恋仲の人 スッと耳の縁を撫でられた。
その指が耳の形をなぞるようにゆったりと、じっくりと動きだす。
優しげな動きであるはずなのに、兵助はゾッと身震いが走った。同時に、どこか納得した気持ちになりながら、視線だけを向ける。そいつは冗談に見せた軽い笑顔をしているつもりなのだろう、が、兵助には歪んだ無粋な表情にしか見えない。ゆっくりとした瞬きを経て、さらにじっと見つめてやれば、それは無言の問いになる。それを彼も察したのだろう、もごもごともどかしく動いた唇から言葉が出てくる。
「兵助は、抱かれてる側?」
やはりどこか納得した心地になる。
忍の卵の五年生、まだまだ未熟な身であれど、得手不得手の領域は身に付き、得意分野は極めていく時期である。彼においては、第三者の目で見る分にはいつだって冷静沈着で、心も読めないくらいに落ち着いている様は、ひどく冷酷に思えたくらいであった。
そんな彼の仮面すら剥いで、冗談に昇華しようと歪み笑いをし、もどかしく言葉にするその思いたるや、だから兵助は、納得するとともに感じるのはとんでもない苛立ちであった。
「どうして?」
「だって、八左ヱ門と念友なんだろう」
「そうだね」
恥じらいもなく頷いた兵助の言葉を聞き、驚き、そうして翳る表情にすらいちいちと怒りが積もっていく。意識して隠す余裕すらないくせに、それでも口元ばかりは笑みに見せた歪みを作る素振りがあるのもまた拍車を掛けていく。わざわざ報告するまでもない友好関係の外れにいる彼らにも、隠していなければ伝わるのも道理であろう。それを腑抜けと笑われるならともかく、傷付いた心を隠して下卑た揶揄をすることが、兵助を忌々しくさせるのだ。
「……、」
つ、と耳だけを撫でる仕草ばかりは優しくも、気味が悪かった。
苛立ちはどうしてと隠しきれないまま、兵助は彼を値踏みするように見つめ続ける。穴でも空いてしまえば良いと願うほどに見つめても、一向に合わさらない視線が、またも煩わしく、不快で、けれど滑稽で。
兵助は思った。臆病者、と。
いいや、ただの軟弱者だ。
——だから、兵助は値踏みをやめた。
たったちょっと肩を押して乗り上げれば、簡単に組み伏せる。そんは無防備なのか、腑抜けなのか、どちらであろうがその全てが兵助の逆鱗に触れていく。見下ろした彼の驚いた顔に、己の心はひどく鬱陶しげに冷ややかになっていく。
「……俺を、抱きたいの?」
目を丸くした後に、ひどく狼狽して泣きそうな彼の顔が見える。普段の鉄仮面は、この夜にはもう見る影もない。
ここにいるのは、ただ恋心一つ素直に告げられない、情けなく卑しい男である。
兵助は笑ったけれども、それこそよっぽど歪んでいた。
「それとも、抱かれたい?」
入るよ、と声を掛けたら、おうー、と間延びした声だけで、すでに安らいでしまう。
戸を開けたら、机に向かう八左ヱ門がこちらを見ずに机に視線を落としたまま、それでも「よっ」と手だけは上げて挨拶をしてくれる。ざっかけのない挨拶の、それでも八左ヱ門らしい振る舞いに、兵助の刺々しい心が優しく撫でられていくのを感じる。
「何してるの? 勉強?」
「うん。難しい課題出された。みんなそれぞれ違うから一緒にもできなくてさぁ……」
「そっか」
「とりあえず区切りつくまではやるかーって思って」
「そう……」
八左ヱ門は兵助のことを、どこでも勝手にお寛ぎに、という気兼ねのないお客様だと思っているのだろうが、他事に気を取られている八左ヱ門を前に、兵助は腰を落ち着けるところを少し迷う。迷った後に、結局八左ヱ門の背中にピッタリとくっつくように座って、凭れた。
ん? と八左ヱ門が、反応した。
「どうした?」
「今日冷えるから」
「そうかぁ? あったかい方だよ」
「冷えるよ」
「そっかぁ……、もちょっと待っててな」
うん、と答える。八左ヱ門は集中を乱されても、またすぐに課題に向き合っているし、兵助とて邪魔をする気は毛頭もない。八左ヱ門の暖かい体温が、ピッタリ凭れた皮膚からゆっくりと沁みて、兵助の刺々しい心はさらにまろく撫でられていくから、兵助だってこのままで構わない。チクチクと肌を刺す八左ヱ門の髷だって愛おしい。
そう思うのに、兵助の右耳だけが、その暖かさから弾き出されたようにずっと、ずっと刺々しく冷えている。
「……どうした?」
無意識に耳を擦り付けていたことに、八左ヱ門にそう聞かれてから気づいた。既に手を止めて課題を他所に兵助の挙動を気にする八左ヱ門の態度に、何でもないと言う段階は越したのだろう、と分かると、申し訳なさよりも、さもしくも安堵してしまう。
兵助は、一人の男の名を告げた。
八左ヱ門は、静かに、それでも得心がいったように、ああ、と応答した。気付かれていたのか、と分かるとまた情けなくなる。
「なんかされた?」
態度や動作ではなく、たったちょっとの口調と声色と言葉の速さ、滲み出る雰囲気からなんとなく八左ヱ門の落ち着きのなさを感じるのは、己の欲心からだろうか。チラリと見上げた時に目が合う八左ヱ門は、まっすぐに兵助を捉えている。今更邪魔も何もないだろう、と兵助はピッタリと凭れていた背中から、八左ヱ門のあぐらをかいていた膝の内に入る。こんな無遠慮な行為も、八左ヱ門が喜ぶのを知っている。知っていることを、知られている。だから、八左ヱ門も、優しい眼差しになって兵助の肌を撫でていく。
「……されたっていうか、したっていうか」
「ふうん?」
「八左ヱ門との閨の話されたから、じゃあ、抱いてやろうかって押し倒した」
「おっ、かっこいい」
「尻尾巻いて、逃げられたよ」
「それはそれは」
ご愁傷様。と、八左ヱ門のその言葉は、兵助か、または誰に向けたものだろう。どちらでも良いと思った。
とにもかくもこの夜に、熟してしまったのだろう赤い実は、もう弾けて落ちたのだ。
「……怒った?」
「なんで?」
「……俺だったら、良い気しないから。八左ヱ門が、誰かを冗談でも夜伽に誘うの、やだ」
「うーん、怒りはしないけど、……それより、兵助のが怒ってる?」
「……八左ヱ門にじゃない」
「そう?」
「そう」
緩く笑う唇に、齧り付いた。くっつけてしまうと、自分でも、何がどうして、抑えの効かない何かを堪えていたのを感じて、いつになくみっともなく食らいついてしまう。いつもどこか察しの良い八左ヱ門が、そんな兵助を咎めるでも驚くでもなく、刺々した心を撫で付けるように、優しく抱え込み、好きにさせてくれる。刺々とささくれ立ち、忌々しさが喚く心が緩やかに撫でられて、安らぎに変わっていく。
「ん、いい顔になった」
「……俺は、八左ヱ門のなのに」
「兵助はモテるからなぁ」
「でも、俺に好きって言ったのは八左ヱ門だけだ」
「……」
「耳、触られた。それだけなのに、俺は嫌な奴で、そんな名残にすら、腹が立ってる」
「……俺もだよ」
ぐらりと傾く身体にそのまま身を任せる。顔を左に傾けて右耳を晒すと、波長がピッタリと合うように、右耳にぬめる舌付きが走る。触れるか触れないかの優しい指つきは悍ましいのに、荒々しい舌つきは愛しく安堵するものになる。だって、俺は八左ヱ門のだ。
彼らは、遠巻きに視線を投げかけては、もどかしく言葉を言い探り、妙な雰囲気を纏わりつかしていた。
己が鈍いことを、兵助はちゃんと知っている。人の動作や雰囲気で、心情を察する判断は鈍く、気に掛けない自覚はある。故に気を配るべきところでは注意を払わないといけないと意識する。ならば、気を配らなくても良い場面においては、どうして悟る必要があるのだろうか。
兵助が彼らと接した時に、ふと感じた言葉に出来ない何かは、もしかしたら八左ヱ門が抱え、言葉にして、閨の中で向けてくれるものと同じだったのかもしれない。そうと分かったところで、忌々しく苛立ちを感じるのは、その違和感をあらわに、直接好きと伝えてきたのは八左ヱ門ただ一人だけだった。
気持ちに違わぬ行動を伝えてくれたのも、八左ヱ門だけだった。
だから、兵助は八左ヱ門のものになった。
「好き」
うん、俺も、と嬉しそうな声がした。冷えた肌が剥かれても、温かい手が触れれば熱さが巡る。
愛を伝える難しさを、兵助は知らない。だけど、愛を伝えてくれた恋しさは知っている。
だから、受け入れてなんてやるものか。
兵助の恋仲の人は、八左ヱ門なのだ。