おまえが嬉しそうだからいいけど 別に思うまま過ごしたらいいとは思う。背中を丸めて憂鬱そうにしているよりはずっと、楽しそうにへろっと気の抜けた笑い方をしている方がほっとする。
キッチンに用意された犬猫の顔を模したクッキーの一枚つまみ上げ、ブラッドリーはしげしげと眺める。若い連中はさぞ喜ぶだろう。菓子をねだりにきた子供たちが、可愛いとはしゃぐのが目に浮かぶようだった。
「おい、それはお子ちゃまたちの分だからな」
警戒して眉を吊り上げるネロの目の前でぱくりとひと口で食べると、それはもう怒られた。胡椒を取り出される前にさっさと退散すると、訓練終わりの幼い魔法使いたちが入れ替わりでキッチンに向かっていく。案の定、「可愛い」の大合唱だ。そこに照れたように笑う声が小さく混じる。
ブラッドリーは密かに思う。子供たち、特にリケやミチルによる「可愛い」には、凝ったデザインのクッキーだけでなく、ネロに対しても向けられている。本人はいまいち気づいていないが、隠れて野良猫の世話を焼いているのはほとんどのやつに知られているのだ。そのためか手の込んだ焼き菓子を次々と作るせいなのかは知らないが、「可愛い大人」に認定されているのだった。
(あんな、おっかねえやつ、他にいねえよ)
時と場合によってはオズやミスラにさえ啖呵を切る相棒の激情家なところを思うと、ぞくぞくして口笛でも吹きたくなる。が、「東の魔法使い」になったネロは基本的に陰鬱で大人しく、あの烈火に燃やされそうになる瞬間は滅多とない。
一体いつの間に、脆弱で愛嬌だけで生き延びようとする小さな生きものを愛するようになったのか。まさか北にいた頃からなのか? 当時は必死に隠し通したのだろうか。
ブラッドリー・ベインに求められる自分でいるために、あいつは己のそういった心の柔らかさを切り捨てていたのだとしたら。それは紛うことなき献身だ。あんたの相棒を名乗って恥ずかしくねえ男でいるよ。ネロはその誓い通り在ろうとした。何百年も一緒にいて何でも知っているつもりが、急に他人のような錯覚をする。
近頃はあのシナモンとかいうやつに骨抜きにされているし、守ってやりたいだの何だの本気度の高い戯言を口にする。時折はっと我に返って気恥ずかしそうにするが、ネロくん、ネロくん、と纏わりつかれるたび表情が緩むのだった。
中庭に出ると、例の野良猫と遭遇した。ふわふわの毛玉はブラッドリーを一瞥すると、即座にそっぽを向く。己を甘やかしてくれる存在ではないと判断した途端こうだ。こんなもののどこがいいんだか。
無慈悲で無駄のない的確な攻撃が雨のように降り注ぐ。厄災の影響を受けて凶暴化した魔法生物の群れが、瞬く間に崩れ落ちていく。ばらばらと。
北の国の辺境で肩を寄せ合い暮らしていた村人たちは、今晩はよく眠れることだろう。ミスラもオーエンも面倒がって姿を消したが問題ない。魔法舎に届いた必至の祈りは、「東の飯屋」が容易く叶えようとしている。
ヒースたちの方じゃなくて、俺らの方に来てくれてよかった。と、一瞬だけ保護者の顔をしたものの、すぐにその温厚な表情は剥がれた。先ほどまで値踏みするように様子を窺っていた北の精霊たちが、徐々に興奮し始めたのを感じる。ネロが呪文を唱えると、嬉々として従ってみせた。
「ブラッド!」
「おう」
魔道具を構え、注文通り最大の強化魔法をかけた。あっさり受け止めたネロは、散り散りに逃げ出そうとする魔法生物のあいだを縫うようにして飛び回り、淡々と息の根を止めていく。雪原にきらきらと石が光る。白い景色に埋もれそうになりながらも輝きを放っている。
すべて片付けたネロはそっと箒から降りた。足元に散らばる石を避け、吹雪のなか静かに佇んでいる。それなりの難易度の任務をこなした直後とは思えない。達成感を滲ませたり昂ったりする様子もなく、「やっぱ北は寒いな」とぼんやりしたことを呟いている。
これだよ俺の相棒は。ブラッドリーは思わず抱き寄せてキスでもしたくなる。先刻までの気迫は嘘みたいに消え去って、ネロはすっかり東の魔法使いのような顔をしていた。盛り上がっていた精霊たちは熱の行き場を失い戸惑っている。
こいつは未だに灰になんかなっていない。ブラッドリーは思う。あの頃と変わった部分があろうがなかろうが、この男は今も昔も俺のものなのだ。
その後、別行動していた双子、ネロを除いた東の魔法使いたちと合流した。「ネロちゃんお手柄じゃのう」「そら、撫でてやろう」とスノウとホワイトに褒められて居心地悪そうにするネロを眺め、シノが得意げに胸を張る。ヒースクリフも嬉しそうに笑っていて、ファウストも密かに誇らしそうな目をしていた。
この場は東の連中に譲ってやるか、と一歩引いてブラッドリーは見守る。帰って夕飯が済んだら晩酌にでも誘うか。最近は以前ほど断られないし、こいつもすんなり付き合うだろう。
久々に目にしたあの痺れる殺気にぐっときて、上機嫌で部屋を訪ねた。特別にいい酒を持ってきてやったのに、扉を開けたネロはぐったりとしている。
任務をすっぽかしたミスラとオーエンは、双子(正確には双子に泣きつかれたオズ)にきつめの罰を食らったそうだ。運悪くその場に居合わせたネロは、短気だが単純で扱いやすい二人の機嫌をとるため、散々好物を作ってやったらしい。食べているうちに段々と怒りを忘れてきたミスラたちは、「次は鹿肉のソテーがいいです」「生クリーム、足りない」と次から次へと注文してくるので疲れ果てたのだという。
部屋には一応招き入れられたが、ネロはすぐにベッドに横たわった。枕に頭を沈め、人差し指をどうにかゆっくりと動かしている。
「そこの棚にあるやつ、食っていいから……」
弱々しく示された戸棚には、きっと来るだろうと予想していたのか、ブラッドリーの好みに合わせたつまみが用意されていた。せっかくだが一人で手をつける気にもなれず、ふと思いつきでパチンと指を鳴らした。魔法で姿を変えたブラッドリーにネロは目を丸くして、「は、はあ?」「な、なに……なんで?」と驚愕して固まっている。
てめえのためにしてやってんだから抱き上げるくらいしろよと不服に感じつつ、仕方なくひらりとベッドに飛び乗る。腹の上に移動して、中庭に出没する野良にも負けないふさふさの尻尾を揺らす。が、未だにネロはひたすら瞬きを繰り返している。
そういや今はこいつ、シナモンだっけか、ああいうぬいぐるみっぽいやつの方がいいのか? 気を利かせて猫からあの異界の生きものにフォルムを寄せてみたが、「わっ」と叫んでまじまじと見つめてくるだけだった。あまりにも反応が悪いので腹が立ち、ブラッドリーは変身を解いた。呆然としているネロを起こし、「飲もうぜ」と持参したとっておきの酒を見せる。
「ブラッド、あのさ……」
「なんだよ」
魔法で呼び出した二つのグラスにワインを注いでいると、ネロはやや遠慮がちに言った。
「さっきの、もう一回やって」
「……てめえなあ」
無邪気な顔しやがって。まあ今日はいいもん見れたしな、と渋々ながら譲歩してやることにして、ブラッドリーは再び変身した。
ネロはグラスを置き、そっとブラッドリーを抱きしめた。ふわふわ、とほどけた声で呟くのが聞こえる。まじでなんでこんなもんが好きなんだこいつ。ブラッドリーには理解し難いが、しばらく好きなだけ撫でさせてやることにした。