三日月だけは知っている いつもの通り、ここからはおれの超プライベートな部分になる。ふと思ったんだけど、この日記はもしかしたら後世、オールブルーに辿り着いた偉大な海賊船のコックの手記として残るんじゃないか?だとしたらどうしよう、こういう部分は書かないで、もっとこう崇高な文章にした方が良いんだろうか。オヤジが航海日誌を記しているのは当然だけど、その中身までは知らない。おれも正しい航海日誌なんて書き方はわからないから、大体の進路や気候、あったことを書いているだけ。
つまり、まぁ、誰かが読むことになっても問題はないはず。ここでおれは、声を大にして言いたい。
モンブラン・ノーランドを笑ってた奴ら!!これで証明されただろ、空島はあるってこと!!
だから、この日誌を読んでる誰かへ。いつでもその日の後半に書かれてるおれの走り書きは無視してくれて良いが、ここだけは強調しておく。
嘘じゃなかった、モンブラン・ノーランドは偉大な探検家で冒険家だ!!
この空島の存在で、おれの中の確信がもうジョズよりもさらにガッチガチに硬く眩しいものとなる。オールブルーは絶対に存在するって。おでん隊長が、いや、今となってはおでんさんが船にまだ乗ってたならどんなおでんを作ってくれただろうか…、空島は未知の食材で溢れている、まさに宝島だ。スカイフィッシュ!スカイロブスター!スカイオマール海老にスカイムール貝…コック達は喜びに歌って踊って、あのイササカ料理長だっていつもより表情が柔らかい。まぁ、怒鳴る時にはいつも通り怒鳴ってるんだけど。
ノックアップ・ストリームでは、マルコは一人羽ばたいて船の先導をしていた。アイツは多分、良い航海士にもなれるだろう。医者も目指してるし、出来るヤツとは違うおれときたら、サウスバードにずっと突っつかれてるし!!笑わずに周りも助けろってんだ!!───マルコはどんどん強くなってるし、おれだってやるべきことは増えていく。けど、そういう時間が減っちまうのは少し寂しくもある。ってそろそろ十八にもなる男の発言じゃないな、こりゃ。少しおれも改めねェと。
空の島、空に島があったっておれが今度は伝えるよ、モンブラン・ノーランド。
だから今夜はあんたとサシでじっくり飲み明かそう。おれがいつかオールブルーを見つけた時には、きっとあんたを思い出す。
勇気ある偉大な先駆者に、多大なる尊敬を込めて。
Santé
✳︎
「ねぇ、サッチってマルコの何なの?」
「んぐっ…!!な、何って…?」
くりくりとした瞳が真っ直ぐで眩しい。
サッチはモグモグと頬張っていた自慢の出来のベニエを危うく喉に詰まらせそうになって、慌てて胸元を拳で叩く。
「だいじょうぶ?サッチ、ママぁ!私のミルクをサッチにあげてもいい?」
「あらあら、大丈夫?サッチさん」
「お、おかまいなく…!!おかまい…、なく!コーヒーまだありますんで!」
サッチが作るベニエは、ふわふわの揚げた丸いドーナツ生地の中にたっぷりのラズベリージャムが搾られ詰められている。カスタードクリームも、チョコレートクリームも柔らかな生地とよく合うが折角この家から貰ったジャムを活かそうと思って作ったジェリードーナツは、屋根の雨漏り修理の休憩にサッチも一緒にご相伴に預かる形で頬張っていたのである。
少女の名前は、ルルゥ。
髪を低く編んだ母親であるララと顔付きがよく似ている、中々におませな少女だ。サッチは温くなったコーヒーをすっかり飲み干して、ようやく喉の突っかかりを押し流す。
「ぷはっ……、はー……、」
「それで、サッチはマルコの何なの?」
「拘んのね、ルルゥちゃん……。それは、つまり…、」
何なのか。それは、サッチが知りたい位だった。
サッチがこの島に辿り着いてから、はや三ヶ月が過ぎていた。マルコのことは、聞けば答えてくれることもはぐらかされることもあったがそれなりにどういった人物であるかは掴めていたが、何せ実感があまり湧かないのはこの島が他の島、外の世界との交流が極端に少ないせいだった。
白ひげ海賊団、元一番隊隊長不死鳥のマルコ。
不死鳥という二つ名は、その悪魔の実の能力に由来している。悪魔の実は主に自然系、
動物系、超人系、と三種類に分かれるらしいが、マルコが口にした実は動物系トリトリの実。このトリトリの実自体が希少らしいが、その中でもさらに貴重な幻獣種モデル不死鳥の能力者として治癒の炎も自在に操る。となれば、それだけでもうサッチの頭はパンク直前だ。
自分の肩を治療する際のあの炎は、その再生の炎だと言うし村民の噂によれば身体全体を大きな鳥に変化させて空を飛ぶことも可能らしい。全体を鳥に変化させなくとも、両腕を翼に変えれば体力が続く限り海を超えていけるだとか何だとか。
「ルルゥ、あまりサッチさんを困らせるんじゃないの。サッチさんは記憶がないのよ、マルコさんが保護して一緒に暮らしている…そうでしょう?」
「そーっす、それです。ね、どういう関係とかないのの、ルルゥちゃん。強いて言うなら、同居人?…居候…?」
「でも同じ家で暮らすから家族って言うんだよ、知らないの?」
「し、知らなかった〜。色々と知ってるのねェ…」
エプロン姿の母親が、手を拭いながら嗜めるも少女にとってはまだ腑に落ちないらしい。
サッチが記憶を取り戻すまでは、同居を許可してくれたのは他ならないマルコ自身である。サッチも最初こそ与えられてばかりの状況に固辞したものだが、この島に宿なんて施設は滅多に外部との交流がないだけあって存在していない。
─── それに、お前が自分で言ったんだろ。堅気じゃねェかもしれないってな。危険なヤツ…の可能性も、まぁ普通なら考えられる。
それでも届けられる新聞をコーヒーカップ片手に目を通しながら、マルコは眼鏡越しの視線を軽くあげて肩を竦めた。
─── 島の人間にとってもお前は未知数だ。野放しにされてるより、このスフィンクスで武力行使出来るヤツが身元預かってるってのが一番平和なんじゃねぇのか?
それはその通りなので、サッチは今でもマルコの家に世話になっている。
「( いや本当に、おれが知りたいんだよな……、) 年齢から言えば、息子と父親…くらいなんだろうけど、保護者って言ったらそうなのかも」
「ふぅん……、」
あまりお気に召さない返事だったか、口の周りにジャムをいっぱいに付けて考え込む幼児の姿がそれでも微笑ましいものであれば、サッチは片手を伸ばして口元を拭ってやる。何故だか、初めてな気がしない。子供もおかしな意味ではなく好きだった。もしかしたら、歳の離れた弟妹や、子供が居たのかと思うくらいには。
そうなると、愛した恋人がいるわけだが、だとしたら心底申し訳がない。何一つ覚えていない、未だに思い出すことも出来ずのらりくらりと日々を送っている夫に見切りを付けていてもおかしくない。この時代は、この海は畝りに畝った動乱の時代であると教えてくれたのは他ならないマルコだった。今は、村の往診に向かっている。
居候のサッチとくれば負傷した腕は問題なく動くようになっていたので、村の便利屋として困り事に駆け回る日々だ。何せ、一通りのことをこなすことが出来てしまう。雨漏りの修理だろうと、荷運びだろうと、およそ村の困り事に対応できる体力と手先の器用さを持っているサッチがマルコの後押しもあったとは言え村の人間に馴染むのは素晴らしく早かった。
世界の均衡、マリンフォードの戦い、元四皇白ひげエドワード・ニューゲートの死、王下七武海の撤廃。この島もいつかは白ひげの故郷として狙われるかもしれない、そう淡々と告げられて。島から逃げ出したい。とは思わなかったので今もこうして居候に甘んじている。
「むぅ…、サッチはそうね、おひげがショリショリしてるけど…優しいからいいよ。お母さんになってあげるね!」
「んぶっ…!!なん、な、なんて…!?」
今度はコーヒーを吹き出しかけて咄嗟に片手で押さえ込む。
「だって、私…マルコが好きなんだもん!マルコの息子なら、そういうことになるんでしょ?サッチは私がお母さんだと嫌?」
「いや、あ、いや、今のいや、はそう言う意味じゃなくて…!!」
「じゃあ嬉しい?」
「う…、おれの方が歳上じゃなぁい?」
「そういうの、気にしないからいいよ」
「あらそ〜〜、……それなら良いかもねェ。マルコとルルゥとおれと、ステファンと…、」
「母さんとおばあちゃんも一緒だとお家をかなり大きくしないとダメね!」
理想としては、と人形遊びの家を持ち出す姿は幼なくとも眩しい。薔薇色の頬だ。サッチは頬杖を突きながら、こんなご時世でも未来を見据えて生きようとする少女の発言を暖かく見守りながら馬鹿にはしないことに決めていた。
自分より年嵩の男を息子として受け入れてやろうというのだ。それに、血も繋がっていない息子を───、
「………?」
「おばあちゃんは脚が弱いから一階にね、ステキな温室があれば外の天気に関わらずお花が見えるのもいいわ」
胸の中に、また一つ柔らかな温かさを持った欠片が落ちていく。この三ヶ月間、回数はそれほど多くはなかったが、何かしら引っ掛かりを覚える度にそれは淡く胸の中に揺蕩い底を目指すようで。今のは何に引っかかったのかと、サッチが頬杖のまま考え込もうとしたタイミングでルルゥに手招きされる。
「サッチのお部屋はどこにする?二階が良い?」
「……と、おれは一階が良いかな。ステファンの出入りに気付くだろう…、し…、」
ミシッ……、
「………あらぁ…?」
「サッチ…いいよ、少しくらいぽっちゃりしてる方が、子供はいいっておばあちゃん言ってるもん」
「ちょ…優しさの眼差しやめてェ…?これはあれだから!経年劣化だから!決しておれの身体がナイスバディとかそういうのじゃないから!!」
立ちあがろうと腰掛けていた椅子から、少女の遊び場である出窓横の区画に立ち上がるべく背もたれに少しばかり余分に力を掛けただけだ。とはいえ、明らかに入ったヒビを見て見なかったフリをすることは出来ない。自分が使うならばともかく、この家の家族が使うのだ。
生暖かい、優しい視線をくれる少女にサッチは一頻り体重のせいではない、と宣言した上で片手を立てる。雨漏り修理のついでだ、どうせ行く当てもない、根無草。
「……余ってる木材とか、なぁい?」
✳︎
診療所は基本的に、荒天でもない限りは青空の下で開かれる。緊急の場合を覗いて、村の中央の広場で行われる。白衣を着るようになったのは、最初警戒する村人達の心を少しでも開いて欲しかったからでそれ以降は自分のここでの役目を
「あぁ、問題ねェな。ちょっと炎症は残ってるが…大事には至らねェよ。身体を冷やさずに、あと二日は酒はお預けだよい」
「そりゃないよ、マルコ〜…、せめて一日じゃあ駄目かい?」
「残り長い人生だと思えば必要な二日間だ、ちったぁ節制しておけ」
「爺さん、マルコさんを困らせんなよ。酒の飲み過ぎで体壊してるんだからな」
渋々ながら分かったと頷く老人と、付き添いの息子が下げる頭とにマルコは片手を挙げて気にすることはないと軽く振る。正式な医師免許なんてものは持っていないが、長年の経験と口より早く手が出る船医の下で学び積み重ねてきた努力と実績がある。
この村の医者代わりとなって久しいが、今の所どの村人も大病が起きていないのが救いだった。外科的な手術が出来ない訳ではないが、施設自体がお世辞にも整っているとはいえない辺境の地だ。いざとなった時を考えると、実際問題中々難しいのが現状だ。
「マルコのおかげで、膝がだいぶ良くなったよ〜。これね、庭で採れた薔薇ね!飾ってちょうだい!」
「あぁ、そりゃ何よりだ。花も飾らせてもら───」
「それとこっちはね、膝掛けね。おしゃれでしょ、マルコとサッチちゃんの分もちゃんとあるのよ、好きな方使って。喧嘩しちゃダメよ、もしどっちかで取り合っちゃったら言ってね、簡単なのよ!」
とは言っても、根本的な部分で村人達は強い。体力、それを上回る気力というものが良い意味で強かであると次から次に取り出される籠の中身に拍手すら送りたいとマルコは小さく唸る。
「ありがとよい、サッチにもよく───」
「それとねマルコ、あぁたまだまだ若いんだから!今日はね、良い話があるのよ。独り身ってのはどうも良くないわ。えぇと今独身なのはセリンでしょ、コルリでしょ、セッカにノスリに…」
完璧なら善意である。
だからこそ、マルコは曖昧な笑みのまま羽ペンを持ったままの手の甲で軽く参ったと額を掻く。
はぐらかすのは、こうなってくると得策ではない。
「───全員おれにゃもったいない別嬪さんだがな、サシ婆に忘れられない旦那が居るように…、」
どれも、村の若い娘達だ。
自分の歳よりも、ずっと若い。鈍感を気取るつもりはなく、何人かは確かに心当たりもあったがそれ以上連ねられる前にマルコは穏やかにカルテの端を整える。再び挙げた顔の表情は、口元の笑みも実にやわらかなものだった。
「おれも居るんだ。忘れられねェヤツ」
老婆の瞳が大きく見開かれては、恐る恐ると言葉を取り出す。のらりくらりと躱してきたが、本気で元海賊の嫁になりたいと思う無鉄砲な若い娘がそんなにいるなら曖昧な言葉で格好を付けてる場合ではない。
「あらぁ……あらあらあら、そうなの?」
「あぁ、忘れたかねェから良いんだ…おれはこれでな。男の一人暮らしってのも、案外悪くねェよい。それに、今はなんだかんだでステファンもいれば、もう一人居候も居るしな」
「そうなのねぇ…本当にねぇ…、分かるわぁ。わたしもね、生きていたらそれはそれで腹が立つことも多かったけど、あのどうしようもない旦那が生きていてくれたらなんて、思うこともあるものねぇ……、」
「そこまで想われてりゃ、旦那も喜んでるだろ」
草の香りを風が運ぶ。
マルコの柔らかな金髪を揺らす風は、確かに海を渡ってきた筈なのに記憶にある類よりも乾いていて、それでいて軽い。老婆はそんな横顔に掌を長いスカートの上で遊ばせては、言葉を迷わせるようだったが気遣わしげに再び口を開く。
「……亡くなってるのかい、マルコ。わたしねぇ、あんたみたいな本当に良い男が…一人ってのが何となく寂しく思えてねぇ…、婆のお節介だ。悪気はなかったんだよ、許しておくれ」
「頭なんか下げねェでくれよい、サシ婆。おれだって忘れられるなら、忘れて楽になりたいくらいで…」
深々と下げられる白髪の頭には、小柄な肩に両手を添えてそっと戻してやる。頭上を群れなして雲が流れる。
「だが…、そうするには…ちょいと長い時間を生き過ぎた、それだけさ」
✳︎
所詮、自分という人間は根本的に臆病なのだ。
失いたくない、奪われたくないという気持ちが誰より強いから、仲間を大切に扱ったし奪われる前に奪ってきた。
島の人間が、まるで聖人のように扱うものだから時々ひどく自分がペテン師のように浅ましく思えることもある。もしも、父と慕った男の故郷がこの島でなかったなら自分は足を踏み入れることもなかった。全てが回り回って、確かに今はこの村を気に入っているし愛していると表現しても誇張ではないだろう。だが、次第に湧いた愛着であって、要は全てを失った後、自分が"不死鳥のマルコ"で居られる場所に身を寄せたかっただけの、利己的な理由が確かに存在していた。
船で白衣を着ることは、ついぞなかった。
ささやかな夢として憧れはしたが、どうにも白に赤は目立ち過ぎる。それを教えてくれたのは、常に調理服で戦場へと駆り出される男の姿で。必ず視界に入ってしまうその男は、絶対に返り血で汚れた服のまま厨房に戻ることはなかった。皮肉なことである。船医者を目指した自分が、船を降りてからやっと白衣に袖を通すことになれただなんて。
「──────、」
帰り道、陸があることを踏み締めながら確かめて。家の窓から漏れ出る室内の灯りには、いつでも胸に込み上げるものがある。それを深呼吸と共に誤魔化してから扉に手を掛けるのが、最近習慣となっていた。
「……戻ったよい」
「おかえりなさい、マルコさん。おつかれさまっス!」
「わふわふ!わふん!!」
ジュウゥゥゥゥ───、
キッチンからは何かを炒めるフライパンの音に、鼻をくすぐる香ばしい匂い。すぐに戦友である白犬が脚元に駆け寄って来ては、帰宅を喜んでくれる。
胸の中へ温もりが満たされていく感覚が足の爪先から頭の天辺まで広がるのを、立ち止まって全身で受け止めなければ到底次の一歩が踏み出せない。
果たして、今まではどうだっただろうか。自分が外に出ている間、家で一匹待つステファンのことを省みたことがあっただろうか?一匹でも、自由に村を歩けるのだから寂しくないと何故思っていたのだろうか。
「……自分のことにいっぱいいっぱいで、おれはお前のことをちゃんと考えられてなかったんだよな、……悪かった、ステファン」
「わふ?」
屈み込み掌でその頭を撫でやる。
仔犬として皆の足元で甲板をちょこまかと器用に駆け回っていた日々が昨日のように思い出されるこの犬も、自分と同じ様に歳を重ねてここまで生きて来たのだ。
その頬を柔らかく両手で撫でてから、最後に優しく背中を叩いてやる。
「なんでもねェよ、ただいま」
「わふん!!」
「今日の夕飯は何……、おいサッチ、どうしたんだい"これ"」
立ち上がり、肩掛け式の鞄を下ろそうとして視界に飛び込んできたのは大分分解された木片と鋼線とが散乱するテーブルだ。何やら見慣れた形をしているでもないそれを覗き込んでは、キッチンからサッチが顔だけを覗かせる。
いつの間にか、その名前を呼ぶことに抵抗はなくなっていた。
「んん〜?それ?それ、ルルゥの家でもらったんです。直せたら使って良いって」
「ルルゥ…確かおまえ、今日はララの家の雨漏り修繕だったか」
「そうそう。で、ちょっとしたアクシデントで椅子壊しちまって…納屋で木材探させたもらった時に見つけて、欲しいなら持っていっていいって言うから…、あ、マルコさん、手洗いうがいッスよ!」
「一体全体どういうアクシデントで、椅子を壊せるんだよい…、サッチ、これ」
器用な男は、要らない布切れから冗談の様に体格にぴったりのエプロンを作り上げた。ひとつひとつ新たなことが出来る度に、何故思い出せないのかと複雑そうな顔にはなるも自分という人間の価値がまた一つ見出せそうだと前向きに笑う。
─── おれ、このまま記憶が戻らなかったら村で料理屋でも開こうかな。多分、元々はコックだったんだよ、きっと。
肯定も否定もせずに、マルコは曖昧に微笑んでいた。
「花?綺麗だなァ〜!!バラの良い香りがする」
「サシ婆から、あとお前さんには膝掛けも。後で礼を言っといてくれ」
「了解ッス、あ…折角なら花瓶に飾ってテーブルに出しません?食卓が華やかになるから」
マルコが差し出す、簡易的な紙に包んだだけの花束に鼻を寄せてサッチは目を伏せる。いつでも思っていた、髪の色素は薄い(マルコも人のことは言えないが)サッチだったが、何故か髭やら睫毛やらの色は深く濃いのが不思議だった。瞳を縁取る睫毛の合間から、エメラルドに似た緑の瞳が見え隠れする光景に無意識に花の側面で頬を擽ってやれば、ぱっちりと瞳は開かれる。
何となくという名目の動揺で、相手の鼻先に花束を突っ込んだとしてもマルコの表情は眉一つ動かないのだから、年齢とは即ち積み重ねて来た経験値だ。
「くすぐったい……ってか、ゴデチアの花粉が着いたんですけど?」
「……デケェ蜂を手伝ってやろうと思って」
「こんなにイケメンな蜜蜂います?」
ぱちーん、と音立ててウィンクを飛ばす調子の良い男に花束をいい加減離してやって軽く肩に担ぐ。
「蜜蜂の顔について気にしたことなんてねェよ」
「おれは結構好きだけどな、蜜蜂ってふわふわしてて丸っこいし…それに、蜜蜂が一生をかけて集めた蜂蜜をおれたちはありがたくいただいちゃってるわけで…、」
「蘊蓄はまた今度聞くよい、…なんて言ったか?」
「イケメンの蜜蜂?」
「ちげぇよ、この花の名前」
「ゴデチア。……いや〜おれコック説の他に花屋説も生まれて来たな…、春と夏の間の花として有名でさ、別名が洒落てるの。知ってます?」
光沢のある美しい花であること以外知っているわけがない、と肩越しに送られる視線に鼻先を拭うサッチの唇が謳うように名を呼ぶ。
「───Farewell to spring」
✳︎
─── ねぇねぇ、サッチは海に出るの?
─── いや〜どうだろうなァ。記憶も戻ってねェし、そもそも船を持ってねェもん。
─── それなら、ずっとこの島に住めばいいよ!スフィンクスは良いところだよ、もう白ひげはいないけれど…マルコはいてくれるもん。ねぇ、ずっと島にいて、ここで皆と一緒に暮らそう?
─── 白ひげ…ね、マルコのオヤジさん。
─── そう、この村をずっと支えててくれたすご〜く強くて、すご〜く怖くて!すご〜く優しい海賊の英雄なんだよ!
─── 怖くて強い海賊なのに、優しくて英雄なの?
─── うん!だってマルコも海賊だったけど、強くて優しくて…怒ると怖いもん。
─── それは言えてる。
─── ね、だから…サッチは浜辺に打ち上げられてたんでしょ?大人達は言ってるよ、あの日は星が降ってたんだって。もしかしたら、星と一緒に落ちて来たのかも。
─── ロマンチックじゃないの。
─── でも、次の星が流れたら帰っちゃうんじゃないのかなって。……サッチのこと好きだから、わたしはずっと一緒にいたいなぁ〜…。
─── あら、じゃああと二十年くらいしたらお嫁さんになってくれる?
─── い〜や〜!その頃には、サッチはおじさんだもん!それにわたし、マルコと結婚したいもん!!
─── なっ…マルコだってオッサンじゃん!おれより大分歳上だよ!?
─── マルコはまだ、四十五歳だもん。
─── おれがそれくらいの歳になる頃には、マルコはもう六十過ぎてるって…多分!!
「なに不気味な顔してんだい」
「ちょっと思い出し笑い…、」
「───何か思い出せることが?」
「残念ながら、ルルゥとの楽しいお話ッスよ。もうお休みですか?」
木の枠組みを横から覗き込みながら、サッチは壁に掛けられた時計を見上げる。既にステファンはソファの足元を定位置として小さな欠伸を溢していた。
夕飯を済ませて、風呂に入るのは勿論家主である男に譲る。そもそも、この家にバスタブは存在しているが、悪魔の実の能力者であるマルコはシャワーで済ませることが殆どらしい。この家は、マルコが住み着くまでは長い間空き家になっていたらしいがバスタブを備え付けてくれたのは村の人々の完璧な厚意からであった。
特にこの島に娯楽らしいものはない、とは男の言だったがサッチから言わせればそんなことはない。
何もないからこそ、サッチにとっては見聞き触れるもの全てが新鮮だった。朝に起きて、夜に眠るまでの間に手探りで村と島のことを知っていくのは随分と刺激になったし、出来ることがあると知っていくのも実際精神的にありがたかった。料理をするのは楽しい、楽しいを通り越して生き甲斐に近いものを感じていたし、手先が大分器用だったおかげで村の設備に駆り出されるのは望むところだった。
朝露に濡れた芝の上を犬と共に走る心地よさも、青空の高さも、夜に眺める星の一つ一つの煌めきも決して飽きることがない。村の歴史を学び、これからの未来に伸びていくであろう若竹を見守るのも、人生の先駆者を労わることも同じく苦にならない。サッチは特に子供と接するのは好きだった。随分と歳の離れた兄貴分にでもなった気分で、せがまれるままに木製の玩具やらを作れば、お返しとばかりに伝統のある織物の模様一つ一つの意味を教えてくれる。ここで暮らすならばと、村民達は必要な知識を与えてくれる。そんな穏やかな暮らしを、心地良いと感じていた。
よって、わりかし冗談でもなかった。もしも、記憶が戻らなかったならばこの村で暮らすというのは。
何が何でも、自分が何処から来て何者なのかを明らかにしなくてはならない、そんな焦りに似た欲求が薄まるほどに村の人間達と親しんでいたのである。
「あぁ、まだ寝ねェが…、」
マルコもまた、様々なことを教えてくれた。
世界の情勢についてもそうだったが、いきなり漂着(したのだか、墜落したのだか)した不審人物を相手に随分と良くしてくれた。良すぎる程に、良くしてくれていた。
ソファの隣に腰を下ろそうとするマルコに、サッチは逆に軽く腰を浮かせて拳一つ分ほど開けて座り直す。
「……三ヶ月になるか、おまえが住むようになって」
だから、もしもその日が来たなら当然受け入れようと思っていた。逆に、そろそろ頃合いかと確かに思っていた頃である。動揺することもなく、サッチは組み掛けの木材をテーブルに下ろして背筋を伸ばす。
「あぁ、そうっすね。……分かってます」
「あ?」
すぅぅ、と息を吸ってからテーブルすれすれになるまで下げた頭。その上から、訝しげに首を傾げる衣擦れの音がしたが、見せる顔は努めて穏やかであろうと決めていた。
「今まで、本ッ当にマルコさんには世話になりました…!家の当てはもうあるんです、明日にも荷物纏めて出て行きますんで…、このご恩、記憶が戻ろうと戻らなかろうと!一生忘れな……いでででででぇ!?」
ギュムッ!!!!
「本ッッ当に、おめぇは人の話を聞かねェヤツだな…、おれがいつ、出て行けなんて言った?あぁ?」
「もげる、耳がもげる…!!いや、そういう流れかなって思うでしょ、普通ーーーッ!!あんた何も言わないからって、確かに住み続けてた負目はあるんです一応〜〜!!」
摘み上げられた耳が、本気で千切れるのではないかと椅子から腰を跳ね上げたところでサッチの尻がマルコの掌にスパァァン!!と盛大に叩かれる。
「キャインッ!!」
「おれが言いたかったのは、三ヶ月…過ごしてみてどうだっていう、ただの確認なだけだ。ここにゃ若ェ衆が喜ぶようなもんも特にねェだろ。さぞ退屈してるんじゃねェかと……、」
「尻叩かなくても良いだろ、尻…!!別におれは太ってる訳じゃないっスからね!?椅子壊したのも経年劣化だし、っていうか直したし!!」
「何の話だよい……、」
「それに!おれは退屈なんかしてないってんだよ!比べるものもねェけど……、……おれは、そりゃ一人だったら、落ち込むのかもしれないけど…、あんたがいて、ステファンがいてくれて…、」
村の人間は優しく、やれることがあって。出来ることが増えて、それで喜んでくれる存在があって、と尻を摩っていた掌を今度は胸の前で遊ばせてから、座り直すことなくサッチは眉尻を垂らす。とっくにうたた寝から起こされてしまった白犬は、頭だけを起こしていつになく静かに事態を静観しているから、最初は威勢の良かった言葉も尻窄みになっていく。
「マルコさんこそ、迷惑じゃねぇっスか…?ほら、なんていうか…こう…、野郎が居候してっと」
「は?」
「……ルルゥも言ってたっスけど、あんたモテるじゃないっすか本当は…。恩人だし、これ以上婚期を遅くさせちまったら、申し訳ないって気持ちが…あででででぇ!!?」
グリグリグリ……!!
「余計なお世話だよい」
「足潰れる!!足ィ!!暴力魔!!凶悪犯!!!」
「───大体、すぐに男女だの何だの言い出す歳じゃもうねェよ」
踵を軸に圧をかけられる足甲に悲鳴を挙げるサッチだったが、良く回る減らず口を塞ぐには至らない。
「……マルコさん、まさか…勃たな…!?そっか、歳って…そういうのも関係してくるのか…」
「おい待て誰が勃起不全だ?歳は等しくとるんだよい。おまえも、誰でも…何事もなけりゃあな。歳を取れるってのはありがたいことだろうが」
ポカン!!!
「あいったーーー!!ばかすか殴らないで下さいよォ!頭が悪くなったらどうすんの!?おれ別にマルコさんが枯れてても、気にしないよ!?労わるよ!?」
「おまえの打たれ強さには、一周回って感心するよい」
「おれの長所の一つだと思ってます、どーも。───でも、いつかは出ていかなけりゃとは思ってんスよ。自立しないと、マルコさんも心が休まらないでしょ」
懲りずに拳で殴られた頭を摩りながら、サッチはソファに座り直す。呆れ顔のマルコに対して、ステファンとくれば問題なしと見做したか既に絨毯の上で丸くなり直していた。
「……別におれは…おまえがおっさんと住んでるのが嫌でなけりゃあ…どれくらい住んでくれても構わねェんだが」
「へ?」
「おまえが嫌じゃなければだがな、この家だって住むヤツが居なくなりゃすぐに傷む。そもそもおれは、……飯を作るってのがどうも苦手だ」
大袈裟なまでに瞳をまんまるくするサッチに、頭を掻いてマルコは背もたれに上体を預ける。
「お前さんが居りゃ美味い飯が食える。多少家が狭くなるくらい、釣り銭が出るくらいだ」
「……分かりにくいけど、それ…一緒に住んでて良いって言ってくれてます?」
「文句があるなら荷物纏めて出てっても止めねェが」
「どうしてそう喧嘩腰なんスか!!へへっ、そんならそれで…、おれ嬉しいからこのままが良いな。おれ、マルコさんのこと好きっスからね、これからもドーンと頼ってくれて構わないんで!」
「現金なヤツだよい……、……それだけだ、あんま夜更かしするなよ」
人を小突くことに躊躇いのないマルコの掌が、栗色の髪を軽く撫でた。サッチの瞳がぱちぱちと瞬いては緩やかに細められる。
「……おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
「……へへっ、おやすみなさい…!」
「しつけぇよ」
✳︎
マルコはそれでも自分の寝室には、サッチの入室を許していない。サッチもそれで構わなかった。マルコの過去を少しずつ引き出して、その上で家中に魘される声が聞こえたならばブランケットを引っ掛けて明日の朝食の仕込みを始めてしまう。偽善と言えばそれまでだが、その音で苦しげな呻きが収まるならそれで良い。
賢く、優しい、大人の男だ。
それが、逆に問題だったりする。
「───……、家出れば良かったんだろうけどなァ〜〜……、……どーしよ、益々離れがたくなっちゃうんですけど……、」
完璧にマルコの気配が遠かったのを肌で確認した瞬間、サッチの顔面は立てた両膝の間に項垂れてすっぽりと収まっていく。面倒見が良くて、口も露骨に悪ければ、何かと拳が飛んでくるような脳筋的な一面がある。だが、本質は思慮深く。時折遥か彼方を見遣る様に夜空へ向けられる横顔を、おれはこっちですよと、肩に手を伸ばす自分に気付いたのは、つい最近のことだ。
なんかもう、あれだ。
おれ悪くない、うん。
マルコさんが良い匂いがするのが悪い、時々の人肌が悪い。
人肌って言うほど、触れてないけど。
「………おれ、男が好きなヤツだったんかなァ…、だとしたら、奥さんもいなかったんかな。どう思う、ステファン?」
聞いたところで、いつもは頼れる忠犬も自分で考えろとばかりに尻尾を振るだけである。
どこからが親愛で、どこからが一線を超えたものになるのか。その唇を奪ってしまいたいと思ってしまったなら、その時点で大きく飛び越えているだろう。健全な一人の男として、サッチは更にその先を欲している自分に気付いている。飼い犬に手を噛まれる、それより酷い拾ってきた犬に襲われる。
「……バレたら……、流石に家から出されちまうかな…うーん……、」
マルコが女ならば、自然とそういう流れになったかもしれないが、サッチは自分自身で退路を絶っておきながら今日もぐだぐだと自分の首を真綿で締めるのだ。
三日月だけが知っている
善人なんてものは、海賊にはならない。
机の中に仕舞い込まれ伏せられたままの写真立てを手に取ると、窓際にゆっくりと近付く。今夜の月は青白く細い、何か胸をざわつかせる感覚を押さえ込む様に片手で口元を覆う。
あと少し、おそらく、もうひと揺らぎ。
澱む本質に用心深く触れさせないでおけば直向きな青年はいつまでも騙されてくれるだろうか。何もかも、耳を塞いで目を閉じて、そうすれば何かの間違いで、ひっくり返って全て自分のものにならないだろうか。
写真に映る男は下らないと笑うだろうか、馬鹿なことだと怒るだろうか。
自分を、今度こそ見放すだろうか。
「…………それでも、今度は一人で…死なせたりなんかしねェよ……、絶対に…、」
硝子の向こうに隔たれた三日月に唇を寄せて。
迷い星が翼に落ちてくるその時を───、
今か今かと待っている。
TO BE CONTINUED_