🐳と📱と並行世界の話 朝。初期設定のままのアラーム音が耳を突く。脳に雪崩れ込む音の中、ぼんやりとした頭で、昨日までのことを思い出す。はっきりと思い出してしまった瞬間、クロノの瞼は重くなった。そして、同時に恐怖する。今日、一番最初に見える光景は、一体どうなっているのだろうか、と。
次に見える景色が見慣れた天井であることを信じて、ゆっくりと目を開ける。
「……。また失敗か…。」
そこは、やはりいつもの真っ白な部屋ではなかった。昨日と同じ、慣れないのに懐かしい、そんな部屋だった。
そうして、もしかしたら今日こそはという彼の期待は、あっさりと裏切られた。
上半身だけを起こして辺りを見回すと、右眼周りの皮膚が眼帯と擦れた。いつもと違う医療用の眼帯は、やはり少し違和感がある。
「おはよう、スマホン。」
「おはようございます、クロノさん。やっぱり今日も駄目でしたね…。」
「まあ、こっちでの生活も悪い訳じゃないし大丈夫だ。」
クロノの横をふわふわと飛ぶスマホンだけが、いつも通りだった。
__この、並行世界の中で。
ここは、いつか見た幻と同じように、クロノが普通の中学生だった世界。トキネも死んでしまっているし、アカバもレモンもシライも誰もいないが、似ているといえば似ている。
どうしてこんなことになってしまったのか、遡ること四日前。いつも通り任務を終え、本部に戻ろうとしていた矢先、スマホンの転送機能に不具合が生じてしまったのだ。スマホンは直ちに転送を中止しようとしたものの、時既に遅し。気がついた時には、長針町のあの横断歩道の真ん中に佇んでいるクロノの姿があった。
「………え。」
急に予想外の場所に連れてこられた驚きと一瞬にして掘り起こされてしまったトラウマで、クロノの声は酷く震える。
だが、こんなことで擦り減る精神ではない。クロノはスマホンの不具合が直るまで、持ち前の洞察力と冷静さ、要領のよさと強い心、そして眼帯の下に隠したタイムマシンをフルに活用し、あくまで"この世界のクロノ"もとい"長針中の黒野"らしく学校生活を乗り切ろうとしていたのだった。
「一時的な不具合だろ?またすぐに戻るよ。それより、今日も学校だ。なんとかやり過ごすぞ。」
クローゼットから制服を引っ張り出す。袖に腕を通してズボンを履き、最後にボタンを閉める。部屋を出たら諸々の準備をして、外へ足を踏み出す。
その過程の中で、"二級巻戻士クロノ"は"長針中学校二年生の黒野"に変化した。そのふたつの差は一目瞭然。大人顔負けの強さを持っていた瞳は、まだ子供らしさの残る年相応な形に姿を変えた。
「いってきます。」
誰もいない家に手を振って、そしてまた、今日が始まるのだった。
騒々しい昼休みの教室。その非日常は輝きすぎていて、クロノには到底入っていけなかった。そこで、四年前までは普通だった誰とも話せない生活というものは、意外にも暇なものらしいと知った。それが何故か寂しかった。慣れていたはずなのに。
「はぁ…。」
窓際にあるクロノの席は、太陽光に反射して眩しく光っていた。
小学生の頃の自分と同じように人と話すのが得意ではないであろうこの世界のクロノには、友達らしい友達もいない。きっと、今までは淡々と日常生活を送ってきたに違いないだろう。
あるはずのない光を隠した右眼だって、担任らしき人物にちょっとした怪我だと誤魔化して終わりだった。そのお陰で面倒なことにはならなかったから、悪い訳ではないのだが。
(……きっと、こういう平凡な生活が、一番幸せなんだろうな…。)
巻戻士たちは全員、何かしらの事情があってあの場所にいる。中には青春を犠牲にした者だって、夢を捨てた者だっていた。それ故に、巻戻士たちの普通の人生への憧れは強い。
それはクロノも例外ではなく、漠然とした羨望が、本人すらも見えない程に深い心の奥底にずっといて、この世界にクロノを惹き留めていた。もちろん、クロノ自身にその自覚はないのだが。
友達がほしい。アカバやレモンのような、側に居てくれる仲間が。
でも、それだと戻った時、黒野が困る。でも、それなのに、クロノはどうにも、どうしても、この世界の黒野が困るように思えなかった。わからなかった。ここにいたはずの人間が、何処で何を思っているのか。
(うーん、一応おれの体なんだし、好きにしてもいいような気もしてくるな…。)
友達を作る。少し前までは苦手だったそれも、今では難しいことではない。
これまで仲良くなった人たちと同じこと。それだけで、友達はできる。最近わかった。
「黒野さーん?黒野さーん、黒野さーん!」
そこでようやく、クロノは自分を呼ぶ声に気がつく。
「うわぁっ⁈え、あ、は、はい…!」
咄嗟に出た大声のせいで、周りの人たちの視線がクロノの方へ集中する。話しかけてきたクラスメイトも不思議そうな顔をしている。
「ごめん、驚かせちゃった?」
「いや、大丈夫…。それで、何だ?」
まだ五月蝿く鳴る心臓を宥め、要件を聞く。
その内容は、特に特別でもない学校にありがちなものであった。クロノにとっては、そのありがちでさえ特別なのだが。
こんな短い会話ですら嬉しく思えるのは、知らない世界に放り込まれたこれまでの孤独感からか、はたまたそれ以外の何かからか。
もしかしたら、世界を跨いで黒野の想いが届いた__なんてこともあるのかもしれない。
それなら、まず、クラスメイトの名前を覚えよう。そして、あと何日あるかわからない中学校生活の中で、友達と呼べる人間を作ろう。色々と謎の多いこの世界の黒野のためにも、クロノは、そう決めるのだった。
クロノがこの世界に来て、はや六日。
慣れてきてしまった学校生活にはもはや楽しみもない。あれだけ祈った朝も、溶け切ってしまったこの世界では、恐る恐る目を開ける必要はなくなった。これ程に馴染んでしまったというのに、クロノは、この憂鬱が普通だということに気がつけていなかった。
だからこそなのか、クロノの性格故なのか、クロノは新たな日常を求めた。
四日目の朝、通りすがったクラスメイトと挨拶を交わして、数時間が経ったころ。夕焼けの中、正門を出るのは、クロノ一人ではなくなっていた。
慣れないながらも会話をして、その時間が残していった笑顔のまま手を振るクロノの姿には、"青春"の二文字がぴったりだった。
もしくはそれは輝きともいうのだろうか。クロノらしいままの下手な笑顔すらも綺麗に見えるくらいに、青春というものは眩しくて、楽しくて。
そして同時に、「有限」を連想させた。
この世界は、自分がいるべき場所ではない。生活はいずれ終わりの時が来る。当たり前のことだ。
いつかまた、任務漬けの日々がやってくる。
それはきっと、仕方のないこと。クロノ自身が望んだこと。夢の為に必要なこと。
だって、トキネを救うにはそれしかない。あの世界に、クロノは戻らなくてはいけない。
だから、本当は気がついている、子供みたいな願いには、必死で目を逸らした。
だって、認めてしまったら、巻戻士クロノが消えてしまいそうだったから。まだ使命の残ったこの人間を、殺すようなことなんてしたくなかったから。
__なのに。
だというのに、口を衝いて出たそれは、無情に全てを壊していった。
どうにか守り続けてきたものを、どうにか耐え続けてきたこれまでの時間を。
(クロノさん、なんで。)
夕焼けの終わりを告げる、桃色の空の中。制服のポケットの中で、スマホンは確かに聞いた。
「帰りたくないな」、という呟きを。