8月9日「おい、いい加減に離せ」
不意打ちで、分厚いカーテンの裏に引き摺り込まれた俺は、仕立ての良いスーツとぴかぴかに磨かれた革靴でめかし込んでいるあいつ…グエル・ジェタークに抱きつかれて、重厚なカウチソファの上で動けないでいる。
グエルの為に開かれているレセプションを抜け出して、何で俺みたいな草臥れたボディガードのおっさんのうなじにCEOが鼻を埋めているんだ?
お前なら、さっき次々と紹介されていた名立たる御令嬢でも御曹司でも選びたい放題だろ?みんな目を潤ませて、お前に自己紹介するために長蛇の列を作っていたじゃないか。
「あんたの匂い、なんだか安心するんだよ」
すうっ…と深呼吸して、グエルは俺の耳元で、ふふっ、と笑った。
「鞣した革のような、燻された枯草のような、森の湧水に生えている苔のような、煎れ立ての珈琲のような…」
俺の、今日の為に仕立てられたお仕着せの襟元を、グエルのかたちの良い指先がゆっくりとなぞる。
「随分良さげに言ってるが、いわゆる加齢臭じゃないか?蝋燭やチーズや古本みたいな匂いがするらしいな」
「うん。…暗闇に揺らめく蝋燭の炎、熟成されたブルーチーズ、いつも枕元にあったお気に入りの絵本…」
「お前、酔ってるのか?」
「…そうかも」
くたりと俺にもたれ掛かって、いつもより赤みがかって見えるサファイアの瞳が、仄暗い豪奢な部屋の中で唯一、光を放っている。
「ちょっと父さんの匂いに似ている…なんて言ったら、またあんたにあきれられるかな?」
俺の口元が歪むのを見逃さず、グエルは指を伸ばして俺の唇にそっと触れた。
グエルの唇が近付くのを、俺は義手の手袋越しに止める。
「お前は、勘違いをしている。生まれながらの貴種で、俺みたいなのを今まで見たことがなくて珍しいだけだ。地球で監禁していたお前に俺が何をやったか、忘れたのか」
「なあ、オルコット、俺は地球ではじめて知ったんだ。土埃と鉄錆と硝煙の匂い、汗や反吐や血膿の匂いも含めて全部、あんたの匂いだ。ずっと嗅いでいたいよ」
「酷い趣味だな」
「あんたが教えたんだろ」
グエルは俺の手袋の指先を咥えると、口だけで器用に脱がした。上目遣いで義手の指を一本ずつ舌で舐り、「血の味に似てるね」と笑う。
「…この部屋、『恋人たちの部屋』って呼ばれてるんだって。ちょっと恥ずかしいよね」
は?こいつは何を言い出すのか?
「招待された来賓がこっそり休憩できる部屋。ドアも隠し扉だし、今夜ひと晩だけ、俺の指紋認証のオートロック。防音と、もちろんプライバシー保護も完備が売り。
このフロントでレセプションパーティーがあるたびに、主催者からどうぞこの部屋をお使い下さいと言われてて、俺、毎回断っていたんだよ。本当に、使うのは今回はじめて。オルコットと使いたい、って、はじめて思ったの」
だから、パーティーの客たち。あの、お前を見る、物欲しそうな、ギラギラした目付き、アレは、
「そう。誰が選ばれるか、みんなそわそわしてたね。でも、
俺は、あんたじゃなきゃ。
地球で、あんたに出逢ってからずっと、あんたがいいの」
俺のネクタイをむしり取り、乱暴に自分の上着を脱ぎ捨てながら、ぬるり、と、俺の唇を割って、グエルの舌が入ってくる。
「夜は短いよ。楽しまなきゃ」
俺は、自分が痛いくらい勃起している事に気が付いて、呆然としながら
(金持ちは、何考えてるかわからんな)
と、心の中で呟いた。