バレンタイン 兵助は今まで、毎年バレンタインにチョコを作っていた。
最初のきっかけは些細なもので、どうしてか妹が一緒に作って欲しがった。料理を作るのは嫌いではなかった。提示された作り方も簡単なものだった。だから一緒に作った。それが最初の数年のきっかけ。
次のきっかけは、毎年貰ってくれる人がいたこと。せっかく作ってみたチョコだからと、気軽さだけで渡した兵助のことを、男のくせに、なんてからかうことなく貰ってくれた。それどころか、えっすごい作ったの!? 固めるだけ? そんな難しいこと言われても分からない! えっ、妹ちゃんのもくれるの!? えっこんなに貰ったの初めて! すごい! 嬉しい! 美味しい! と、いささか大袈裟ながらも素直に喜んで、褒めてくれる相手だったのも大きい。妹がわざわざ一緒に作ろうという誘いがなくなってからも、ついつい兵助が作ってしまったのは、その反応が一役買ったと思う。今年も貰ってくれるだろう、喜んでくれるのだろうという確信を持てて、実際にその通りだった。
そうして、それは徐々に、どんな小さな関わりだろうと繋がりたいと思う、そんなよこしまなきっかけになっていった。
そうやって、ほぼ十年間、兵助は八左ヱ門にチョコをあげ続けた。
けれど、今年は作らなかった。
小さな面倒が積み重なった結果、それはとうとうやめるきっかけになってしまった。
大学に進学したこと。ありがたくも、一人暮らしをさせてもらえることになった。料理を作る機会は増えたけれど、面倒にはなってしまった。忙しくもなった。お金もあまりない。手作りするほどの家電や器具も十分ではない。そもそも八左ヱ門に会う機会も、随分と減ってしまった。去年までの兵助なら、作らない理由をあげつらうよりも、作って渡して『ありがとう!』と言ってもらえる関わりを優先して、面倒さも投げ打って作っていた。
でも、そうしなかった。
去年のバレンタインの記憶は、兵助の中では新鮮に残っている。そしてそれは良い意味ではなくて、まるで鍋肌に引っ付いてジリジリと焦げてしまったチョコのように、なんだか苦い。
毎年のようにあげているチョコを、変わらずあげた。八左ヱ門は喜んだ。受験なのに作ったのかよー、すごいなぁ、ありがとう、って試験前のピリピリとした緊張がほぐれたように八左ヱ門は笑ってて、習慣だから、気晴らしだし、俺も甘いの食べたくなったからついでだよ、なんて兵助は言いながら、何よりもの気晴らしと頑張れる理由をもらっていた。
「他の子もみんなそうなのかなぁ。実は今年、今までで一番もらった! 卒業効果? モテ期来たのかもしれない。見てよ見てよ、すごい嬉しい!!」
バニラエッセンスは甘い匂いなのに、舐めると苦い。そんな食い違う違和感が、兵助の中に浮かぶ。兵助は笑って、本当だ、たくさんある、かわいい、美味しそう、作るのが難しそう、女の子ってすごいなぁ、って朗らかに話せているのに、胸の中は随分と苦くて重い。八左ヱ門の素直な反応が嬉しかった。ありがたかった。なのに、それを面白くないなんて思う日が来ると思わなかった。兵助の中の、毎年のお決まりの八左ヱ門の反応で貰えていた甘く溶ける気持ちが、どうしたことかぐつぐつに煮詰められて、焦げていく。苦い。なんだろう。八左ヱ門、嬉しそう。喜んでいる。たくさんチョコを貰えるのって嬉しいことなんだな。義理じゃないの? でも、凝ったラッピングは、綺麗で可愛いから、どうなんだろう。八左ヱ門、嬉しいんだ。なんだか、今までにないくらい嬉しそうだ。毎年見てきたから分かる。毎年あげていたから分かる。
兵助が十年間あげ続けたチョコは、特別な物にはなれなかったのだ。
卒業して、進学して、会う機会は減って、それでも八左ヱ門と会うことは出来る。ただ前のように熱心に八左ヱ門の話に相槌を打って、話を聞き出すことはしなくなった。己のよこしまな心の目指す所の浅ましさと叶わなさを知って、けれど強欲さも消えなければ、いつその口から兵助の知らない女子の名が出てきて、訳知り顔で隣に陣取る姿は想像しただけでも嫌なものだった。知らないのが、一番良いのだろう、と思うようになった。諦めというにはまだ見苦しい思いは残っていたけれど、大人になったというにも寂しさは生々しい。一人で暮らして、新しい友達と過ごして、それでも一人で過ごす時間の中で、去年までの一つ一つを思い出してはそれに浸って、また寂しくなる。恋人になりたいとまでは思っていなかったつもりだけど、そうなれたら多分嬉しいだろうな、という淡い期待くらいは抱いてしまっていたようだ。少なくとも一番の友達くらいでいたいと言う現実的な願いだって、距離が離れてしまえば、十数年の関係だって薄くなってしまう。最後に会ったのは、正月の帰省。初詣に行って遊んだ。変わりのない八左ヱ門の息災は、兵助を安堵させたし、不安を長引かせるだけにも思えた。また会おうな、連絡する、とは言ったものの、あっという間に二月になって、連絡は結局取っていない。バレンタインの華やかな広告を見て、売っているものを見て、あげようかな、習慣だしな、そうしたら会えるしな、と思っては、八左ヱ門の喜ぶ笑顔が『今まで一番もらった!』というセリフ付きで浮かぶ。それだけでまた焦げ付いた苦さを感じて、もういいか、って思った。
「どうしてこんな寒波の日に、外出なんてしたんだよ」
兵助が呆れながら言ってしまうと、反省はしているのだろう八左ヱ門がシュンと落ち込みながら「ごめん」と言う。大寒気が流れてくるという予報通りの空は、深々と雪が降り続ける。雪にあまり強くないこの地方は、電車は止まるか遅延している。こういう時、徒歩で通える距離の一人暮らしのありがたさが身に染みるけれど、そもそも学校は後期テストもひと段落して早い春休みにも入っていた。昨日買い出しも終えて、今日は引きこもろうとした目論見は、八左ヱ門からの連絡で予定が変わる。
電車が止まって帰れないから、泊めて、という連絡に、ちょっと嬉しくなった自分が嫌になった。
「こっちの方で予定あったの?」
八左ヱ門が兵助の家に来るのは初めてではない。でも、一人暮らしを始めた当初にだけ物珍しそうに来ただけだ。専有施設が広いのが売りの一つでもある兵助の大学は、そのメリット故に田舎にあるのがデメリットでもある。よっぽど実家のが都会だったので、この辺に留まっていた八左ヱ門の予定はなんだったのか、聞いてはみたが、「まぁ、」と八左ヱ門にしては珍しく歯切れ悪く濁される。恋心があるからこそ引っ掛かる態度も、けれど突っ込んでしまうのは己の首を絞めるようにも思えて、「そっか」と兵助も話を終わらした。
「適当に座ってて。冷えたし、なんか食べようか。なんもないけど」
「あ、うん、ごめん」
「コーヒーがいい? 紅茶がいい? 牛乳もあるよ」
「いや、気遣わなくていいよ! 俺、押しかけちゃったようなもんだし!」
「でも俺も寒いし。紅茶でいいなら、一緒に作っちゃうけど」
「じゃあ、……ありがとう」
「あ、これあった!! 豆腐バーって知ってる!? 最近たくさん売ってるんだけど、これ美味しいよ!! 軽食だけど、良かったら食べてよ!!」
「豆腐かー……、あ、」
「ん? 食べたいのあった?」
「ガトーショコラ……」
「あ、そうそう、すごいよね。スイーツものもあるんだよ! 俺としてはおかず系のが好きだけど、これはこれで甘いもの食べたい気持ちと豆腐を食べたい気持ちを両方満たしてくれるんだ! ……あ、でもやっぱりだめ。これ以外にして」
「え!? なんで!?」
「だってこれ、そういえば貰ったやつだし」
学食は安いから、たまにお世話になる。ついつい兵助が選ぶのは豆腐料理だし、定番のもの以外にも、意外とたくさんある創作メニューにも豆腐ものがあるとそれを選んでいれば、自然と兵助の嗜好も気付かれて、気の良い友人たちは豆腐関連のものを差し入れてくれるようになる。バレンタインが近く、たまたま見つけて、売り切れることもある人気の品だからと貰ったそれを食べるのは、礼儀として当然だった。それなのに、それまでシュンとして、借りてきた猫のような大人しさを見せていた八左ヱ門が、牙を剥くようにムッとした顔になった。
「貰い物? バレンタインだから? ……ふーん、なんか、大学も一人暮らしも、兵助、楽しんでるな」
「そうかなぁ、でもこれくれたの男だよ。甘いもの好きなんだってさ。あ、でも太ってきたからって、そう、だから一緒に買ってくれたんだよ、確か」
「ふーーーーーーーーーーん……、え、でも、俺これ食べたい」
「え? ダメだって」
「なんで!?」
「え、そんなに食べたいの?」
「食べたい!」
「……それなら、まぁ……いいけど、」
貰ったもの故に、感想くらいは、と思ったが、まぁ特別なものでもなし、人気の品とはいえどこかしらでは買えるものだ。ムキになって離さない八左ヱ門と争う気にもなれずに渡してしまうと、どうしたものか、虫の居所の悪そうだった八左ヱ門はまたシュンとした顔に戻ってしまう。忙しなく感情が移ろう八左ヱ門の珍しい態度に、兵助も距離の取り方や接し方が分からなくなってきて、なんだかまた数十年間の関係が薄れているのを実感する。思えば、制服姿か、部屋着兼ジャージで過ごす八左ヱ門の姿ばかり見ていたから、私服姿は見慣れないし、ラフな格好だけどだらしなさはない着こなしに気づいた瞬間、大人だなぁ、って思ってしまう。今日だって一体そんな格好をしてどんな予定だったんだろうか。バレンタインの今日、わざわざ聞くのは自分の首を絞めるようで嫌だった。決して大荷物ではない鞄の中に、特別な一つのチョコでも入っていることを兵助は知ったら、この寒空の中、八左ヱ門を追い出してしまいたいと思う浅ましさはまだあるから。だから、兵助の最善は、やはり興味のないふりをして、紅茶を淹れにお湯を沸かすことだろうと腰を上げた。
「え、え、……兵助、怒った?」
「怒らないよ。どうぞ。俺、また食べられるし。紅茶淹れるから待ってて」
「え、……違うって、兵助、違う、待ってよ」
「本当にいいって。食べたい人が食べてくれる方が豆腐も喜ぶし」
「へ、兵助は、バレンタイン、くれないの!?」
ぐっ、と引っ張られた勢いで、膝が抜けた。尻から転んでしまった兵助だけど、八左ヱ門はそれどころではないように、あー、とか、うー、とか呻きながら、髪をぐしゃぐしゃにさせて、落ち着きのない興奮ぶりで顔を赤く染めていきながら、しどろもどろと言葉を紡いでいく。
「そりゃ、貰うばっかりで、それが当然とか、そんな風に思ってないけど、でも、ちゃんとお返ししてたし、毎年くれてたんだからもう習慣じゃん。風物詩じゃん。もらえるかな、って思うの、お、思っても仕方ないじゃん。も、貰えないなら、一言くらい、あってもいいじゃん、なんか、……理由、教えてくれても、いいじゃん、それなら、俺からあげたっていいんだし、習慣がなくなるって、寂しいよ、え、寂しいよな、寂しいんだよ、寂しいんだって」
「え、あ? ごめん……?」
「ば、バレンタインだけじゃないし!! 誕生日だってさ! メールだけでさ! こっち来てくれたっていいじゃん! ジュース一杯なり、そんなんでいいのにさ! また今度会えた時、とかじゃないし!! その日一緒に過ごすことが大事じゃん!! それなのに結局正月にそういえばプレゼント、くらいでさ! 嬉しいけどさ!! でもそうじゃないじゃん! そうじゃなくてさぁ!!」
「え、え、ごめ、」
「仕方ないよ! 兵助が行きたい大学に行って一人暮らしするのは良いことだし、兵助の人生だし!! でもさ、仕方ないじゃん!! 今までみたいに、一丁目と三丁目のご近所さんじゃなくなってさ、学校で簡単に会えて、連絡するより直接話す方が早くて、何かしたいって思ったら簡単に誘える距離じゃなくなったんだからさ!! それならさ、努力しないとじゃん!! 理由探して会いに行かないとだろ!! 誘わないとだろ!! 習慣があるからって期待したのに、無駄になって、そんなの、寂しいじゃん! もっとさ、友達でいる努力しないとじゃん!! したいんだよ!! 俺は!!」
「お、おう、」
「おうじゃない!! 雑な相槌打つなよ!! もっと興味持てよ!! もっと俺のことに興味持てよ!! 持ってよ!! 持ってくんないと、俺も話せないじゃん!! 俺ばっかり話してうざいって思われるの嫌なんだって!! 今感じたことを、今、毎日って話したい!! 誰だよ豆腐バーくれる友達って! 俺だってあげるよ!! 彼女とかいないよな、って話の節々で察するのだって嫌なんだって!! 実は半年前に恋人が出来てとか言われるのも嫌だ!! 兵助が誘ってくれないと、俺だって連絡できないじゃん!! バランスとか考えちゃうじゃん!! 今日だって、呆れてただろ!! こんな寒い日にって!! 関係ないじゃん! だってバレンタインじゃん!! 毎年くれてたの兵助じゃん!! じゃあ、貰いに来るじゃん、来ないといけないじゃん、誕生日はそれでさ、来てくれなかったのなら、ちゃんと、来ないとだろ。本当は言い訳なんてしなくても兵助に会いに来たいよ。友達でいたいんだよ、……友達、……友達、ではいたいから、……なら、来ないとじゃん! 努力しないとじゃん!!」
「う、うん、そうだ、そうだよね」
「……え? え? 俺、なんか変なこと言ってる? 間違ってる? 引いた? え? 呆れた? き、嫌いになった?」
「そんなことはないけど……」
「……理由なんて良いから、俺、兵助に会いたかったんだよ……」
「……そっか」
「……ごめん」
「……チョコ、欲しかった?」
尋ねると、ギュッと唇を結んだ八左ヱ門は、こくんと頷いて、そのまま項垂れてしまった。窓の向こうは、未だ深々と雪が降っていて、まだまだ止みそうにない。兵助だって、イベント毎のそれぞれで、毎度一応考えてはいた。会いに行こうかな、連絡しようかな。その度に距離というハードルに躊躇い、薄れていく関係を目の当たりにするのが怖くて二の足を踏んでは、会わなかった。今日なんて大雪というお誂えの理由があるから、尚更だった。
「……会いに来てくれたんだ」
何もないだろうこの地方への用事、突然の連絡、しおらしい態度。深掘りしなかった八左ヱ門の行動の辻褄が一気に合わさっていく。
兵助は、今、感じている。甘く溶けるような、この気持ち。
「……こ、ココア、作ろう!」
「え?」
「あの、良いココアあるんだ。鉄分と亜鉛と栄養あるから、良いよって言われて。でも、ココア、あんまり飲む習慣なくて、本当にたまにしか飲まないんだ」
「ココア……?」
「えっと、あの、美味しいココアの作り方、知ってる? 粉から練るんだ、丁寧だけど面倒だから、やったことなくて、美味しいって言われてもいいかなって思っちゃってたんだけど、あの、ね、つ、作ってみよう」
「……いい、けど、」
「チョコは、ないんだ。でも外寒いし、危ないし。それに、実家の時みたいに、器具ないし、オーブンもちゃんとしたのじゃないから、チョコ、作れなくて。でも、八左ヱ門は、いる。ほ、ほ、ほほ欲しい、って言ってくれるなら、あ、あ、あげたい! 俺も、あげたい! ずっとそう思ってたから、俺もあげたい!!」
「……本当?」
「……俺も、努力する、したい。しないと。八左ヱ門と、その、友達、……友達でいる、努力、する」
「……うん、して」
項垂れていた八左ヱ門が、顔をあげる。ホッとした顔で笑う「嬉しい」と言っているその表情だけで、兵助がずっと求めていたものが簡単に手に入ってしまったように、甘ったる気持ちで浮かれていく。
嬉しいのは俺の方だ。ホッとしたのは俺の方だ。
寂しかったのは、俺だってそうだったから。
「……嘘、やっぱ、友達じゃない」
「え!?」
「好き」
特別な一つになりたいと思った。
その願いをほとんど手に入れたような気がした。何もあげてはないのに、自分の方が貰っているこの感覚。あとちょっと、言葉にすれば、全部、全部、うまくいくような。
その感覚を確かなものにするために飛び出た言葉の答えは、八左ヱ門の表情がもう語っていた。