君のいる生活右頬に何やらざらりと温かいものが触れて、くすぐったくて身を捩る。ぐるりと寝返りを打てば、今度は反対の左頬をぺろぺろされた。耳元で、はふはふと荒い鼻息が聞こえる。
「んん…2号…くすぐったいです…」
薄く目蓋を開けると、2号はつぶらな瞳をるんるんに輝かせて黒子の周りをうろうろしながら匂いを嗅いだりほっぺたを舐めたりしていた。もう朝か。2号を散歩に連れていかないと。でも眠たい、あと少し、あと数分…。とうとうとしていたら、ふいにわしゃわしゃと髪を撫でられた。明らかに2号のものではない感触にはっと目を開く。きしり、とスプリングが鳴ったかと思えば、溢れんばかりのまぶしい朝日に照らされて、つやめいた赤い髪がさらさらと光っていた。
「おはよう」
「おはよう、ございます…」
発した声が思ったよりも掠れていて恥ずかしかった。くすっと笑った赤司は、うつ伏せでベッドに頬杖をついて、片手で黒子の髪を撫で続けている。至近距離で見るその表情は朝一番にはあまりに刺激が強すぎて、つい片言になってしまった。夏用のタオルケットの中で、二人の素足が重なっている。
新しい匂いのするベッドはまだ落ち着かないと思ったけれど、案外ぐっすり眠れてしまった。というのも、今まで黒子が使っていたものよりも随分と寝心地が良いからだろう。枕もふかふかで、タオルケットも肌触りが抜群だ。二人で選んだ部屋は、真新しいものたちと、所々の段ボールで溢れている。それもそのはず、赤司と黒子がこの部屋で生活を初めて、今日が初めて迎える朝だった。
見慣れない天井をぼんやり見つめていたら、視界いっぱいに2号が現れる。それからまた2号はぺちょぺちょと黒子の鼻先を舐めた。新生活に興奮しているのは、人も犬も同じらしい。そしてその様子を、赤司は微笑ましげに眺めている。
「いま何時ですか?」
「もうすぐ七時だよ。起きる?」
「七時…」
すごい。何にもない休みの日に、朝七時なんて起きたことがない。これも同棲初日になせる技なのか。新品のまっさらなレースのカーテンは、燦々とした爽やかな朝の日差しをやわらかに受け止めていた。
「そうですね…。暑くならないうちに、2号の散歩に行きましょう」
「ついでに何か朝ご飯でも買おうか」
「確か駅前にマジバが…」
「シェイクは朝ご飯じゃないよ」
「うっ…」
のそのそとベッドから降りて、弱冷房でひんやりとしたフローリングに足を下ろす。部屋の隅っこの方にはまだ段ボールが積まれているけれど、いくつかの着替えは棚に移して収納していた。
その前に顔を洗って歯を磨こう。寝癖も直さなくてはいけない。赤司は朝からこんなに完璧にかっこいいのに、自分はだらしなくてだいぶ恥ずかしい。
「黒子」
洗面所に向かおうとしたら、その手を赤司に軽く引っ張られる。何かと思って振り向けば、ちゅっと小さい音を立てて、唇にやわらかいものが触れた。
二人の様子を、2号がしっぽを振っておすわりしながら眺めている。
「なっ…!」
「おはようのキス。やってみたかったんだ」
嬉しそうに微笑まれても、黒子はますます身体が熱くなるだけだ。逃げるように洗面所に駆け込んで顔を洗う。ぴょこぴょこと跳ねた寝癖はいつもと同じなのに、大きなぴかぴかの洗面台の鏡のせいでいつもより派手に癖が付いているように見えた。
二人で住むにあたって、黒子が出した条件は三つだ。近くにマジバーガーと出来れば大きな本屋があること。本を置ける部屋があること。それから、2号も一緒に住めること。
同棲を決めてからの赤司の行動はすこぶる早かった。あれよあれよとめぼしい物件をいくつかおさえて、とんとん拍子に内見が進んだ。中でも二人一致で気に入って決定したのがこのマンションだった。あまり馴染みのない地域ではあったけれど、静かで落ち着いていて、先に挙げた条件はもちろん、2号と散歩出来そうな広い海沿いの公園があることも魅力的だった。ストバスのコートもあって、子供から大人まで楽しんでいる。赤司ともバスケットをしたいと思った。赤司と2号とこの街で過ごしてみたい、と思い描くことが出来たから、黒子はここに住むことを決めたのだ。
Tシャツとチノパンに着替えて、2号のリードを引いてマンションのエントランスを出る。赤司もラフなシャツ姿だったけれど、それでも滲み出る品の良さは隠せていなかった。
まだ歩き慣れない道を、彼と二人、並んで歩く。右も左も何があるのかよくわからなかったから、2号の赴くままに任せた。早朝の空気は爽やかで、ほんのり海の香りがする。
「この時間ならまだ涼しいですね」
「そうだね。散歩にちょうど良いんじゃないか」
2号は臆せず知らない道をぐんぐんと進んでゆく。隣を歩く赤司も心なしかとても機嫌が良さそうだ。黒子の足取りも軽い。どこまでも行けそうだった。二人と一匹なら、どこまででも。
「見てください赤司くん、おしゃれなカフェがありますよ」
「本当だ。ペットも一緒にだって。今度2号と来ようか」
「良いですね」
クローズの札が下ろされているカフェは、ランチからの営業のようだ。ウッド調のおしゃれなテラス席があって、『ペットともご一緒に』と可愛らしい犬のイラストが描かれた看板が店先に置いてある。2号も興味津々にその看板のイラストを見つめていた。仲間かと思ったのかもしれない。
駅前の商業施設には黒子の希望していた大きな本屋が入っているフロアがあるし、その上には映画館もある。休みの日には二人でそこに行くのも良さそうだ。2号を連れてこのカフェでランチをするのも楽しみだし、二人で慣れないながらもキッチンに立って食事を作るのもきっと良い。
「なんだか楽しそうだね」
そんなふうに笑う赤司だって十分楽しそうだ。まだ涼しいと思っていた朝の気温も、しばらく歩き続けているとだんだんと汗ばみ始めてくる。強くなり始める日差しが、一日の始まりを感じさせた。
「楽しいですよ。赤司くんは楽しいですか?」
「うん。オレも楽しい」
朗らかに言う彼に、黒子も笑う。あの角まで行ったら、ぐるっと回って今日は帰ろう。途中のコンビニで、適当な食パンとヨーグルトでも買えば今日の朝ご飯はそれで良いと思うけれど、赤司はそれでも許してくれるだろうか。
あとは、積まれている段ボールの荷解きも。彼は頼りになるから、きっとそれも難なく終わるだろう。二人で少しずつ、生活を作っていく。そうして、毎日が積み重なっていく。
「きっと、今日からずっと楽しいです」
「そうだね」
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしく」
律儀にぺこりと頭を下げる。なにやらほんわかした雰囲気を感じたのか、2号が立ち止まり振り返って二人を見上げた。しゃがみ込み、もふもふした頭を撫でてやる。この先もきっと、ずっと楽しい。そう思える日がずっと続いていけば、それ以上の幸せってないだろう。