甘い香りの誘惑に、もがく白い牙 吸血鬼なんてホラー映画の中の話だと思っていた。
現実に存在しているなど、あるわけないと思っていた。
けれど…今、目の前で眠っている男には、犬歯に牙を持っていた。今まで一緒にバレーをしていたが牙があるなど全く知らなかった。口の中などまずまじまじと見ることはないが、それでも他の歯よりも少し大きい尖った歯に気付かないことはない。
授業の時に紙で切った指から血の香りがしたからか、日向は傷のあたりをまるで甘噛みするかのように噛んでいる。噛んではいるが映画で観た吸血鬼のように、皮膚を突き破って噛み付くような感じではない。
かしゅかしゅと牙が指を滑り、その代わり舌で傷の血を必死に舐めているようだった。時折、傷の部分に舌が当たりピリッとひりつくような感触に、背筋をぞわ…となんとも言えない感覚が這い上がる。
血を飲まれたわけでもないのにクラクラと視界が回り、力が抜けそうになる。このままではだめだと思い、月島は日向の口から指を引き抜く。日向が舌を伸ばしてそれを追おうとするが、月島は咄嗟に日向の頭を押さえてそっと髪を撫でる。
その感触にふ…と日向の瞼が上がり、琥珀色の瞳が月島の姿を捉え何度か瞬きをした。
「つきしま…?」
状況がいまいち飲み込めず、ぼーっとなりながらふと口の中に広がる味に違和感を感じた。
『血…のあじ?え?だれ…の…』
目の前に立つ人の顔を見上げて、すんと鼻を鳴らす。微かに月島からあの甘い香りがして、日向の顔色が翳る。
「つき……」
「ねえ」
日向の呼ぶ声を遮って月島が日向を見つめる。
「その牙…なに?君、吸血鬼なの?」
月島の言葉に日向は顔色を変え、思わず口元に手を当てた。
この秘密はばれてはいけない。ばれればこの場所を離れなくてはいけない。バケモノと追いかけられて、ここでは暮らせなくなる。そんなことになったら家族皆に迷惑がかかるだけでなく、日向も烏野でバレーボールが出来なくなる。
そんなのは嫌だった。けれど日向に月島を納得させるほどの言い訳なんて思い付かない。
『ど…どうしよう…』
そう思えば思うほどなにも出てこなくて、喉がカラカラに乾いていく。
「聞いてる?その牙は…本物なの?」
黙る日向に手を伸ばすと、唇に親指を当ててぐっと上げると、現れた牙をそっと撫でた。