カウントダウン、恋人距離まで「黒子、手を繋いでもいい?少しでもいいから」
「えっ……っと……だめでは、ないですけど」
周囲は二人だけで誰もおらず、今は夜だから遠目からでもわかりにくいだろうし、少しならば───そう自分に言い聞かせた黒子は数秒後後悔することになる。
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黒子テツヤは中学時代からの友人からアタックされている最中であった。もちろん、好きだとか恋だとかそういう類のアタックである。お相手はあの赤司征十郎であった。
社会人となった今も赤司とは連絡を取り合う中だった。元気にしているか、変わりはないかと連絡をくれる彼に、本当に面倒見のいい人だと思っていたのは今となっては彼の想いに全く気が付かなかった自分を哀れんだものである。
数ヶ月前、いつものように赤司から夕食に誘われて、カジュアルなレストランでお腹を満たし、送ってくれるという彼の車の助手席に乗って、家の近くまで送ってもらった黒子は、別れる際に告げられたのだ。
“黒子が好きだ。恋人になってほしい。”と。驚くことしか出来なかった黒子を予想していたのだろう赤司はさらりと、
“一度真剣に考えてほしい。数ヶ月後、もう一度告白するからそのときに黒子の返事を聞かせてくれるかい?”そう言ったのだった。
驚きが勝った黒子は何も言えず頷くことしか出来なかった。なんとかお礼を告げられたのは日頃の癖ゆえだろうか。
そうして今現在、黒子は赤司征十郎に口説かれている真っ最中なのである。
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「ふっ、緊張してる?」
「えっ!?……ま、まあまあ?」
本音を言えばまあまあなんてものじゃない。口から心臓が出てしまいそうなほど緊張しているし、どきどきしっぱなしである。
なぜか楽しそうな赤司が少しだけ憎たらしいほどには黒子からするといっぱいいっぱいであった。
あの日からしばらく経つが赤司はあれ以来告白はしていない。
告白は、である。
「緊張してる黒子もかわいい」
まるで最愛の人にでも向けるかのような甘ったるい視線を黒子に浴びせながら赤司は握っている手に力を込めた。
付き合ってとは言われないかわりに、好きだとかかわいいだとか、そういう言葉を頻繁に伝えてくるようになった。
言動だけでなく視線や表情からも嘘なんかには到底思えず、とりあえず黒子は受け取るだけで精一杯であった。
あの赤司であるし、再三言われれば冗談なんでしょうなんて躱すことは憚られ、もうそのとき思った返事をすることにしていた。
どうせ誤魔化したところでバレるのならば、本音を言った方が早いと思ったのだ。
「落ち着かないです……」
「嫌じゃない?」
「別に、赤司くんならまあ、嫌とかはないですね」
思ったままを返す。それが今の黒子にできる最善であった。
「お前のそういうところはだいぶ……」
「え?なんですか?」
ため息を吐いた赤司はそろそろ帰ろうかと手を引く力を強めた。
もう帰るんですか?その言葉は今は言ってはいけない気がして、なんとか飲み込んでおいた。
やはり赤司は何をしても様になるな、そう思うのは窓ガラス越しに運転中の赤司を眺めている時だった。
以前なんで免許取ったんですか、とさり気なく聞いたときに、まさか“免許があれば好きな子の送迎を買って出られるだろう?”なんて自分を見つめながら言われるなんて思いもしなかったのだけれど。
「そんなに見つめられると穴が開いてしまうかもしれないな」
「えっ!?そんなつもりはっ、」
「あれ、当たってた?」
くすくすと笑った赤司に嵌められたことを悟り黒子はむっと口を閉ざした。
いつの間にか家の近所まで来ていたらしく赤司は路肩に車を停めていた。
「そんな顔をしてもかわいいだけなんだけどなぁ」
「そんなこと言うの、赤司くんだけですよ」
自分はかわいくないですと言ってみるもまたしてもそういうところもかわいいよね。と返される。
わけがわからない。
「……黒子はかわいいって言われるの嫌?」
ふと言いすぎたとでも思ったらしい赤司が眉を下げて問うてきた。そんな表情をさせるつもりではなかったと黒子はきゅっと己の眉を少しだけ上げた。
「嫌とかではなくて」
嫌ではない。まあかと言ってかわいいを連呼されると複雑である。けれどそれは赤司に対してと言うより、男の自分に向かってそれは合わないのではと思うから。
「バカにしているとかいうわけではなくて、好きだなぁと思ったときについかわいいって言ってしまうだけだから、許してくれると嬉しいかな。」
もちろん、赤司がわざと黒子が嫌がるような言葉選びをしているなどとは最初から疑ってもいない。けれどもそうハッキリと言われてしまえば言葉には詰まってしまうのも当然であった。
「その……恥ずかしいので」
俯いた黒子はもうさっさとお礼を告げて今日は帰ろうとシートベルトを外した。
「あの、赤司くん、送ってくれてありがとうございました。今日も楽しかったです。では……」
「待って黒子」
「……へ」
手首を掴まれては身動きなどできやしない。もちろん赤司のこと、力加減はしてくれていて黒子が振りほどこうものならばすぐにでも離れることができるだろう。けれど黒子はその手を振り解くことなどできなかった。
「あ、の、赤司くん?」
「あと、どれくらい?」
えっと思わず呟いた黒子。
目の前の赤司はそんな黒子の瞳を正面からじっと見つめた。
「あとどれくらいでお前はオレに落ちてくれる?」
ねえ、黒子。
赤司の指先が黒子の耳に触れた。
黒子の瞳には赤司の恍惚とした表情が映る。普段でも限界に近いほどにはいっぱいいっぱいであるのに、そんな顔を見せられては堪らなかった。
「っ……あとちょっとですッ!!!おやすみなさい!!!」
勢い任せに言い放って赤司の隙を見逃さず車を降りた黒子は一直線に自分の家へと帰るのであった。
そんな黒子が、ひとり車に取り残された赤司が何と呟いたかなどと、知る由もなかった。
「────あんなの反則だろうっ」
**
それから、約二週間が経とうとしている。
赤司からの連絡が、ぱたりと途絶えた。
「もう…なんなんですか…」
はぁ、と小さく吐いた溜息が、白い息になって夜の冷たい空気に溶けてゆく。ここ最近ずっと、朝起きても、昼休み中も、帰りの道中も。空き時間のたびに、赤司からの連絡がないか、ちらちらとスマートフォンを見るようになってしまった。
最後に会ってから約二週間、ほぼ毎日のように来ていた赤司からのメッセージは、その日の夜を境に来ていない。数日空くことはあったけれど、一週間以上連絡がないのは、あの日──告白されて以来、初めてだった。
駅のホームで帰りの電車を待ちながら、赤司とのやりとりを見返してみる。
おはよう。今日も寒いね。おはようございます。寒いですね。
良さそうなお店を見つけたから、今度一緒に行こう。そうですか。行ってみたいです。
そんなとりとめのない短いやりとりが、あぶりのメッセージ画面につらつらと並んでいる。そのどれも、赤司からの連絡だった。思えば、黒子のほうから送ったことはほとんどない。最初から、いつも赤司はまめに連絡をくれていた。
こんなに頻繁にやりとりしていたのに、一体急にどうしたのだろう。何かあったのだろうか。体調でも悪いのだろうか。それとも、──もう、他に黒子よりも、好きな人が出来たのだろうか。黒子には何も言ってくれないのだろうか。好きだって、言ったくせに。
「……」
まもなく電車が参ります、のアナウンスを聞きながら、ホームの屋根に遮られた夜空を見上げた。高いビルの並ぶ東京の街並みに、ぽかりと太った月が浮かんでいる。冬空によく映える、綺麗な満月だった。
ふと、その綺麗な月を、赤司と一緒に見たいと思った。それだけじゃない。この二週間、話したいと思ったことが色々あった。先週から始まった期間限定のドリンクを飲んでみたいこと。作ったゆで卵がたまたま双子だったこと。読み終えた本が面白くて、一緒に読んで感想を言い合いたいこと。特に目新しいこともない毎日の繰り返しだけれど、そんな些細なことを、赤司に伝えて共有したいと思っている自分がいた。
スマートフォンをホーム画面に戻し、左上の時計を確認する。もうすぐ夜の八時になる頃だった。
よし、と気合を入れて、電車を待つ列からそっと離れ反対側のホームへと移る。ちょうど時刻通りに到着したJR線に乗り込み、空いていた座席へと座った。がたん、ごとん、と揺れる電車から見える景色は、何度か通っている道のはずなのに、少し久しぶりに見る気がする。どうしてだろうと思ったけれど、最近は赤司が車で送り迎えしてくれるからだと気付いた。
ハンドルを握る横顔に、言いようもなくどきどきと胸が高鳴っていたこと。黒子の名前を呼ぶ優しい声を、ずっと聞いていたいと思ったこと。もう誤魔化しきれない事実なのだ。本当は答えなんて、最初から分かっていた。
**
「こんばんは、赤司くん」
「……こんばんは」
仕事が忙しい赤司は、まだこの時間は帰ってきていないかもしれない。それならそれでマンションの前で待たせてもらえれば良い、と思っていたけれど(赤司の住むマンションはコンシェルジュ付きのオートロックである)予想に反して、鳴らしたインターホンに赤司はすぐに出てくれた。何度か訪れたことのある部屋番号のドアの前に行けば、まるで監視でもしていたかのように、ぴったりのタイミングで玄関のドアが開く。珍しくラフな服装だったから、もしかしたら今日は仕事は休みだったのかもしれない。
「上がっても良いですか」
「追い返すわけないだろう。全く…黒子はいつも予想出来ないことをしでかすね」
靴を脱いで、部屋に上がる。冷たい夜風で冷えた身体が、よく暖房の効いた部屋のおかげでぬくぬくと温まった。
「寒かっただろう。お茶淹れるから待ってて」
「赤司くん」
コートを脱いでハンガーに掛ければ、ひと休みするのもそこそこにキッチンに立つ赤司のほうに向かった。ん、と返事をする赤司の声が、心なしか掠れている。
「急に連絡が来なくなるから、心配になりました」
「押してダメなら引いてみようと思って。寂しかった?」
「はい」
「……」
カチ、と電気ケトルのスイッチが押される。ふつふつとお湯の沸く音が、二人の間の微妙な沈黙を掻き消していった。マグカップを準備する赤司の背中に、黒子はおずおずと口を開く。
「体調、悪かったんですか?」
「どうしてそう思うの?」
「少し声が掠れてるし、あまり元気がないように見えたから…大丈夫ですか」
やがて、ぽんっと音が鳴って、電気ケトルが止まった。二つ並べたマグカップに赤司がお湯を注ぐ。彼にしては珍しく、ティーバッグの緑茶だった。それを二つ持ってソファのほうへ向かう赤司の後を、黒子もついてゆく。
「珍しく、ちょっと風邪引いて寝込んでたんだ。もう大丈夫」
「そうでしたか…。言ってくれたらお見舞いに来たのに」
「少しね、賭けてたんだ」
「え?」
「いつもオレから連絡してるけど、オレから何も送らなかったら、黒子から連絡くれるのかなって…ちょっとだけ、期待してた」
「そんな…」
なんだかいつもより覇気のない赤司に、黒子のほうまでしょんもりしてしまう。こんなことなら、赤司の連絡を待たずに、自分から送れば良かった。赤司からの通知がないか、ちらちらと気にしてばかりじゃなくて。今更後悔したって遅いし、言い訳のしようも無い。マグカップを持ったまま肩を落としていたら、「でも」と赤司が続けた。
「そんなこと、どうでも良くなった」
「え…」
「黒子の顔見たら、どうでも良くなった。…来てくれて嬉しい。ありがとう」
恥ずかしげもなくそんな台詞を、掠れた声で言うものだから、黒子の心臓は一気につままれた。ほんわりと湯気の立ったマグカップが、ことりとテーブルの上に置かれる。
「来てくれて、すごく嬉しいから…。前に言ったこと、今日、もう一度言ってもいい?」
「……」
「黒子、オレと、」
「付き合いましょう。赤司くん」
「…え?」
「好きです。恋人になってください」
はっきりとした黒子の声に、今度は赤司がぱちりとまばたきをした。そのたびに綺麗な赤い瞳が、ルビーのようにきらりとまたたく。
「黒子…」
「あとちょっと、って言ってしまいましたが、もうとっくに落ちてました。言うのが遅くなってすみません」
「え、…いや…本当に…?」
「赤司くんに、見せたい写真があって」
脈絡もなく、自分のポケットからスマートフォンを取り出す。画像フォルダにあったのは、この二週間の間に撮った何枚かの写真だ。双子のゆで卵。つぼみが膨らんでいた近所の梅の花。ここまで来る道中で撮った満月の写真は、ピントが合わずただの真っ暗闇の画像になっていた。
「くだらない写真ですけど…。こういうの、これから送っても良いですか」
「もちろん。いつでも送って。黒子の話、たくさん聞きたい」
うん、と頷く赤司がふわりと微笑む。見たことのないような、優しくて、甘さを含んだ表情だった。至近距離で見るには破壊力が強すぎて、思わずスマートフォンをぎゅっと握る。
「で、でも、恋人になる前に、ひとつだけお願いがあります」
「うん。何?」
「風邪をひいたり、体調を崩したりしたら、教えてください。ボクだってキミの看病くらいは出来…るかどうかはちょっとわからないですけど、でもそばにいることは出来ます。少しくらい、頼ってください」
「わかった。体調崩さないように気を付けるけど、次からはそうする」
「いくら赤司くんでも、ボクの好きな人の身体を大事にしないのは許さないですからね」
「うん。ありがとう…黒子も、何かあったら何でも言って」
頷きながらも、恥ずかしくなって俯いた。赤司の笑い声が耳元で響く。それから、けほ、と赤司が小さく咳き込んだから、黒子も慌てて顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫…。キス、してみたいけど、今日はやめておこうかな」
「き、きす…」
そうか。恋人になったら、そういうことも当たり前にするのか。もちろん全く考えていなかったわけではないけれど、急に現実味を帯びて、黒子の顔が熱くなる。つい赤司の唇を目で追ってしまって、それからすぐに視線を逸らした。
「何考えてるんだ?」
「い、いや…何も…」
「ふふ。ねえ、オレももう一度言ってもいい?」
”黒子が好きだ。恋人になってほしい。”
以前と同じ台詞。数ヶ月前は驚き過ぎてうまく答えられなかったけれど、今なら、自信を持って言える。
「はい。ボクも、赤司くんが好きです。──末長く、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げれば、また赤司は嬉しそうにくすくすと笑った。余裕そうなその表情がなんだか悔しくて、彼の手を引いて、思い切って身体を近付ける。
「黒子、…っ!?」
ちゅ、と小さなリップ音が鳴った。黒子の唇は、赤司の唇のほんの端っこに僅かに触れた。ほっぺたなのか、唇なのかわからないような、際どい場所の、本当に一瞬だけのキス。
「…次は、赤司くんから唇にしてください」
「……覚悟しておいて」
「ぅ…初心者なので、お手柔らかに…」
「オレだってそうだよ。今日、泊まっていくだろう」
「え?赤司くん初心者なんですか?」
「泊まっていって。遅い時間だし。帰したくない」
「あ、はい。それは…。では、お言葉に甘えて」
何故か用意されていた新品の下着と歯ブラシに、なんて準備が良いのだと苦笑する。恋人一日目の夜はどう過ごすのが正しいのだろう。難しいことはよくわからないけれど、二人でなんとなく、楽しくやっていければそれで良い。
まずは、うまく写真に撮れなかった満月を見てみたい。この部屋のベランダからなら、きっと綺麗に見えるだろう。