前髪ドアを隔てて、ドライヤーの音が聞こえる。
半分閉じたままの目を無理矢理開いてスマートフォンの時計を見ると、6時を少し過ぎたところだった。朝のランニングから帰ってきた夜久がシャワーを浴びたのだろう。いつ部屋を出ていったんだろう、寝室から居なくなったことに気がつかなかった。仕事のある日は余裕をもって起きているが、目覚ましのアラームを切って寝ると日頃の疲れも相まってさすがにいつもの時間には起きられない。夜久は、決まった時間に起きてトレーニングに行く。日本にいても、ロシアにいても。
髪を乾かし終わったのを見計らってから洗面所に顔を出すと鏡越しに目があって、おはよ、と短く朝の挨拶が返ってきた。
「髪伸びたね」
乾かしたての温かい彼の髪を指で梳くと、記憶にあるよりも指に長く絡まる。
「なー。目に前髪入って鬱陶しい、ロシア戻ったら切りに行く」
櫛で整えながら、夜久は鏡と睨めっこをしている。
「日本の美容院には行かないの」
人の目に付く職業だ、高校生だった頃は兄弟と一緒に近所の床屋で切っていたはずだが今はそうも行かないだろう。
「いつも行ってるところがあるんだよ、普段パン屋やってて週に一回だけ美容院やってんの。朝飯買いに行ってたら顔馴染みになって、ある時髪切ってあげるって突然言われてびっくりした」
「何それ」
「でも良い感じだろ」
襟足を撫でながらからからと笑う口元が愛らしくて、右手で小さな頭を抱き寄せながら唇を合わせる。
「……ところで、そのパン屋兼美容師さんて女の人ですかね」
「女性だけど、末の息子は大学生だぞ」
その末の息子よりもずっと歳下だと思われていたとは教えなかったが。
「あ、そう。そうなんだ」
杞憂だったと肩を撫で下ろして、黒尾はシェーバーを手にとった。
「お前のトサカは高校の時より大分マシになったな」
「そうでしょうそうでしょう。惚れ直した?」
「別にお前のトサカに惚れてはいねぇ。なぁワックス借りるぞ…って何だこれ!かってえな!」
別に駄目だなんて言うわけもないが、返事も聞かずに蓋を開けて指を突っ込んで置きながらその言い草かと不平が口をつく。
「勝手に使って文句言わないでくれる⁉︎これくらい固さがないと寝癖が言うこと聞かないんだわ!」
勝手が違うとぶつぶつ言いながらワックスで前髪を上げていく夜久を横目で盗み見る。日焼けしていない、白くて丸い額に今すぐ口付けたいと思っているなんて、きっと知らないだろう。
よし、と満足そうに髪を整えて終えた夜久が、徐に手を顔の前に近づけて、それからくくっと笑った。
「お前と同じ匂いがするな」