A tempo「"漆黒 "!!!」
「"鳳殲火 "!!!」
ドンッッ……!!
「……───!!!」
カトラスとカトラスが切り結べば、その衝撃は互いの掌から肩に伝わっていく。実力者同士の衝突であれば、さらに空気の爆発は大気を震わせ波紋状に広がり、周囲の人間を巻き込む。
その筈、だった。
反射的に備えようと両腕を眼前で十字に交差させていたビアンカは、いつまでも訪れない衝撃に身を低くしていた姿勢から固く閉じていた瞳をゆっくりと瞼同士を引き剥がす様に開き、絶句した。
「ここまでにしておけ、サッチ…マルコ……、兄弟喧嘩はお預けだ。───おまえらァ!!帆を畳め!キャプスタンを回せ!!」
衝撃を打ち消すには、衝撃しかない。
サッチとマルコの斬撃の合間で、傷一つ負わず片手を宙で握り締めていた白ひげの掌が、メインマストよりも強く太く響く吠えられ高く掲げられる。
途端、一斉に甲板上の船員達は放心するビアンカを一人残して走り出していた。百人を超える男達の足踏みの音は砲弾の雨の渦中に居るに等しい。肩を跳ね上げ、周囲を見渡す迷子を片手で担ぎ上げるのはブラックバカラローズの香り纏わせる赤い唇の主だった。
「なん、な、……ッロッサさん!?なに、何が起きて」
「何ボーッとしてるの、ミルクガール!!聞いたでしょ、すぐ縮帆!回頭準備!!」
「あ、嵐ですか…?でも、そんな気配は…、」
呟いた瞬間に、ビアンカのこぼれ落ちるほど開いた瞳の表面に青白い放電が走る。船が海の中に潜ってしまったかのように、一面が青しかない世界で閃光に包まれる。
マストの先端、帆桁から溢れたその光の名前位は知っている。
海の荒くれ者達は光を鮮やかな焔に例え、こう呼ぶのだ。
「セント…あぁ!!"セントエルモの火"…ッ!!」
「分かってるなら、さっさとその重たいお尻あげて砲門しめてらっしゃい!!雷が来るわ!!」
泡を食ったビアンカの両手も、既に船員達の波に揉まれて綱に飛びついていた。
─── ザパァァァァンッッ!!!
「っすまねェオヤジ!!気付くべきだった!」
偉大なる航路の気候というのは、およそ他の海での常識は一切通用しない。それも、新世界ともなれば人々がそれまでの海を楽園と呼ぶ意味を痛感するだろう。もっとも、痛感する身体と命が残っているのであればの話であるが。
青白く燃えるセント・エルモの炎自体は船を焼く事はない。だが、正体は強力な電場によって放電する光だ。間髪入れずに連れて来た雷雲が嵐を呼ぶまで数分も掛からない。横殴りの暴雨が船を襲い始める。濡れた甲板に足を取られぬ様、先にラットラインに手を掛けていたのはマルコだった。
「新世界の海はころころと変わりやがる、ただの嵐ならともかく、こればっかりは仕方がねェ…振り落とされるんじゃねェぞ、野郎ども!!」
ドンッ……!!!
船長の愛刀である薙刀"むら雲切"の石突が甲板を叩けば、応!!と船員達の腹底からの声が響き渡る。海で本当に恐ろしいのは、出交わす敵でも海軍でも幽霊船の類でもない。自然、それが一番の脅威だった。
「ちっ!!……おい、サッチ!!いつまで固まってやがる、お前も帆を……サッチ…?」
稲妻が次々と暗雲に根を張り、空を裂く。
頬を叩く雨、耳を突ん裂く雷鳴の連なり。
海に振り落とされてなるものか、マルコが濡れて滑る綱を握り締めながら落とした青く染まった視界の中央で、広がっていく赤を捉えた瞬間。
「───サッチ!!!」
鉤爪に変化した脚は、床板へと既に食い込む様に着地していた。
✳︎
「居ねェじゃねェんだよ、居ねェじゃ〜〜〜!!!」
砦の中の、館からの怒号と机を派手に叩く音に、屋根で憩いの時を過ごしていた鳥達が羽を散らして飛び去って行く。
「お頭〜〜!!やっぱり、マズいんじゃニーっすか?」
「知らねェよ!事実だろ、事実!!いつもの誤魔化しじゃねェんだ、寝てたガキが……竜巻に攫われてったなんて誰が信じる!おとぎ話じゃねェんだぞ!」
「信じるにしても、信じないにしても、お頭……とりあえず、手分けして探すだけ探してみましょうよ」
ここは東の海、とある村裏、とある山───。
咥え煙草の体格に恵まれた女は、苛立ち紛れに頭を掻く。大勢の仲間達を一家として抱える彼女の生業は山賊だ。窃盗、略奪、恐喝、日々の糧を得る為であれば凡そ悪事という悪事に手を染めることを厭わない人間を底辺と呼ぶならば、正しく底辺も底辺、どん底の存在である。
その猛者の中の猛者である彼女が、皺の深く刻まれた口元を歪めれば腰ほどの背丈しかない部下の一人と、まるでトサカの様に髪を立てた部下とが顔を見合わせる。特に長身の男の言葉は良識のある意見の様でもあったが、実際は当然そんな事はない。良識で飯は食えないし、良心があるならば山賊稼業などにここまでどっぷりと浸かっていない。えっさ、ほいさと木材を抱えて背後を通過する男達も全員が山賊だ。トンカン、トンカン!とリズミカルな金槌の音が響く。
突発的な台風が、局所的にアジトを襲撃する。
それだけでも苛立たしい出来事だというのに、子供の、しかも産んでもいないどころか血縁でもない子供が行方不明ともなれば白目を剥きたくもなる。
「ガープの野郎…!!!そもそも、山賊にガキを預ける海軍がどこに居るってんだ!?」
「ガープですよ」
「ガープの野郎ディスねェ」
「そうだよ!その通りだよ!!」
ビシッ!!と首領の手刀が宙を切る。
「けど、お頭〜〜次、ガープが見に来る時に、あのガキが居なくなっティたら…」
「今度はアジトが半壊どころか、全壊しちまうよなァ?」
「だよな〜〜?」
「チッ……本当に疫病神だよ、あのガキは!!大体、"鬼の子"だよ!?野垂れ死ねたァ言わないが!世界政府に知られりゃ、どのみちあたしらは破滅さ!」
「まーまーお頭、落ち着いて落ち着いて」
もくもくと煙草からの煙が上がって行く。勢いよく吸い込み、吐いての深呼吸が溜息に代わったせいでザッと赤い炎が広がっては灰となり床を焦がすようだった。
「仕方がねェ…探すよ、お前たち!!」
まさかとは思うが、女であるから子供を預けたとなれば心外だった。生憎、世間一般の母親達が備えるような母性なんてものが芽生えた試しは一度もない。あくまで、ただの厄介者として温かく柔らかく、泣き叫ぶ生き物を無理矢理抱えさせられたに過ぎない。子守唄なんてものも、寝る前のお話なんてものも存在しない。大体、こっちが知らずに育って生きてきたのだ。
「武器は持って来な!!グレイ・ターミナルに落っこってないことを祈るんだね…面倒かけやがって…!」
✳︎
─── またね、サッチ……。
またね、って誰なんだ?
サッチは夢の中で寝返りを打つ。何だか懐かしい声でもあったし、初めて聞く声の様な気もしていた。幼い子供の声の様でいて、若い女の声だったかもしれないし、もしかしたら老いた老人の声だったかもしれない。
「………でも、どこかで……、……どこかで聞いた気が……、ひっ!!」
「よぉ、起きたかクソガキ──」
起き抜け一番、顔面の真横に落とされた義足の先───棍棒のような一撃にサッチの額から汗が吹き出す。隻眼、義足の医師の名前はヴァレリー。この船の古株であり、非戦闘員ではあるものの、気に入らない患者への扱いとくればそこらへんの海賊なら泣きながら逃げ去っていく程度には恐ろしい。そんな男である。
「おは、っお、おはようございます、ヴァレリー先生!!っつうか、今まさに永眠しそうだったんスけど!」
「若ェヤツは、無駄に血の気があるからバカなんだ──、少しくらい抜いてやった方が皆の為になるだろうよ──」
「ははは……ご冗談……」
サッチがこの船に乗った歳、つまりは今から十年以上前から世話になっているだけあって、サッチは今でもその足長族の船医に頭が上がらない。まさか、腕に繋がれている点滴の他に血を抜かれているのではないか、ゾッとしながら愛想笑いをして気付く。
点滴?
ヴァレリー先生?
っつうことは、つまり。
「……ここ、医務室か…」
「それ以外にどこに見えるってんだ」
「……そうっスよねぇ…あれ、おれ、確か……オヤジに引き剥がされて…、」
盛大な舌打ちを受けながら、漸く身を起こす。右肩に感じた窮屈な違和感に視線をやって、反射的に動かした五指が正常に意思通り動くことに、ドッと心臓に負荷が掛かったのを感じていた。
「………ッ……う、動く……よ、良かったァ〜〜!!」
「普段から無駄な怪我をこさえて帰還するヤツが、ほざきやがる──」
「いやもう、本当にそれはすんません、マジで。手当ありがとうございました……、んでもって…、……これ、"誰"って言うか、"何"が?」
「……」
ヴァレリーの片眉が上がる。
もちろん、手当てをしたのが誰かなどと寝惚けて言っているのではない。この、肩自体を損傷した理由を知りたかった。
「……傷を付けられたお前が分からなけりゃ、誰が分かるってんだ──?えぇ?」
「マジでそれなんすけど…、……拳突き合わせてたのは…マルコ…っす。けど、アイツの技じゃない。喰らえば分かります、絶対に……、」
「じゃあ、何だったんだ──?あのセント・エルモの大嵐の中で、甲板上の鉤にでも当たりに言ったってのか──?」
「"セント・エルモの火"……!!え、いつ、いつっすか!!」
「何だ──、何も覚えちゃいねぇのか──…、」
「す、すんません……、オヤジがおれ達を止めたのは覚えてるんです。そこからが、なんか曖昧で…、」
やれやれと溜息を吐かれてサッチはベッドの上で慌てて居住まいを正し直す。
「(患者服───、点滴、……、)」
指先で顎をなぞる。
毎朝丁寧に、何があろうと整える髭の荒れ具合と言ったら頬まで今にも攻め上がる様だった。これでも拘りがあるのだ。頰まで覆う髭も中々悪くはないが、顎に沿うようにカーブさせていなくては、いまいち決まらない。
「三…いや、四日…?」
「順を追って説明してやる。ありがたく思え──」
つまり、こういう事だった。
─── サッチ!!サッチ、おい、サッチ!!
─── 妙だな……おい、マルコ!!サッチを引っ込めておけ!!
サッチが、血を流して倒れたと伝わった周囲の人間がまず最初に取ったのは自分達が一番衝撃から身を守れる体勢を取ることだった。新入りや、若手を庇うようにして古株や熟練の船員達がそれぞれの得意とする覇気の色に意識を集中させる。見聞色の覇気を、武装色の覇気を、それぞれが纏う意志の力の先に偉大なる父親の覇気が繋がれば、嵐ですら一瞬は凪いだ様でもあった。
─── 何もねェ…何もねェが、確かに何かがあったな…。おまえらァァ!!気ィ抜くんじゃねェぞ!!
─── ……、……!!?……、オヤジ…オヤジ……!!
サッチを焔で包み込むマルコの、雨に打たれる顔がどのようなものであったか。古参の仲間達は、マルコの名誉の為にそれぞれが口にしないと決めていた。一番隊隊長である男が、まだ二十代の若造だったとしても未曾有の事態を前に、決して隊員達の前でしてはならない表情だったのだから。
「マルコの炎から……治癒の力が…消えた……?」
「ふぅ……、あぁ──そうだ──、四日お前がぐうすか寝てる間に、随分と馬鹿なことをやって試そうとしたが──、不死鳥の姿にもなれる、空も飛べる、だが──再生の炎だけがまるっきり、役に立たねェ──」
「そんっ……あでででぇ〜〜ッッ!!!」
「骨までイッてはねェが、大分派手な怪我作ってんだ。腕振り回しゃ、痛むに決まってんだろ馬鹿──」
右腕を抑えて濁音混じりに悶絶するサッチに、ヴァレリーは小指の先で眼帯の下を───おそらくはぽっかりと空いた眼窩をグリグリと引っ掻いて手元のカルテに目を落とす。
「本当に心覚えがねェのか──?三本……"三本傷"の切創だ──、肉の抉れ方から考えりゃ直刃じゃあねェ…、鉤状だ。まるで、鉤爪みてぇにな──」
「鉤爪……ま、マルコじゃねェよ!?マルコじゃない、それだけは分かる…!」
「つったってオメェ、そもそも覚えてねぇじゃねぇか」
「それでも…!」
サッチは、顎を突き出しため息を吐く船医にビシッと掌を突き立てる。
確かに、状況からだけ考えるなら十割十部マルコからの傷と考えるのが普通だろう。
だとしてもサッチは胸を張って断言出来る。
誇れることではないかもしれないから、やはり張らないとしても、絶対に違う。
「マルコじゃない……!!」
「………別に、ひょっこだなんて一言も言ってねェだろ──、それにアイツの鉤爪で裂かれたなんて馬鹿だったら、今頃おれの独断でおまえは魚の餌だ──」
「魚の餌」
船医のウィットに富んだジョークでないことは、確かだ。
「もっとも──、マルコがおまえの傷をすぐに治そうとしたが、何度焔で包んでも治らねェ──、甲板でやられてちゃ邪魔だ──、おれが両方とも杖でぶん殴って船室内に放り込んでやらなきゃ、今頃おまえらは仲良く魚の餌だったな」
「さっきから頭のたん瘤痛ェなって思ってたけど、その時のかよ!!」
「なんか文句が──?」
「全然。全っっっ然ありません、ありがとうございます、ありがとうございます」
本当にヴァレリーが非戦闘員なのは、この船の七不思議に加えても良いだろう。サッチは寝台の上に胡座をかいて座り直すと、顎に手をやり暫く───、と言っても数秒の後に自分に繋がれる管を指先で突っついていた。
「ヴァレリー先生、おれ行きます。起きたこと…目が覚めたことも、どういう事だったのか、分かってることをオヤジに説明しないといけねェし。それに、」
親友が心配だと呟いた青年に、老いた船医の言葉は簡潔だった。
「着替えならそっちの篭の中に入ってる」
✳︎
「お世話になりました!!」
バキィンッッ!!
「へぶん!!い、いったぁぁぁあ……!!」
「っっわーーー!!ビアンカちゃん!どうした、顔打ったのか!!平気か!?」
「へっ……平気か平気じゃないかと聞かれれば、平気じゃない…でふけど、けど、サッチさん!目が覚めたんですね…よかった……!!」
大きく開いた医務室の扉、その向こうで上がった悲鳴と蹲り顔を抑える妹分の姿があれば何が起きたかは明白である。大慌てで同じく屈み込むサッチに、まだ額で良かったとみるみるうちに膨れ上がっていく額中心を摩りながら何とか笑みを浮かべられたのだから、ビアンカも大分仲間思いな女だった。
「女の子の顔に怪我させちまったのおれ!?早く、医務室で手当を…!!」
「っつあ〜〜!!痛いことには痛いですが、ここは痛み分けにしましょうサッチさん…、扉を急に開けないこと、扉はぼさっとしてないでさっさと開けること…お互いに気を付ければ平和ですよ…あいててて」
「いや、そりゃそうなんだけど……せめて待っててくれ、ヴァレリー先生!氷!氷!」
氷と叫べば氷が飛んでくるのか!!とは船医の言だったが、実際に投げ付けられた氷嚢がサッチの脳天にクリーンヒットしたのだからあながち間違いとは言えないだろう。普段ならば片手で受け止められるそれも、妹分の気配も察知できなかった。
それだけ、サッチ自身の心が動揺している証拠だった。
「っててて…ヴァレリー先生、マジで容赦ねェ……」
「なんかケガ増やしてすみません……」
「いや、丁度良かった。なぁ、ビアンカちゃん、オヤジにおれは今から報告に行く。その前にちょっとだけ聞かせてくれねぇか?」
「な、何をです?」
ようやく医務室から出て来られたのか、と声を掛けてくれる仲間達に片手を挙げ返しつつも、通路の隅でサッチは身構えるビアンカに眉尻を下げていた。
「……能力者が能力を…失うってのは…、」
「サッチさん?」
ビアンカの薄茶色の瞳がパチパチと瞬かれる。
体格が様々な船員達にとって、行き来する通路はかなり広めに取られている。だからといって、こそこそと端で話していればそれなりに目立つだろう。あくまで、世間話のように切り出したかったのは山々だったが、マルコの治癒の力が失せたというのは余りに戦力として大きな問題だった。
─── だからよ、サッチ───、余計なこと言うんじゃねぇぞ──、いつ戻るか分からねぇが…まだだ、まだオヤジさんが伝えてねェなら、言うべき時じゃねぇ…。
─── ……けど、ヴァレリー先生!"大変"なことだろ。アイツは、一個隊の任される隊長だ……、その隊長格が…、
─── オヤジさんが伝えてねェっつったろ──?おまえはここの船長か?え?それとも、隊長格か?違うだろう──、おめぇ…船長の一度示したコンパスを横から曲げようってのか──?
─── ただの平隊員で…、平料理人です……。…でも、おれは、
─── "兄弟分"だって言うなら尚更方角も決まってねェのに、横波を立てるな。大体なァ、おまえじゃなくてもここには数百人の兄弟が乗ってらァ──。
言い返せなかった。
正論にぶつけるほど、激昂した感情の向け先が自分自身、分かっている訳でもない。
「……ッッ悪ぃ、忘れて?頭打ったから変なこと聞いちまったわ」
緘口令は敷かれていない。
それでも、伝達されていない事柄を信頼する妹分とはいえ匂わせてどうなるのか。
冷静になろうとしても、頭は混乱し続けている。
「見舞いに来てくれたんだろ、ありがとな。おれ、オヤジに報告してくるから───、」
「サッチさん、……サッチ"兄"さん、こっち向いて」
「え?」
この混乱に、妹分を巻き込むわけにはいかないと口早に場を後にしようとするサッチの掌をビアンカはしっかりと掴んでいた。茶色い瞳、茶色い髪、かつて失った幼い妹にそっくりな顔の、大切な妹分の顔が険しく寄せられたかと思えば───、
「───!!───、──────、───!?」
「…………」
「──────!……、……───…?」
サッチの耳から、聴覚が奪われていた。
鼓膜で捉えていた、全ての音が吸い込まれる感覚は滅多に経験するものではない。どんな状況でも、この船にあって全くの無音ということはなかった。雪の降り積もる夜もしんしんと湿った氷の中に吸い込まれていく音の余韻があった。厨房の食材を切る音、炒める音、調理器具の触れ合う音、指示を飛ばす音、その喧騒。帆に受けた風の音、舷側に寄せて飛沫を上げる波の音。
海鳥の声。
大きさの違う足音。
笑い、囁き、誰とも知れない調子外れの鼻歌、ラットラインの軋み、モップが行き来する忙しなさの中にあって、何もかもが遠くなる。不思議と、この感覚は何だか覚えがあった。
海に潜ていく感覚とは、違う。
戦場を駆け抜ける一瞬とも、違う。
馬鈴薯を追い掛けて手を伸ばした、不思議と全ての音が消えコマ送りになるあの一瞬だ。あの感覚だ。
「──────、わたし、あります。一時的な物でしたけど、船に乗ってすぐ……、」
自分の呼吸音さえ聞こえないのに、ビアンカの声だけは真っ直ぐに鼓膜を震わせる。ビアンカのジャミジャミの実の能力は、電波を電波によって妨害することに特化しているが、まさか音まで打ち消せるとは五年の付き合いでも把握していなかった。
眉間に寄せられた深い皺が、それだけ集中しなければ使えない技だとサッチの唇は自然真一文字に結ばれる。
話すべき時があるなら、聞くべき時がある。
「……人生は蝋燭ですよね、灯して、芯が尽きれば終わり…、……わたしは、自分の人生はロード、マクガイ船長に灯してもらったと思ってます。自分の生き方を、自分で決められるって……それって、限られた人間しか本当はできないんです、わたしを選べる場所に置いてくれたあの方の為に生きたい……!だから、海に出たんです、くだらないかもしれない、馬鹿みたいに単純かもしれない…!」
ビアンカの掌が彼女のクラバットの上に置かれる。それは、海賊旗に向けての宣誓に等しい物だった。
「お役に立ちたかった、マクガイ船長の盾になって儚く散る……そしてマクガイ船長の中で生き続ける…独り善がりのヒロイズムの夢を何度も見ました。いつ、この命を恩着せがましく捨てられるか、そんなことばかり考えていたから罰が当たったんですね。あるとき、この能力が何一つ使えなくなっていた……、」
「……そんなことあったのか…、」
いつしか、サッチの喉奥から声帯を震わせた声は、サッチ自身の耳にも入るようになっていた。能力が弱まったのが、ビアンカの能力としての限界なのかそれともビアンカ自身の意思で弱めていったのか。それすら、サッチにとっては今どうでも良いことだった。
「サッチさんが来る前でしたから───、……能力がなければわたしはただの女です、役に立てない、盾にはなれない、この能力だって本当は戦闘向きじゃない。どうにか方向を捻じ曲げて少しは使える程度になったとしても、……その捻じ曲げた方向でどうにか、役に立てる力の使い方を失ってしまって、わたし……、わたし……、船に乗り続けて良いのか悪いのかさえ分からなくなってしまった、そんな時に……、マクガイ船長は仰ってくれたんです」
緩やかな癖っ毛は出会った頃から変わらない。少女はいつから女に変わるのだろう。サッチがまだまだ幼いと思い込んでいただけで、両の足で今ここに立つ乙女は荒波をいくつも共に超えてきたというのに。
「乗り続けたいなら、乗ればいい。降りたければ降りれば良い。ただ───船に乗せたのは、ビアンカという少女で、能力者が一人ではない……と、これ、綺麗事だと思います?船の上で金槌の子供一人分に裂かれる費用、労力、見返りになる労働、領海を預かる一海賊団としての在り方……全部ひっくるめて、プラスになるか、マイナスになるか。……ねぇ、すごいマイナスですよね!!でも、……わたし馬鹿だからよく分かんないけど……、」
「……何でそこで泣くかなぁ……ビアンカちゃん……、」
「しゃらくさいんですよォ……、だって馬鹿なりに察するに、ま、マルコ隊長のこと何か言ってんなら…あの人今…謹慎処分中です……、」
「……まじで?」
「まじです。でも、それはオヤジさんがマルコ隊長を人から遠ざけてるように感じる…、わたしみたいに察しているひともいる…から、」
赤く充血した瞳からぼったぼったと涙を落とすうら若き乙女に、慌てて拭う布を探すサッチだったがその努力は途中できっぱりと掌で制される。
「この涙は、ある意味で熱くなり過ぎたわたしを冷やす為の…ラジエーター、いえ冷却水そのものですので……!ご心配なく!!」
「……逞しくなったね、ビアンカちゃん」
マクガイ船長を信じている、それだけに縋るだけの少女ではない。サッチの目の前に立つのは、自分の律し方を既に理解し、野心を抱いた女海賊の一人だった。
「だから、サッチさんが色々と考えてることのなかで…一番…"どの"マルコ隊長が大切なのかを考えてあげて下さいね…?」
「……ん」
「……じゃあ、ほら、情けない顔しちゃ駄目ですよ。サッチさんの顔じゃ洒落にならないんですし」
「それどういう意味〜?」
「そのままの意味です!!踏ん張りどころですよ、サッチさん!」
グッと拳を出すビアンカに、サッチは拳を突き返す。妹分であり、背中を任せられる仲間からの助言は良い意味で横面を張り飛ばしてくれた。
「───あと、わたしは能力使いすぎてフラフラなので〜〜、出来れば〜〜、部屋に運んで欲しいなんて〜〜、……あ、無理かも〜…、」
「ちょっビアンカちゃんー!?出てる、鼻血出てる……!!」
そのまま真横に倒れる身体を横抱きに、一体一日に何回来るつもりかと医務室からしゃがれた怒鳴り声が響いたのは言うまでもない。
✳︎
空は晴天、憎たらしい程の晴天だった。
穏やかな海は嵐を忘れさせるほど静かなものだったが、いっそのこと大荒れに荒れた海のままだったなら波の中に一瞬で板切れなんてものを海底深くまで引き込み何事もなかったように飲み込んでくれただろう。
鳥達が旋回している。白い海鳥ではなく、陸の上のハイエナと同じ役割を持つ鳥達は待っている。彼らは、生きている人間に近寄っていく程、馬鹿ではない。そんなものを嘴で啄んでも美味くはない。
本当に一番良いのは、生き絶えてから数日経ってよく腐敗した肉だが、そうも言っていられない。海の生き物達に横取りされては面白くない。彼らにとって、板切れの正体が家屋の一部分だろうと、柔らかな白い肌がじりじりと日に焼かれていこうと、布地から覗く唇がひび割れ乾いていようと、知ったことではないのだ。
ザザァン……、ザザァン……
ただ、もし一つ知っておくことがあったなら浮かれて時を待つのを早めたかもしれない。その布を被った赤ん坊が、母親の体内で二十ヶ月もの常人離れした長い間留まり続けた異端児だということを。母親の意志の力に、呼応する意志の力が産まれる前から備わっていたことを。
人より一年は多く成長して生まれて来たに等しかった。それを、豪運と呼ぶのか悪運と呼ぶのか。かの海賊王を時代の英雄と呼ぶか、世紀の大罪人と呼ぶのかと同じくらい海鳥にはどうでも良いことだったのだ。
ザザァ…、ザザ……、
少し前まで握って、離して、と布地を掴んでいた手元から力が抜けていく。そうだ、それで良い。そもそも動いていたのが不思議なくらいにか弱い生き物だ、食いではあまりないかもしれないが、とにかく柔らかいことに掛けては文句がないだろう。そろそろ頃合いだと、歓喜の声を挙げかけた瞬間だった。
ザッパァァ…ン!!!───…コポ…コポポ……、バシャッ!!
波の音ではなかった。
何かが遠くで入水する音だ、泡を巻き込み一度沈んだものが浮き上がる音、そして、凄まじい勢いでこちらに水中から進んでくる気配。鳥達はけたたましく叫んで羽をばたつかせる、威嚇するべきか、それともさっさと死にかけの赤ん坊の甘い目玉を抉り取ってやるべきか。
ゾクッ………!!!!
次の瞬間、鳥達は羽ばたきを忘れていた。
忘れさせられた、という方が正しい。
それは、覇気などというものではなかった。
彼らの理の中で、第一に優先されるべきは種の存続であり、生存である。
その理が全身の細胞に警告していた。
今すぐ、この場から立ち去らなくてはならない。明らかな、混じり気のない敵意が水面下にあった。殺意ではない、憎悪ではない。ただ、自分達は獲物を啄むどころか下降の意志を見せただけで海に沈むだろう。
"その未来が見えた"群れを率いる一羽が大きな旋回を始めてからの撤退は実に早かった。彼らの理に叶っていた退避に、迷いはなかった。
「……プハッ……!!おい、おい…!!……まだ赤ん坊じゃねぇか……、」
水面に顔を出した男の右腕はまだ上がらない。
長い髪が垂れ下がり、顔面を半分覆っていたが覗く緑の瞳は睫毛の先から滴る海水を払うこともなく幼児に向けられる。
左手だけで泳いだ距離、実に数十km───、板切れの上にその片腕を乗り出すと、布切れ越しの小さな身体が落ちないように指先を伸ばしていた。極度の脱水症状に、唇はすぐに歪められる。
だが、細くはあったが割れた唇から辛うじて呼吸は確認出来た。
頭の中でフラッシュバックする光景を振り払うように、サッチは少年の黒い髪を撫で続ける。青い鳥の羽ばたきが聞こえるようになるまで、ずっと。
「……大丈夫だからな、大丈夫……、今すぐに助けが来るからよ……負けんじゃねぇぞ、負けるんじゃ……!」
A tempo
TO BE CONTINUED_