七つの海の子守唄「……告白、された……、」
その時の衝撃と言ったらない。
マルコは摘んでいたピックの先から危うくオリーブの実を床に転がすところだったし、サッチは泡酒を口に含んだ瞬間だっただけに蛸墨のように吹き出していた。
─── アンタらにしか、絶対に相談できないことがある。
そう頭を下げてきた可愛い弟分の表情がまるで父親に見せるように真剣なものだったから。マルコは予めサッチとどのような話がエースの口から飛び出したとしても受け止め、本人にとって一番良い回答を出来るように数日頭を悩ませていたのである。
「……なんて?」
「だから、こ……告白されたんだよ…、告白ってあれだぞ、罪とかそういうのの告白じゃなくて!!す…好きとか嫌いとかの、そういうのだ…ッ、」
「それくらい言われねェでも分かるけどねい、おいサッチ。きたねェよい」
「あ〜あ〜もったいねェ……、エース!!」
顔を真っ赤にして、それでいてその顔を隠すように立てた膝の間に顔を隠そうとする末弟にサッチから鋭い声色が飛ぶ。びくり、と肩を上げて頭を上げる仕草は、どこかモビーディックに馴染みかけてきた頃の青年を思わせるが、指先を突き付けるサッチは別に怒っているのではない。今度こそ、マルコはマリネされたオリーブの実を口に運ぶ。
「な、何だよサッチ…!」
「なんだよ、じゃねぇの。相談ってそのことか〜!?心配させやがって自慢か!?おれだってなァ、告白の一つや二つされたことくらいあるぜ、なぁマルコ!!」
「ノーコメント」
「だからこそ相談してるんじゃねぇか…、どうしたら良いか…おれ分かんなくて…、これでも真剣に悩んでて…、そんな怒んなくっても…、」
肴として床に並べられた、皿の酒蒸しの貝に近い。
パクパクと口を開いては、サッと引っ込もうとするエースの様子は見ていて微笑ましくもあるが、脱力した分サッチが大袈裟なまでに騒ぎ立てるのを止める気にもなれない。
その背中に、白ひげの誇りが似合う男に成長していた。見目も悪くない、これで女の一人引っかからない方がおかしいというものだ。
「あのねェ…、ガキじゃねェンだから…、」
「サッチ」
「あん?」
「言ってやるな、想像の範疇はある意味で超えてちゃいたが、悩みなんてもんの大きさは…人間によって違うもんだよい」
「そりゃま、そうだけどな?そうだが…あぁ、まぁそうだな…、」
リーゼントを崩さないように盛大に掻いてから、サッチは暫く額に指先を当て百面相を繰り広げる。エースとくれば、膝の間から恐る恐るこちらを見上げて視線で様子を窺ってくるものだからマルコの唇は自然に上がっていく。
何もサッチは本気で怒っているのではない、あれこれ深読みして心配し、ただ拍子抜けしただけで安堵の溜息が大きいのと同じで。
自分の言葉に素直に耳を傾けて直ぐに受け入れられる。人間臭いが、愚直ではない。そういうところをマルコは好ましく思っているのだから。
「んっとな…、分かった、悪かったよ怒っちゃいねェ。あー…船のヤツか?前の島の女か?」
「……船のやつ」
「そうか。いや、居るのよ?島の女の優しさや素朴さに触れて心揺れちゃう男ってのも。そういうのは、次の島で良い恋しろだなんて無責任に慰めちまうが、船のヤツなら話はちょっと別だよな。ほら、食え食え」
腕捲りしたサッチの鍛え上げられた二の腕が、エースに向かって皿を差し出す。
弟分が酒よりも酒の場で皆と共に食う食事の方が好きだと分かっているからこそ、目の前に押し出された好物のペペロンチーノから上がる湯気に、恨みがましく細められていた黒い瞳は輝く。尚、常人であればブートジュロキアの湯気だけでも瞳に当てられる刺激に涙を溢すこと請け合いだ。
サッチのゴーサインに、フォーク片手に皿から流水のように豪快にエースの口の中に吸い込まれていく。
アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ。
「もごっ!もぐっ!んぐもぐふぁっふふぉ、んぷふぉ!!」
「はいはい、ありがとな。分かったからよく噛め、床に出てっから」
あっという間に、頬を栗鼠か何かのように一杯に膨らませ、美味いだの最高だの、コックにとっての褒め言葉が飛ぶが同時に食材まで飛ばす様子にはサッチから額への小突きが飛ぶ。
今日の飲み部屋はこの料理人の自室である。
その権限は充分にあった。
「で、だ。それで、具体的には…何を相談してェんだ?」
「そーよ、そこよ。同じ船って言ったってな?そりゃ、オヤジがナースに手を出したら問答無用で叩き潰す…って言ってるのは、無理矢理乱暴すんなよって話だぜ?」
皆の"父親"である船長、エドワード・ニューゲートが船にナースを乗せると決めた時、船の皆にそう宣言したのはどちらかと言うと戒めの為ではなかった。
人は皆、老いる。
勿論、世の中は広い。
例外はあったとしても、この船に乗る人間は皆、人とは生まれ、育ち、老いて死んでいくという自然の流れと摂理を惜しむことはあれ厭う者達ではなかった。世界最強の男と呼ばれる父親が、病と共存する道を選んだ際に医療スタッフの育成を願ったのは他でもない船員たちではあるが、参加の海賊団の船長達がそれに呼応する形で既に動いていた。
いま、この船に乗るナース達と船医は大体が戦争孤児など、恵まれない星の下に子供時代を送って来ていた。白ひげの旗を掲げる島で、それでも何らかの理由で医療の道を志した彼、彼女達はそれぞれを管轄する傘下の海賊達に攫われて来たのではない。無理に徴収されて来たのではない。
医療の面で船に乗れる者は居ないか、と島々で聞いたが早いか全員が自ら志願して来たのだ。
白ひげの船に乗ることが、どれほどの覚悟が必要かを理解した上で皆が皆、荒くれ者の海賊がたじろぐ程の勢いで。
─── 私達は、船長さんが手を差し出してくれなければとっくに死んでいたわ…!!
─── 今こそ恩を返す時なんだ、他の奴らに任せていられるか!!おれが船に乗る!!
─── わたしも乗ります!お願いです…乗せてください、救ってくれた人を救いたい。わたし、その為に生きてきたと思うんです。
─── えぇ、海賊にだってなりますわ。赤ん坊だった自分を守って下さった…自分にとっては頼りにならない神なんかよりずっと拝みたい存在よ。
─── 自分の身くらい自分で守ります。船に乗せて下さい!!
─── 船に乗せて、あの人を守らせて…!!
「ほら、ナースのベリルだって六番隊のレオンと付き合ってるだろ。それに、マチルダは十二番隊のリュウと…別に船内恋愛御法度って訳じゃねェからな?」
船に乗っていれば、いやでもある程度の修羅場を切り抜ける能力は出てくる。何だかんだと船に乗った可愛い妹分達に、護身術を教えようと思い付く船員達は後を絶たない。それを迎合するものだから船に乗るナース達は、結果としてそんじょそこらの破落戸達では太刀打ち出来ない猛者に仕上がるのだが。
「ん……、とさ」
「ちょっと遠距離恋愛になっけど、前に船に乗ってたホワイティ・ベイとラクヨウだって……、んん?」
「ちょっとそこら辺と話し方が違うって言うか…、」
もじ、もじ、とフォークを置いて指先を合わせ始めるエースにサッチとマルコは顔を見合わせる。
「まさか……、」
「おいおい!!人妻はダメだぜ、流石…に、いでェ!!」
「アホンダラはちょっと黙ってろい。エース、どこの隊だ?」
失楽園、良くないと妙にシリアスな表情を向ける男の後頭部に思い切りグーにした拳が落とされる。床にそのままたん瘤を抱えて蹲るサッチよりも、もじりもじりと仄かに発火しながら指先を彷徨わせる弟分の───燃やす床板の方が百倍心配である。
「どこの隊って…、あっ!あっ!おまえ…まさか!!」
「……じゅ、十五番隊の…、ネッド…」
「やっぱりな、男か」
躊躇う理由がようやく分かっては、そんなことで悩んでいたのかと今度はサッチが大笑いしながらエースの肩を叩く番だった。
「何だよ、二番隊かと思ったぜ!!それなら分かるけどな、好きなら付き合う。好きじゃないなら、断るでよくね?」
「なっ…お、男だぜ…!?おれも、あっちも、男!!」
「わーってるよ、そんなもん。船に乗ってる妹分は全員把握してるっての」
サッチの快活な笑いにエースはたじろぐが、そもそもこの船になっている"娘"達の人数は圧倒的に少ない。ナース達を除けば百人居るか居ないか程度だ。この船に乗るような女傑達は女扱いされる事を大抵は酷く嫌うがホワイティ・ベイのように女として強く、女として強かな海賊であるのは確かだ。そして、男は父親以外大抵が馬鹿でどうしようもないと上手く抑えてくれるおかげで、結局男達は女に精神的に甘えたり励まされたりもする。差別や区別ではなく、絶対的に違う存在だからこそ補い合えるのである。
「好きになる感情に、男も女も関係ねェだろ。大切なのはハート!!ここの部分だ」
「……まぁ、そうだな。だが、エースくらいの年頃ならその手の話は…若ェのとしないのかい?そうしたら、野郎同士のあれこれも少しは話に出てくるだろ」
ドンッと自分の胸を叩くサッチに対して、胡座に頬杖を突いてマルコは酒瓶に直接口を付けて傾ける。
エースがこの船に加わった経緯は多少特殊であれど、一度家族となった弟分達を年嵩の海賊達がこれでもかと可愛がっているのは周知のことだ。何せ、最初は触れれば切れるナイフのような男だった(決して触れて切られるような馬鹿は居なかったとしても)のが、慣れてみれば実にぎこちなく不器用な若者だったのだ。
他所はともかく、白ひげという男を慕って集う男達は皆、昔気質の海賊根性が染み付いている。可愛く思わない訳がない。
それが原因で他の若い連中と差をつけたつもりはマルコを始めとして古参の船員達にはなかったが、大抵男という生き物はそういう多少品に欠ける話題で盛り上がり親しくなるものである。まさかと思うが、エースが煙たがられているのかと片眉を挙げるマルコに対して当の本人は酷く言いづらそうに唇を曲げるようだった。
「……うまく言えねェけど、女は…ちょっと苦手だ」
「男の方が好みだったか?」
「違ェよ!!女の方が好きだって、柔らかくて…ふわふわしてるし、良い匂いだし…、」
「分かる、分かるぜ、女ってのはそこが良いんだよな〜、野郎とはそもそもの作りが違う」
マルコも、サッチも、島に上がれば女を買いに行く事がある。肌の甘さに、ひととき耽るのは息抜きに近い。エースも、娼館に遊びに行くことがあるだろうと思っての事だったが、段々と赤みを帯びていた頬に影が差していくのには、若者を前にどちらともなくそれ以上の言葉は引き取っていた。
「おれ…女から惚れてるって言われた事なら何度かあるんだ。多分、好きになった経験も…ある。けど、もっとぼんやりした…何となく他のやつより特別だなって感情だったし、それがちゃんとした形にはならなかったし」
エースが口を開いて語り出す代わりに、サッチはしばらく耳を傾けることに専念するらしい。空いた皿を片しては、最近気に入りだという東の海の酒を開けていく。
「先日……って言っても、半月位前にちょっと良いですかって呼ばれて、おれてっきりストライカーの話だと思ったんだ」
「あぁ、改良するって言ってたねい…ネッドに頼んでたのか」
「うん。で、ちゃんとその話もして、かなり操作もしやすくなってよ。けど、途中で黙り込んでジッとおれの顔を見るんだ。何だよって言ったら…、まず謝られたんだ」
「謝られた?」
言葉を掬い上げて、次に繋げてやらなくては止まってしまいそうになる弟分の話に、マルコは敢えて肴に指を伸ばしながらついでのように先を促す。
「……聞いても困るだろうし、迷惑だと思うけど、ずっと前から好きだったって…おれ、最初意味がわかんなくて…、」
「あぁ」
「分かっても、どうしたら良いのか分からなくて、思わず逃げちまって…」
「あぁ…」
悪手ではあるが、面食らうのも無理はない。家族と思っていた仲間から、好意とはいえ思いもよらない熱情を向けれていたとなれば驚くのは当然である。その場で、うまく場を取り繕うには経験がなさすぎた。
「ストライカー取りに行けてねェんだ、だから……けど、顔見たらどうなるか分かんねェし、その好きって意味が仲間としてのを超えてるって言うなら、おれ」
「まぁまぁ、落ち着けエース。ほら」
そこまで聞き役に徹していたサッチの手が、ナイフで切り分けた分厚い燻製肉をエースの口元にぶら下げる。それを口ですぐに受け取る力があるのだから、よし、とサッチの男振りの良い唇はすぐに持ち上がる。
元々、こうした話題を振られるのはマルコよりサッチの方が慣れていた。
「エースが悩んでること、一旦はっきりさせようぜ?気持ちに応えられないから悩んでる?それとも、家族だと思ってたヤツに愛を告げられて動揺してる?男から告白されたことに対する嫌悪感があるなら───、」
「嫌悪感はねェよ!」
「じゃあ、なに?驚いた?」
今度はマルコがまた酒瓶を傾けながら思うのだ。
自分が果たして、ここでこの話題をサッチの口から聞いていて良いのだろうか、と。
「お、驚いた……だって、男と男って、普通…恋愛しねェだろ?ロッサみたいに心が女で元々が男…って訳でもなさそうだし、」
「それ本人の前で言うなよ、絶対」
エースの首が上下にぶんぶんぶんと勢い良く振られる。何も、興味本位や嘲笑の為の例えではない。よって服料理長ヤブサカに何十年越しの片想いを募らせ最近漸く前進したロッサが絡みに行くことはない───とも言い切れない。エースのようなタイプには嬉々として絡んでいく女だ。
「……だからって嫌とかじゃないんだ、ただ全然考えてなかったってだけで…、だから驚いて…、……悪ィことしちまったなって…、どうしたら良かったんだって、これからどうするのが、いちばんネッドを傷付けないでいられるんだって…頭の中が堂々巡りして集中出来ないんだ」
すっかり肩を落とし、項垂れるエースにサッチは笑う。無言で酒を煽るマルコと視線が合ったが、任せておけと片目を瞑られたので、マルコは遠慮なく任せることにした。
そういうことなら、マルコの言葉は若干綺麗事で終わってしまうだろう。好都合だった。
「( 人の気も知らないで…ねェ… )」
この状態で、マルコがエースに言えるわけがない。
今、お前が相談してるオッサンに、横のオッサンは数十年言えない想いを燻らせてるんだ、なんてのはとっくに自分の中でも笑い話だ。
「なぁエース、それがまず前提として間違ってんだよ。傷付かない恋愛なんてもんはねェ。甘くてふわふわしてて幸せなもんなんかは恋じゃない。小さな女の子までだ、そんな夢見て良いのは。苦しいわ痛いわ辛いわで、身を引き裂かれそうになるのが本性だぜ」
至って同感である。
サッチの言葉に、エースの瞳が落ちそうな程、見開かれる。
「.そ…そんなことないだろ!!だったら、」
「だったら?」
「皆しねェだろ!そんなもんだったら」
「バァカ、恋ってのはしたくてするもんじゃねーの。ちょっとそこら辺の娼館でネエチャン達に聞いてみな?可愛らしさで酒代タダになるくらい、今のは爆弾発言だ」
明らかに動揺を始める弟分の姿がまた妙に挙動不審に落ち着かないものだから、サッチはその肩を抱いて引き寄せる。
「だからよ、ネッドのやつも謝ってきたんだろ?それは、お前をエース。応えて欲しいから告白したんじゃねェ」
「………?」
「黙って自分の中に隠しておくにはどうにも辛くなっちまったから、言葉にすることでお前にも辛さを分け与えちまうぜ、っていう…まぁ、ごめんって言いながらぶん殴るのと一緒だな」
サッチの掌に乱されて、エースの黒い癖毛が益々波打つ。雀斑の散った鼻先はよく通っていて、男の目から見ても確かに精悍な顔付きをしている。女達からの評判は、マルコは船医なだけあってナース達と関わりも深い分今までに耳にタコが出来る程聞いてはいたが、男が男に惚れ込むなんてことは海の世界ではザラにあることだった。
自分が特殊な、訳じゃない。
「だからよ、傷付けるって言っても、ゆっくり時間を掛けてじわじわ切り広げられるのと、一瞬で切り捨てられるのとどっちが良い?それとも、応えられるって言うなら…、」
「おれは女の方が好きだよ。良いやつだと思うけど…そっか、そうだよな。同じ気持ちには応えられない訳だし…」
「ん」
「─── おれ、よく考える。考えて、……ちゃんと気持ちを言葉にしてくるよ、それが向かい合うって、受け止めたって…ことだよな?」
「飲み込みが早いエースくんに乾杯だ!!マルコもほら」
「あぁ、納得して解決したんなら良かった」
サッチが掲げるジョッキに、皆がそれぞれ酒瓶やらグラスやらを高らかに突き合わせる。
カチーン!!
澄んだ良い音が響く。エースが思い悩んでいるのが、自分の感情についてならばまだ悩むこともあっただろうが、既に答えが出ていたから当然の結論ではあった。
現金に骨付きの肉に齧り付くエースが、ようやく安堵としたと後ろ手を突く。
「いや〜、よかった、やっぱり二人に聞いて正解だったぜ…!!」
「頼れる男代表だもんな、おれ達!!」
「お前はともかく、おれはな」
「冷たいこと言うなよ、マルコ〜〜」
肩を組んで、引き寄せようとするサッチを体幹をもってマルコは突っぱねる。根っこでもその場に生えたように動じないその姿に感心しながらも、エースは直ぐにグラスを片手に胡座に姿勢を崩し直していた。
「っていうか、あれだろ。サッチの初恋の人って、男なんだろ?」
「ブハッ……!!」
今度、酒をサッチの顔面に吹き出したのはマルコの方だった。
口から吐き出されたアルコールに一瞬面食らった様な顔をしながらも、サッチは片手で濡れた顔面を噴き上げて雫を指先で払う。
「うわ、マルコきたねェ…!!ちょ、なに、何々、どこ情報だよ、エースくんよォ〜!?」
「誰から聞いたんだったかな〜、んぁ〜〜覚えてねェ!!けど、初恋のヒトってのを忘れない為に薔薇の墨を入れたんじゃねェの?あるだろ、腰に」
「色々と違うからな!?ごっちゃ混ぜになってんな…誰情報よ、ハルタとかじゃねェだろうな…、いいか、エース。おれの淡い初恋はだな、女だ!女!美人で気の強い女で、確かに男勝りだったけど、そんなこと言ったら顔面蹴り飛ばしてくるような怖いネェチャンだぞ!」
「そ、そりゃ怖ェェ……」
サッチの力説にエースが両手で腕を摩って背筋を縮こませる。古今東西、強い女というのは恐怖と尊敬の対象だ。風呂上がりで自慢のリーゼントを崩していたとは言え、流していた栗色の髪が流石に前へと垂れ下がって来てしまうのにマルコは立ち上がる。
狙ってはいないが、タイミングとしては最適だった。
「顔拭く…あれだ、雑巾もらってきてやるよい」
「雑巾やめて、清潔な布巾にして!!」
「あったらな」
ぎゃあぎゃあと喚く言葉を部屋の扉の向こうに押し留める。サッチは、そういう恋をしてきたのだろう。未だにしている。
果たして、恋というものの死は果たしていつ訪れるのか。
詩的な言葉はマルコの本来大雑把な性には合わない。歯が浮く気がして、気持ちが悪い。
「殺せるものなら、ぶっ殺してやりてェよい……今でもな」
息の根を止めるよりも、難しいことがこの世にはあり過ぎる。背を丸めてポケットに両手を突っ込んで、マルコの小さなぼやきは誰に聞かれるでもなく薄暗い廊下の隅の方にでも溶けていくのだった。
✳︎
「へぇ〜、革命軍の!」
「お前も新聞読めよ、ちゃんとな。まぁ、ちっとばかり歳は上だが、今でも…いや、昔よりずっと魅力的な女性だぜ」
「けど、サッチよりそんなに上ってんなら結構な婆さ…イデェェーーッ!!?」
「ばぁか、いいかエース?女の年齢ってのはなぁ、ダイヤモンドのカラット数と同じなんだよ。歳を重ねるごとに魅力が出てくんの、使い込んだ革と一緒」
間違っても婆さんなんて気安く呼ぶべきではない、と盛大に摘み上げられた頬を抑えながら、エースは唇を尖らせる。
元々、エースに覇気の"使い方"を教えたのはサッチだった。
✳︎
白ひげとの一方的な死闘の末に、ボロ雑巾の様にのされた威勢だけの若者。捨てるには惜しいと船長が出した捕囚の指示に、我先にと拾い上げたのがサッチだった。
それを船員達から知らされた時のエースの顔と言ったら、丁度サッチお手製の"バッファロー・ウィング"に齧り付いたまま余りにも高速で瞬きを繰り返すものだから、その味付けの辛さに生意気な若者の舌でもやられてしまったのかと危ぶむ程だった。
─── 何で…?あの男は、おれを押し付けられただけじゃなかったのか?
─── 違ぇよ〜、サッチ隊長は一番最初に船から飛び降りてったんだよ。放っておかなかったんだよなぁ。
─── そうそう、サッチ隊長いっつも言ってたもんな。メラメラの実があれば、どこでもあったかい飯を安全に食わせてやれるって。
─── ………何だよ、それ。理由になってねぇだろ。
─── あの人料理馬鹿だもん、理由になるだろ〜。な、だからお前さんも意地張らねェで、さっさとオヤジの息子になっちまえよ。歓迎するぜ〜?
─── うるせェ!誰がなるか!次こそ、おれが白ひげの首を取ってやる…見てろよ…!
─── ギャハハハ!!威勢が良いな、やってみろ。新しい弟が欲しかったんだよ。
─── ……弟だって?
─── 家族になりゃ、弟だろ?オイオイお前、まさか女だったか?
─── ………馬鹿にしやがって…!!
随分と甘く見られていた。
あれだけの人間がいて、自分一人がこそこそと隠れ住んでいたのは片目を瞑って船員達が見逃したからに過ぎない。コック達の目を盗んで、涎の出る様な食事に背を向け大急ぎでパンとハムの塊を抱えて行く大きな鼠を野放しにしたのも料理長であるサッチで。
甘く見てもらっていた。
それが、真綿で首を絞められているような不快だった。
不快で、怖かった。
無条件で与えられる幸福なんてもの、愛情なんてもの。そんな風に与えられたら、一体どうしたら良いのかなんて知らなかった。
─── ……何で…、何でオヤジって呼ぶんだよ…。血なんか繋がってねェじゃん。縁もない、ただ海で出逢っただけの…男を何で軽々しく父親だなんて呼べるんだよ…。
鍋を覗き込みながら、男は笑う。
厨房はこの男の戦場で、城で。
温かな湯気は、幸せな食卓の香りと直結していて。
船縁を壊した罰としての"火力番"は、船長暗殺への罰としても余りに軽過ぎていて。
─── バカだな、エース。お前真面目ちゃんかァ?考え過ぎなんだよ、もっと軽く生きろ。軽〜く!!
─── アンタが軽く生き過ぎなんだろ!
腹を抱えて笑う男の過去を一度だけ聞いたことがある。自分達を船に引き上げたのは、四番隊だった。誰か、と言われて、自分達が、と直ぐに動くようなフットワークの軽い男の過去は淡々と事実だけ語られて行くのが逆に胸を締め付けられる様で。
家族を誰よりも愛していた子供が、家族を殺したと思い込んだ両手で料理を続けられるのが不思議で堪らなかった。
だから、知りたかった。
─── 血より濃いもんがあるだろ、血筋、血統、それが何だってんだ。このグレービーソースの方がよっぽど濃いっての。血より濃いものを証明したいなら、オヤジの背中追ってりゃいずれか分かるさ。
─── …わからなかったら?
─── 少なくとも欠片は感じ取ってんじゃねェの?お前の中で、何かしらが芽生えてきてる。その芽を見ないフリして摘み取るか、育んでみるかは…結局はお前次第だろ。
─── …………!!
─── なぁエース。おれは別にお前の過去については興味ねェよ。だが、実際におれは血より濃いものを知ってるし…船に乗るなら、お前はおれ達の弟になる。可愛い弟がおれ達には増える。それだけなんだ…難しく考えんなよ……あ、もうちょい弱火で。
─── ……ばっかじゃねぇの、…ほんと…。なんなんだよ…。
─── エースく〜ん?弱火で良いのよ、弱火で〜。
その日、料理長のサッチが鍋を焦がしたというのは大いに皆の笑いを誘うこととなったが、その鍋を丁寧にタワシで擦る本人が一番大笑いをしていたし、顔に泡をくっつけながら他の食器を不器用ながら洗って行く姿が増えた頃には空に夕焼けを迎えようと、嗤う者は一人もいなかった。
✳︎
皆がマルコを、長男坊として慕う。一番隊隊長という、順位や格付けではないが絶対的な一番をそう呼ぶ。エースもマルコとは同じ隊長格として五分の盃を交わす仲ではあっても、頼れる兄貴分として頼ってしまう部分が大きい。
「じゃあ、腰の薔薇もデマなのか…なんだよ、皆しておれを揶揄いやがって…!!」
「まぁ、これに関しちゃ全くのデマって訳でもねェかな…、けど、どっから出てくんのかねェ、そんな話」
「……そーなのか?何が、どういう?どんなデマじゃないって?」
「サッチさまにも忘れられない恋ってもんがあるんだよ。食い付きすごいなァ?」
一度足裏を合わせて脱力しかけたエースが、またもや身を乗り出して上体を寄せる仕草にサッチは片手で軽々と押し返しながらも、視線を僅かに巡らせる。
サッチは酒には酔わない。
厳密には酔おうと思えば酔えるが、酔おうと思わなければ酔わないある意味で特殊な体質と言って良かった。だから、その時エースになら何となく言っても良いか、と思ってしまったのも決して酔いのせいではなく。二人にならば相談出来ると殊勝なことを言う弟に、恋というものは恐ろしくとも───、決して絶望だけに彩られた怪物ではないと教えたかったのかもしれない。
「これはおれの恋の墓標だが、捨て切れないから刻んだんだ。オヤジの印と一緒に、それこそ墓場まで持って行く」
「へぇぇ〜〜……、墓標って…相手は死んじまった…の、です…あー…そうじゃなくて」
「言ってからまずいって顔するなよ、死んでないない。ピンピンしてる。おれが息の根止めなきゃいけなかったのは、おれの気持ちの方だけだよ」
サッチの言葉にエースは背中を丸めて頬杖を突く。
「……殺さなきゃならなかったのか?」
「あぁ」
「相手に嫌われてた?」
「嫌われちゃいなかったが、……秘密だぜ?おれはソイツのことを親友だと思ってたから、おれが許せなかったんだ。親友を失うくらいなら、後から来た感情を捨てた方が良かったの」
「…親友……、」
「あ……、これマルコには言うなよ?」
言葉として分かる意味の持つ、本当の意味を探そうと無意識に黙り込んだエースの顔が火中で弾けた栗のようにランプを調節する男へと向けられる。その頬は、まさかと薄く薔薇色に染まっていた。
「まっ…マル、親友…ッまさ…!!」
「いや〜〜、お前も彫ってもらったのマルコだろ?アイツ、感情の捨て場とオヤジの誇りを一緒に彫るんじゃねェ……って一度大喧嘩になったのよ」
あの時は大変だったと笑うサッチに、エースは樽を巻き込み床へと盛大にずっこける。それはもう、勝手な想像をしてしまった自分の勘違いが拍車を掛けるように盛大に。
「戻ってみりゃあ…そろそろお開きかい?」
「エースが脚に回って来ちまったな、おーい、立てるか?お兄様達が、部屋まで引き摺って行ってやるか?」
「風邪引く海域でもねェだろ、放っとけ……ほら、サッチ、雑巾」
「おっ、ありがとな……って、おれ布巾って言ったよな?なぁ、言ったよな!?」
サッチは、エースにとってはこの船で一番最初の家族だった。一番最初の、兄だった。マルコを始めとして、白ひげ、他の船員達と家族になれたのも、みなサッチが始まりだった。
「サッ……、」
サッチが笑って口元に人差し指を立てるから、エースは掛けようとした言葉を何とか上手く飲み込んだ。器用な男が出来ないと言うなら、そうなんだろう。
それでも、エースにはまだ未知の感情がいつかサッチに笑い掛けてくれれば。
絶望の箱の中に、自分が最後に見つけたのが希望なら、恋の中にも見つけられる筈だった。
「なぁ、ところで何でおれ達二人だったの?」
「マルコは…頼りになるし、ナース達にモテモテだし、実際一番モテるから…、」
「医務室に居る時間が長ェんだから、当然だろ。ンな恨めしそうな顔で見るんじゃねェよ、サッチ」
「おれは?おれもモテるから!?だよな、エース!!」
重なる影は、三つある。
「……サッチは、男にモテっから…、」
「…………」
「涙拭けよい、サッチ」
七つの海の子守唄
白いくじらに導かれ、船はすすむよ東へ西へ
ひとりぼっちの子供達、ひとり、ふたりと集まって
いつしか、気付いてとびあがる。
夕暮れ伸びてく影法師、海を渡るよ北へ南へ
もう、"ひとつ"は"ひとり"じゃない。
TO BE CONTINUED_