あの世とこの世の狭間に(夏メイ) 三月二十日、月曜日。日曜日と祝日の合間、申し訳程度に設けられた平日に仕事以外の予定があるのは幸運なことかもしれない。
朝方の電車はがらんとしていて、下りの電車であることを差し引いても明らかに人が少ない。片手に真っ黒なトートバッグ、もう片手に菊の花束を携えた青年は無人の車両に一時間程度揺られた後、ある駅名に反応した青年は重い腰を上げた。目的の場所は、最寄り駅の改札を抜けて十分ほどを歩いた先にある。
古き良き街並みに続く商店街の道。青年は年に数回ほど、決まって喪服を身にまとってこの地を訪れる。きびきびとした足取りの青年は、漆黒の装いに反した色素の薄い髪と肌の色を持ち、夜明けの空を彷彿とさせる澄んだ瞳は真っすぐ前だけを見据えていた。青年はこの日も背筋を伸ばし、やや早足で商店街のアーケードを通り抜けていく。さび付いたシャッターを開ける人々は腰を曲げながら、訳ありげな青年をひっそりと見送るのが恒例だ。商店街の老いた住民たちは誰ひとりとして青年に声をかけないが、誰もが孫を見守るかのような、温かな視線を向けている。
辿り着いた屋外のこじんまりとした霊園には整然と、小綺麗な墓石が並んでいた。
青年は顔なじみの管理人に声をかけ、柄杓と手桶を借り受けた後に水を汲み、迷いなく目的の区画まで向かう。辿り着くとすぐに喪服の青年は屈みこみ、物言わぬまま手を合わせる。合掌を解いた後は、真っ黒なトートバッグから道具一式が入った袋を取り出して軍手をつけた。水をかけてから真新しいスポンジを取り出すと、黙々と、墓石の隅々まで汚れを洗い流していく。
青年にとって大切な、家族との対話の時間である。
巡査部長の肩書きを得て、称賛もやっかみの捨て台詞も浴び続けて尚、彼にとっては何も進展のない日々を過ごしている。目立った怪我や病気こそないが、彼が目標とする父の背中には到底追いつける気がしない。未だ手探りだらけの毎日だ。
早く知りたい。父が目撃した、あの日の真相すべてを。
早く手に入れたい。無念を晴らした先に続く、安寧の日々を。
しかし青年は予感もしている。職務を全うする限り、何もかもが片付く日などは決して来ない可能性の方が高いのだと。そもそも青年自身もわからないのだ。亡き父親にとって、ただ一人の息子が同じ職に就いたことについて何を考えているのか。
あの世とこの世が最も近づくというこの日にすら、青年は父の言葉を聞くことはできない。
答えのない問いかけを胸の内に秘めながら、青年は墓石を磨き続ける。眠る父の魂と、少しでも触れ合えることを願いながら。
スマホが短く振動したのは、一通りの作法を済ませた後だった。線香の匂いが未だ濃く残る墓前、青年は電源を切りそびれていたことを悔やみながらポケットに手を突っ込む。朝から誰だろうと、眉をひそめながら通知を確かめる。FINEの通知が一件。
「……!」
微かに目を見開きながら、青年はよどみなく通知をタップする。送り主は、青年が懇意にしている探偵事務所の調査員。異性に苦手意識を持つ青年にとっては貴重な、異性の友人でもある。紆余曲折ある中で随分と失礼な態度を取ってしまった自覚があったので、友人と名乗る資格があるかは少しばかり、自信がないけれど。
彼女は生真面目ながらも丁寧な文面でお礼を述べた後に、午後からの予定を訊ねた。偶然にも青年が非番であることを知り、新宿御苑の花見に誘う文面だった。明日からは入園に事前の予約が必要だから、タイミングが合えばいかがでしょうか、と。
「……君は、嫌じゃないのかな」
零れ落ちた呟きに驚き、目を瞬かせたのは他でもない、青年本人だった。
青年は墓参りに訪れる日、他の予定を入れたことがない。必ずそうしようと決めているわけではないが、墓参りの後は決まって気持ちが塞ぐような、空虚で他のことに手がつかなくなるような心地になる。見知らぬ人ならともかく、交友関係のある人物に会うのは憚られるからと、自然と足が遠のいていたはずだったのに。
何故だか今は、彼女の誘いを受ける前提で事を考えているらしい。その事実は、青年をおおいに狼狽えさせる。
背中から温かで、力強い風が吹いたのはその時だった。
びゅう、と轟音にも似た突風は幾つもの花弁を巻き込んで、墓石や周りにいびつな水玉模様を散らしていく。
青年は顔を上げて振り返った。数十メートル先にそびえ立つ桜はまばらに色づき、誘うようにこちらを見下ろしている。
どうしてだか、父親に背中を押されたかのような錯覚を覚えた。
「……馬鹿みたいだな」
都合の良い解釈だ、と切り捨てられたら良かったのに。青年はそう嘯いた。理由もなく泣きたくなった青年の頬を、温かな風が先ほどよりも優しく撫でていく。
* * *
活気づき始めた商店街で、とある和菓子屋店主の老人は仰天した。颯爽と商店街を通り過ぎるあの喪服の青年が、不意に足を止めたからだ。
「……すみません」
「い、いらっしゃい」
シャッターが開き始める朝の商店街を年数回、凛とした眼差しで通り過ぎる喪服の青年。彼の存在は商店街の会合でも度々噂されていた。色素の薄い髪と肌を持つ、夜明けの空を彷彿とさせる澄んだ瞳の青年。少し大きな荷物と菊の花束を提げた姿は、一度見ると忘れられない。あんなにも若そうなのにかっちりと喪服を纏い、背筋を伸ばし、少ないながらも定期的にこの街を訪れる事情は語らずとも察せられる。
物言わぬまま過ぎ去るだけの若者を、商店街の誰もがそれぞれ密やかに見守っていた。今回もひっそりと駅方面に向けて歩みを進める青年を見送るのだと、そう思っていたのだ。
「おはぎをふたつ、ください」
柔らかく温もるような声だと、老人は思った。年甲斐もなく泣きそうなのに、ずっと聞いていたくなるような慈しみさえ覚える。
「はいよ」
返事をしつつ、誤魔化すようにケースの前にしゃがみ込む。
老人は青年の抱えているであろう苦しみを憂いていた。しかしどうしてだか、この子はもう心配はないと、どこかで確信してもいる。
嬉しさのあまり、老人は少しばかり口を滑らせた。
「たまに見かけるからさ。いつか食べてほしいと思ってたんだよ」
「それは……気にかけてくださり、ありがとうございます」
老人の本心からの言葉に、喪服の青年は気を悪くする様子もなく微笑んだ。お代を置いて、おはぎの包みを受け取った青年は言う。
「大切な人と、いただきますね」