深夜の飯テロ赤黒「ラーメン…」
ぽつり、とこぼした呟きは、風呂上がりで肩にタオルを掛けたまま水を飲んでいた赤司の耳にも届いたようだ。
「?どうかした?」
首を傾げる赤司を無視して、黒子はソファの上で膝を抱えてテレビ画面に食い入る。日付が変わるまであと約一時間、そんな夜も遅い時間に、そのバラエティ番組は罪なことに背徳グルメ特集を放送していた。深夜に行列を作る店の紹介から、家で出来る簡単夜食のレシピまで。普段はさして気にも留めないその特集に、何故だかすごく心が惹かれてしまった。
特に今、黒子が釘付けになっているのは、インスタント袋麺のアレンジレシピ特集だ。豚骨の袋麺に生クリームを加え、たっぷりのベーコンを乗せている。ぐつぐつ煮立ったら大量のとろけるチーズで溢れんばかりに麺に蓋をし、真ん中に小さい窪みを作って、その上に生卵を落とした。仕上げに黒胡椒をぱらぱらと振りかける。言うなれば、インスタント麺のカルボナーラ風アレンジだ。
若手のお笑い芸人が、料理のできない僕でも簡単に作れました!と胸を張り、大胆にも鍋のまま箸を突っ込み麺を崩す。溶けたチーズと生卵が絡み合い、とろりと黄身をまとった麺をベーコンと一緒に豪快に啜った。それから芸人が目を丸くして、「うまぁい!」と叫ぶ。それはもう、本当に美味しそうにガツガツと食べ進めているものだから、黒子の腹が「ぐぅ」と小さく音を立ててしまった。
今日の夜ごはんは、白米と豆腐の味噌汁、冷しゃぶサラダにだし巻き卵だった。暑くて食欲があまり出ない黒子のために、さっぱりと食べられそうなものを赤司がわざわざ作ってくれたのだ。ゴマだれの冷しゃぶは豚肉が柔らかく食べやすかったし、赤司の作る味噌汁はいつも出汁が効いていて美味しい。なんだかんだでそれなりにしっかり食べて、満腹になったはずなのだ。
それなのに!あろうことか今、テレビの向こうにあるゴテゴテの、本来ならば見るだけで胸焼けがしそうなラーメンの匂いに心惹かれ、目が離せなくなっている。おまけにお腹が空いてきた。普段の黒子ではありえないのに、一体どうしてしまったのだろう。
様子がおかしい黒子を心配したのか、赤司がソファの近くまでやってきた。なので黒子は部屋着のラフなシャツ姿の彼の裾を引っ張り、テレビ画面を指差す。
「赤司くん。ボク、これが食べたいです」
「これ…?黒子にしては珍しいね」
「どうしてかわからないんですけど、すっごく美味しそうに見えて」
「ここのところいつもあっさりした物ばかりだし、たまには良いんじゃないか。明日作ろうか」
「いえ。今食べたいです」
「え、今?」
「今」
間髪入れずにそう言えば、赤司は珍しいものを見るかのようにぱちぱちと瞬きをした後に、テレビ台の横に置いてある置き時計の時間を確認した。日が変わるまで、あと約四十五分。
「こんな時間だし、明日にすれば」
「だめです。今食べたいです。今食べないと眠れないです」
「そんなに…?」
番組のテロップに、『詳しいレシピはホームページに!』と出ている。すぐさまスマートフォンを掴み、番組名を検索してレシピを開いた。ご丁寧に、どこのメーカーの袋麺を使っているのかも書いてある。スマホの画面を赤司に見せると、うーんと首を捻って唸った。
「卵以外の材料がないよ」
「今から買いに行きます」
「本気で言ってる?」
「本気です。冗談は好きじゃないってよく知ってるでしょう」
普段、赤司の(口うるさい)食育のもと、インスタント食品を食べることはあまりない。けれど彼が不在の時だったり、どうしてもの時のストックとしてカップラーメンの類は少しはこの家にも用意があるのだ。しかし、さすがにピンポイントでこのメーカーの袋麺はあるはずもない。
とはいえもう完全にこの背徳ラーメンが食べたくて食べたくて仕方なくなってしまった。もうこのまま眠ることなんて出来やしない。赤司くん、お願いします。赤司くん、赤司くん。子供のようにしつこく駄々をこねていれば、赤司は観念したのか、それとも面倒になったのか、はぁっと息を吐いて立ち上がった。
「黒子の珍しい我儘だから付き合うけど、今日だけだよ」
「ありがとうございます!」
わーい!と両手を上げて、部屋着のポケットにスマートフォンだけを突っ込む。どうせ夜も遅い時間だし、二十四時間営業のスーパーまでは歩いて数分だからこの格好のままで良いだろう。そう思っていたら、赤司から「せめて下は履き替えて出掛けて」と、黒子が履いている膝上のハーフパンツを見て言った。本当に、口うるさい…。いや、付き合ってくれるのだから文句を言うのはやめよう。
夜になってもなお、むしむしとした外の気温は相変わらずだった。日差しがないだけ随分ましではあるけれど、肌にまとわりつくような湿っぽさは残る。足早に歩くと背中にじっとりと汗が滲んだ。
夜中のスーパーは、自動ドアが開くとすぅっと涼しくて、思ったよりもまばらに客がいた。しかもわりとお惣菜コーナーやデザートコーナーなんかに人が多くて、この人たちも皆、深夜のカロリーの魅惑に耐えきれずにここに来たのだろうか…。と考えたら親近感が湧いた。どこか非日常的な風景に浮き足立っていたのに、赤司はサクサクと買い物カゴに商品を入れていく。
「ラーメン、生クリーム、チーズ…。これで良い?」
「待ってください赤司くん。アイスも買いましょう。せっかくなので」
「せっかくの意味がよくわからないけど、買っても食べるのは明日以降だよ」
「うぐ…。わかってます、大丈夫です」
冷凍棚に並ぶアイスの中から、誰もが知るメーカーのバニラのカップアイスを一つ、赤司は抹茶味を一つ選んで会計を済ませる。あっ、エコバッグ忘れました。と思ったら、赤司がポケットの中から丁寧に折り畳まれたエコバッグを取り出した。さすが、抜かりない。ちなみに会計は赤司が電子マネーで払ってくれた。
ようやく背徳ラーメンにありつける嬉しさにるんるんで、黒子は赤司の手をぎゅっと繋いで家路を急ぐ。赤司は呆れながらも、何だかんだで黒子の手を握り返して、かつ指の間に指を絡めてぴったり手のひらをくっつけてきた。まるで、これから交わる、生卵とチーズのように…。なんて考えてると知られたら、情緒がなさすぎると怒られるだろうか。
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マンションに着いて、手洗いうがいを済ませて早急にキッチンに立った。ホームページのレシピ画面を開いたまま、ふんふんと鼻歌を歌いつつ小鍋を用意し袋麺のパッケージを破り、パックのベーコンも開封する。赤司は黒子の隣に立って、興味深げに黒子の手元を見ていた。
「あ、赤司くんも食べますか?」
「食べますか、っていうか…」
「?」
「黒子、それ一人で全部食べられるの?」
「ぅ、…。いや、わからないですよ…。おなか空いてますし…」
「ふぅん。オレはいいや。黒子が食べてる姿は見たい」
そう言って、腕を組んだまま黒子の様子を眺めている。確かに黒子は少食ではあるけれど、あの番組の特集を見た瞬間から、何故か黒子の腹は珍しくぐうぐう鳴っているのだ。今なら一人前はもちろん、二人前でも食べられそうな気がする…。というのはたぶん単なる気のせいなので、一人前分だけを用意し、生クリームと麺とベーコンを鍋にぶち込んだ。
弱火でぐつぐつ煮込む、この時間が焦ったくてたまらない。次第にいい匂いがしてきて、もうヨダレが垂れてきそうだ。立ちこめた湯気が換気扇に吸い込まれてゆく。
ふつふつとスープが泡立ってきて、麺がくたっとしてきたら、付属の粉末スープを入れてかき混ぜて、ミックスチーズをどかどかと乗せた。さらにもうひと混ぜすれば、チーズが溶けて麺に絡みつやつやと光る。時折見え隠れするベーコンの薄いピンクがまた食欲に彩りを添えた。
菜箸でちょいちょいと真ん中に窪みを作り、そこにおそるおそる生卵を割り入れる。世紀の大実験のように恐々と震えながら卵黄を落とせば、それは上手く窪みに入り込んでくれて、ぷるんとした満月のように存在感を放った。仕上げに黒胡椒を振り掛ければ、念願のカルボナーラ風ラーメンの完成だ。
「できました!できましたよ赤司くん!」
「うん。よかったね」
レシピ通りに作ったので、見た目はホームページに載っているものと大きく変わらない。これぞ背徳グルメ、禁断の香りしかしないビジュアルだ。時計を見ればいつの間にかもう深夜一時近くて、その時間がさらに悪魔的な耽美を感じさせた。
テーブルに鍋敷きを敷いて、そこに調理した小鍋をそのままドンと置く。さっきの番組で芸人がやっていたように、鍋から豪快に啜ってやるのだ。自分の箸もあるけれど、ここはインスタント感を出すためにわざと割り箸で食べてやる。コンビニで貰ったままストックしていた割り箸を一つ取り出し封を開けた。赤司は黒子の向かいに座り、テーブルに腕を乗せて鍋の中を覗き込んでいる。
「食べます!いただきます!」
「はは、どうぞ」
両手を合わせて、割り箸を割り右手に掴む。そのまま箸の先端で卵黄を割ってやった。少し弾力を感じた後、ぷく、と膜が割れて黄身が溢れ出す。とろりとした黄金の黄身が、チーズが絡んだ麺の美しさをさらに際立たせた。箸で麺を持ち上げると、湯気がふわっと覆い立つ。豚骨の香りとチーズの香りが混ざり合って、深夜には危険すぎる匂いだった。
勢いのまま、麺を啜る。口に入れると生クリームで煮たスープはこってり濃厚で、少し硬めの麺によく絡んでいた。ベーコンのちょうどいい塩っぱさと黒胡椒のピリッとした味がアクセントになっている。ずっと追い求めていた(まあ約一時間くらいではあるが)味にようやく辿り着けた感動で、黒子は胸がいっぱいだった。
「おいしい?」
「はい!とっても」
「それはよかった」
向かいの赤司は、行儀悪くテーブルに肘をついたままにこにこと笑っている。深夜にもかかわらず、黒子のわがままに付き合ってくれて、何が楽しいのかわからないけれどこうしてずっと笑っているから黒子も嬉しかった。赤司くんのおかげです。いつもありがとうございます。と改まってお礼を言いたくなって伝えれば、赤司も、そんなことないよ。オレも黒子といて飽きないから楽しいよ。とこれまた機嫌よさそうに、歌うようにそう言った。
そのままもう一口、二口、と続けて、しかし三口目、四口目、となってくると、次第に様子がおかしくなった。
麺が、増えている気がする。スープが減ってコテコテになったカルボナーラ(仮)は、冷えていくにしたがってチーズが固まり、濃厚さが一気に増した。そして、この味の濃さがだんだん胸焼けを起こし、空腹で暴れていたおなかは一変してだいぶ膨れ上がってきた。
一瞬にして明らかに食べるペースが落ちた黒子を、赤司はまたにこにこと眺めている。それでも頑張って、もう一口、あと一口…。と食べ進めていたけれど。小鍋の中のラーメンは三分の一も減ることなく、黒子はガクッと肩を落とした。
「あかしくん…」
「ん?」
「あの…少し食べませんか」
「オレはこの時間には食べない」
「そう言わずに…。赤司くんなら大丈夫です、いつもストイックなキミなら、たった一日の深夜メシもなんのその」
「その『たった一日』のせいで次の日以降のパフォーマンスが落ちるのもね。大体、今まであっさりしたものしか食べてなかったのに、急にこんなもの食べたら胃もたれもするし、夜に塩分の摂りすぎだ」
「うぐぅ…ハイ…」
まさにぐうの音も出ない。どうしてたかだか夜のバラエティ番組の特集にこんなにも心惹かれて、深夜のスーパーに買い物に行くなんて普段は出さない行動力を出してしまったのだろう。それもこれも、夏の暑さの呪いか…。最後無理やりに口に押し込んだ麺のせいで、なんだかもう既に胃がぐるぐる重い。喉が渇く。水を飲む手が止まらない。
「まったく、仕方ないね…。いいよ。せっかく黒子が食べたいって作ったんだから、ちゃんと食べるよ」
「!赤司くん!!」
ありがとうございます!と両手を組んで拝む。オレにも割り箸取って、と言われて新品の箸を渡し、食べかけの小鍋を見てハッと気付いた。
スープとチーズは固まってコテコテだし、潰れた卵黄もぐちゃぐちゃで、はっきり言って汚い食べかけだ。鍋肌にも生クリームがこびりついている。さすがにこんな食べかけを、あの赤司征十郎に食べさせるなんて、ボク、命知らずにも程があるのでは…。と血の気が引いていると、赤司が「何してるの」と言った。
「いえ…あの、やっぱりこれを赤司くんに食べさせるのは、さすがに…」
「いいよ。ちょうだい」
すると赤司は、割り箸を唇に挟み、大胆にも片手でパキッと箸を割った。品行方正を絵に描いたような赤司くんがこんな行儀悪いことをするなんて、と衝撃を受けつつも、それが信じられないくらい色っぽい仕草で、胸いっぱい胸焼けいっぱいだった黒子の心臓が、急にドキドキと脈打ち始める。
冷えて固まったこってりした麺を赤司は箸で器用に持ち上げると、そのまま勢いよくズルズルと啜った。もちろん、器は小鍋のままだ。赤司が、あの赤司征十郎が!深夜一時を過ぎた時間に、インスタントの背徳アレンジレシピを(しかも人の食べかけ)行儀悪く口で挟んで割った割り箸で、小鍋から直接食べている!!あまりの光景に眩暈がしそうだ。もしかしたら、彼のお父さんがこの姿を見たら卒倒してしまうかもしれないし、うちの息子になんてことをさせているんだと黒子は生きたまま海に沈められてしまうかもしれない。
「うん。まあ、たまにはこういう味が濃いものもいいね」
「そう…でしょうか…」
「黒子と一緒に買いに行って、黒子が作ってくれたものだと思うと美味しいよ」
彼の上品なお口に、インスタントの麺が次々と吸われてゆく。食べる姿は大胆なのに美しく、端々に育ちの良さが隠せていない。黒子の食べかけのぐちゃぐちゃラーメンをあっという間に平らげた赤司は、ごちそうさま、と手を合わせて鍋をシンクへと片付けた。
「赤司くん…本当に、ありがとうございます…」
「いいえ。オレもごちそうさま。…さて」
「え?」
「摂ってしまったカロリーを消費したいところなんだけど、黒子は確か、明日は遅いからこんなに夜更かししているわけだよね?」
「えっ、えっ…」
「少し運動に付き合ってもらおうかな」
「むっ、ムリです!ボクお腹いっぱいで動けない…」
「大丈夫。無理のない範囲でね。ああ、歯はちゃんと磨くんだよ」
いいね?と子供みたいなことを言われて、有無を言わさず頷く。赤司の赤い唇がにっこりと弧を描いた。こんなに綺麗な唇が、あんなに勢いよく食べたかと思えば、次は黒子に触れて愛をささやく。そうつい思ってしまえば、深夜の背徳はまだ止まらなかった。