毛と、似合わない眼鏡と、ピアスと、それから一部分に入ったメッシュの髪を持ち合わせた一番よく見るつむぎ。英智の片手にはまだ薄ピンクの小さな切符がある。
応接室だ。英智は一番出入口に近いソファに腰掛けていた。つむぎは傍に立って、ふふふ、と柔和に微笑する。
「切符って大事ですよ。そこに行くんだって確信が確実に持てるものですからね。だから無くしたら行けないんです。途方に暮れちゃいますよ」
「……つむぎ。そういう冗談はあまり良くないよ。僕が言える立場じゃないけど」
つむぎが朗らかに笑った。爽やかで邪気も悪意もない笑顔。
「冗談だなんて。だって英智くん」
応接室の照明が、意志を持ったかのようにつむぎ一人に集まる。思わず英智は目を瞑り、つむぎから目を逸らした。
見上げると、つむぎはステージに立っていた。fineの衣装を着て、あの舞台――英智とつむぎと日和と凪砂の決別の象徴のようなあの舞台に――ただ一人だけ立って、ステップを踏んでいる。タイが軽やかに跳ねる。マイクを持って優しい歌声で自身のパートを歌い上げ、つむぎと英智は対峙する。かたや観客席の観客が、かたや舞台のアイドルが、なんの感情も籠らない瞳で見つめ合った。
英智は手を強く握りこんだ。手の中で、薄くて小さいくせに存在感のある紙切れがぐにゃりと歪み、自身の手のひらに食い込む感覚を嫌という程味わう。
「君の」
「英智さまっ」
その声に、英智はゆっくりと目を開けた。可愛らしい声の主である姫宮桃李が心配そうに自分を覗き込んでいる。
「……桃李」
「英智さま、大丈夫? うなされてるからびっくりしちゃって……ごめんね」
申し訳なさそうにしゅんと頭を下げる桃李に、英智は優しく頭を撫でてから、ありがとう、と心から伝える。
「えへへ……あっ、そうそう。英智さま、ホールハンズを見てみて?」
桃李に促されるまま端末のホールハンズを開くと、英智の顔から脂汗が一筋流れた。メッセージ一件、青葉つむぎ。三時間前。メッセージはごく短く、今から少し時間を取れないか、というものだった。
「つむぎさまにね、英智さまに用があるんだけどホールハンズにいつまでも返信がないから何か知らないですかって聞かれて。英智さまは仮眠室にいるって弓弦から聞いてここに来たの」
そうだ、今日の詰められたスケジュールをこなし、弓弦や他の社員の協力もあって早めに仕事を終わらせた自分は、休養を取ろうと仮眠室に駆け込んだのだった。英智は心も身体も変に気持ち悪くなって、思わず倒れそうになる。桃李が言うには、まだつむぎはニューディの事務所に残っているようだからそこに行かなくてはならないし、デジャヴを信じる訳ではないが思わず足がすくんだ。年下の、それも可愛いユニットのメンバーに弱っているところを見せるのはリーダーとして申し訳が立たず、桃李に礼を言ってから足早にエレベーターに乗り込んだ。
七階。正直、そのボタンを押すだけでも躊躇した。夢なのだろうかと思い頬をつねればもちろん痛みを感じ、身体も滞りなく動く。それだけが英智にとって安心だった。エレベーターの外はすっかり暗く、星が顔を出し凍ったように光り輝いていた。冬はなんだか時間の感覚が狂ってしまう。
ドアが開くと、英智はぎょっとした。レオが泉に捕らえられもがいている真っ最中に出くわしたから、というのもあるが、レオは先程の夢に出てきた一番最初の人物であり、ここで夢と同じことを言われようものなら英智は気絶くらいしそうだった。
「あ。天祥院」
「え! テンシ!」
先に気づいたのは泉で、そして顔を青くしていることに気づいたのも泉だった。
「ちょっと大丈夫? 青葉が探してたけど、あんまり体調悪いなら無理しないでよねぇ」
「テンシー! 元気ないのか? そうだ、おれが元気の出る歌うたってやる!」
これほど泉に安心したことがこれまであったろうかと英智は感動さえした。礼を言ってから、レオは聞いた事のないメロディの曲をハミングで歌いきり、泉と共にエレベーターに乗り込んで行った。元気の出る歌、というのは本当であるように思えた。
中に進むと、社員はそこそこの数がまだ残っておりキーボードを打ち込む音やら書類のホチキス留めやらをしている音が忙しなく響いている。奥の方、窓際の席につむぎはいた。夜空に溶けたような髪色と、抵抗するようなくせ毛がなんだか愉快だった。革靴の音を鳴らしながらつむぎのデスクの前で歩みを止めると、つむぎはすぐにこちらに気づき、その途端に固まっていた表情は嘘みたいに解け、英智に向かって人当たりのいい微笑みを浮かべた。
「英智くん。来てくれたんですね、わざわざありがとうございます。呼び出してしまってごめんなさいね」
「……それで、用って?」
「ここだとなんなので、別の部屋に行きましょうか」
つむぎが先導し、ニューディの会議室に案内される。室温は調整されておらず、少々ひやりと肌を冷やした。空調の電源を入れ、つむぎが奥の椅子に腰掛け、英智を手前の椅子へと促す。
英智は素直にそれに腰掛けてつむぎに話の続きを要求した。
「ああ。そうでした。英智くん、この前のサミットの時に忘れ物しませんでした?」
「……わ、すれ物」
声が上擦ったのは言うまでもない。ガラスの破片のような記憶が脳内で反射し、英智の中で混ざり合う。曖昧で混雑したそれらが押し寄せ、半ば吐きそうになる。忘れ物。それは、切符だったはずだ。ただそれは、あくまで夢の中の話。
「これ、英智くんのですよね?」
ことん、と机の上に置かれたのはペンだった。なんの変哲もなく、柄にイニシャルが彫られた英智のペン。
「…………」
「英智くん?」
「切符じゃない……」
え? 切符? とつむぎが当然の疑問を投げかけるのを無視して英智はペンを掴み取り、
「ありがとう、つむぎ。無くしてて困ってたんだ」
と丁寧に礼を言うとつむぎは疑問を投げかけたのを忘れたかのように安らかに微笑んだ。
「良かったです〜、お部屋の掃除をした時にソファの隙間から出てきて! イニシャルが英智くんかなって思ったんですけど、大当たりだったって事ですね」
「君、あの部屋の掃除なんてしてるの……清掃員が居るっていうのに」
「使った後は使う前より綺麗に、ですよ」
にこにこと笑うつむぎをよそに、英智は拍子抜けした疲れが押し寄せるのをひしひしと感じた。手に取ったペンをなんの気無しに眺める。ペン。書き心地が良くて自身の指にも合うなんの変哲もないそのペン。
そのために?
「これを届けるなら、わざわざ呼ばなくてもいいと思うけど」
つむぎは英智と同じく多忙であり、先程だって書類作成の画面とにらめっこをしていた。そんな彼が自分のためにわざわざ? 考えられなくもないが、スタプロの窓口だとか、なんだったら弓弦あたりに頼んでしまえば簡単に済む話なのに。
「ふふ。俺から直接言わなきゃ意味が無いんですよ」
「……なんの話なのかな」
「英智くん」
英智の名前を呼ぶつむぎはいつも穏やかだった。優しげな目元。淡い黄色の瞳。
今の青葉つむぎの瞳は、捉えられない色をしていた。澄んでいるようにも、全てを諦めているようにも、もがいているようにも見えた。ぼやぼやしたそれは、無理やり言葉に当てはめるなら溶けかけた月とでも言おうか。
「生意気に聞こえちゃうかもしれませんけど。くれぐれも忘れ物には気をつけて下さい。……君のために」
君のために、天国はあるんですから。
青葉つむぎは微笑んだ。それは、微笑みとカテゴライズはされるだろうが英智にとっては微笑みとして機能していなかった。細められた薄い金色の瞳と夜空が中々にアンバランスで、英智は混乱する。
「天国? ……天国だって?」
つむぎに対して問うというより、悲痛な独り言を発する英智を一瞥してから、つむぎは立ち上がって会議室を後にしようとする。だが、それを英智が見過ごす訳が無かった。ドアノブに手を掛けたつむぎが扉を開けるその直前、英智はつむぎの左手首を勢いに任せて掴む。
「え、英智くん、勘弁してください。書類、今日中に作りたいんです」
「そんなの後にしてくれないかな」
そんなのってないですよぉ、と悲痛に叫ぶつむぎを無視し、ぐっと自分の近くへ寄せると抵抗なくつむぎは英智の傍に寄った。内緒話でもするような近さに英智は一瞬たじろぐ。
「……英智くんだって分かってるくせに」
つむぎが平坦な声で呟いた。呆れたようにも独り言のようにも聞こえた。当たり前に、英智は分かりもしなかったし心当たりもなかった。天国行きの切符など、今も昔も聞いたことがない。つむぎお得意の占いとか、おまじないのような響きを持っている。
「君が、なにかしたの」
「なにかも、なにも。英智くん」
忘れないでって、それだけですよ。
つむぎは英智の手を優しく抜け出す。再び掴もうとして、それらは呆気なく逃げて行った。
「……どうして」
「おかしいって思いませんでした? ……どうして寮に戻らないで仮眠室なんか行ったんですか? どうして端末で返事をしないでこっちに来たんですか? どうしてさっさと俺を帰さずに引き留めたんですか? ――どうして、手放すんですか?」
ほら、また。青葉つむぎが跪く。床から何かを拾い上げて、英智へ手渡す。白い衣装を着た、天使みたいな青葉つむぎ。
あの頃の、青葉つむぎ。
「僕には、そんな資格はない」
手渡されたそれ――感触で分かる、小さくて変に主張のある紙切れ――は、はらはら宙を舞ってステージの床に落ちた。つるつるに磨きあげられた白い床。夜更けのような星空が広がるステージと、鳥籠のような半ドーム状の舞台装置。あのステージ。
天国に行く資格など、とっくにないのだ。英智のためにある天国に、英智は行けやしない。
「英智くん。そんな顔しないでください」
つむぎは、相変わらず英智に跪いて優しく手を握った。生ぬるい体温と、英智の手を包み込むおおきい手。
「資格ならあるじゃないですか。もう何回も渡してるのに、英智くんいっつも落としちゃうんですよ」
おっちょこちょいさんですね、とつむぎは微笑する。英智は言葉を頭の中で懸命に探すが、なにもかもピンとしないために時々息継ぎのように口を動かし、結局沈黙する。
もう何回も渡してるのに。自分はいつもそれを落として、その都度つむぎは毎回拾ってくれているらしい。そもそもそれを渡された記憶も、落とした記憶も、つむぎが何度も拾って再び渡してくれた記憶もないのに、英智は酷い自己嫌悪に駆られた。
「……どうして、拾ってくれるの」
「そんなの簡単ですよ。俺が英智くんの……友達、だからです」
つむぎは、英智の記憶にあるような寂しさや自らの感情を押し殺して無理やり作った笑顔ではなく、心から幸せそうに笑った。少なくとも、英智には、つむぎの友達である英智にはそう映った。
つむぎの長いまつ毛の影が、頬にちいさな三日月を作っている。
はっ、と意識が覚醒して英智は周りを見渡した。星奏館の自室。ふかふかの柔らかい自分のベッドで英智は目を覚ました。端末で時刻を確認すると、午前十時を廻っていた。やけにしんとした部屋なのも当たり前だ、同居人の二人は仕事に赴いたのだから。英智は冷や汗を流しながら手早く着替え、ESのビルへ向かう。いつも通りの賑やかなビル。頭がいまいち回りきらないまま事務所へ向かうと皆はきょとんとした顔で自分を見つめた。
どうかしたの、と尋ねると、社員は
「いえ、今日は天祥院さんはお休みだとばかり……何かお忘れものですか?」
と答えてくる。今日が休み? 不審に思い、端末のスケジュールを確認すると確かに今日はオフと出ていた。へなへなと英智の身体から力が抜ける。条件反射で出社してしまったようだ。
社員に礼を言い、謝罪したあと英智は宛もなくビル内をふらふらとしていた。どうにも遊び歩く気分でもないし、紅茶を飲んで優雅に過ごすような気分でもでもない。視察がてらふらふらすれば、暇もつぶせる上にスタッフ達にも適度な緊張感が与えられるだろうと、そんな心持ちで歩き回っていた。
「……ん」
立ち止まったのは、ビル内の雑踏には似つかわしくない穏やかなハミングが聞こえてきたことと、そこがサミットで使う応接室であったからだった。歌声には聞き覚えがあった。
「……」
「わ、ごめんなさい! すぐ出ていきますので〜!」
「……つむぎ?」
「……あれ? え、英智くん……?」
声の主はつむぎだった。机を布巾で拭いている真っ最中のようで、その体制のまま数秒見つめあったせいか空気が止まったような感覚になる。
「ご、ごめんなさい、次は英智くんが使うんですね。ここだけ拭いたら終わりなので」
「いや、僕は使わないけど」
「え、そうなんですか!? じゃあなんで……?」
なんで、と問われて英智はぎくりとする。別になにか悪いことをしている訳ではないが、なんでと聞かれたら最初から最後まで話さなければいけなくなるだろうし、つむぎにそんなことを話すのはまっぴらだった。
「君こそ」
だから、英智は問いを問いで返す形をとった。自らがそれを受けたなら質問に先に答えろ、と言うだろうがつむぎはきっと正直に答えるだろう。
「俺はさっきここを使ったから綺麗に掃除してるんですよ〜」
「ここの掃除なんてしてるの? 清掃員が居るのに……」
「あ、あはは……こういうのは使う前より綺麗にって言うじゃないですか?」
机を拭きあげて、つむぎが布巾を返却しに行く背中を見ながら英智はふと
「つむぎはきっと天国に行けるよ」
と呟いてみた。つむぎは驚いた顔をしてこちらを見る。言葉を理解しようとして、やっぱり駄目だと彼の眉が下がる。小さな子供のように、
「どういう意味ですか? 教えてください!」
と素直に聞いてくるが、英智は正直なところ返答に困った。ただなんとなくだった。なんとなく、つむぎは天国へ行けると、そう思った。
「さあ」
なんとなく、なんて言えないので曖昧に煙に巻くとつむぎは釈然としない顔で首を傾げる。
「あ、そうだ。英智くん、このペン知りません?」
「これ? ああ、これ僕のだ。すまないね、ありがとう」
英智くんが落し物なんて珍しいですね、なんて言うつむぎからペンを受け取り、英智はコートのポケットにそれを滑り込ませた。
「…………気が変わった。つむぎ、これ貸すよ」
「え!? 貸すってどういう……? あの、英智くん!?」
少し強引にペンを手渡し、英智は扉へ向かう。ドアノブに手を掛け、なるべく意地悪に笑った。
「僕が天国に行きそうになったら届けに来て」
友達でしょ、と付け足すとつむぎは
「それは、そうですけど……?」
と訝しげに答える。その顔が英智は何故だか愉快で、スキップでもするように応接室を後にする。
「あっ、ちょっと英智くん!」
後から追って出て来たつむぎはいつもと打って変わって眉が少しつり上がっている。さしずめ怒っているとでも言おうか。あまりにも迫力がないから英智は吹き出してしまう。
「もー! 天国に行きそうになるとか、冗談でもやめてくださいよぉ!」
「でも。もし僕がそうなってもつむぎは届けに来てくれるんだろう?」
「行きますよ! 俺、英智くんの友達ですから!」