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    SuzukichiQ

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    本を読むふたりの話です。

    【龍羽】もしも物語があったなら。 夜中、外がやけに静かだと思っていた。朝になって、銀世界に変化していた。
     この冷え込みならばそうだろうと思っていたが、毎年くりかえし見ていても、雪が積もる朝の景色で新鮮な気持ちになる。足首が埋まる程度の積もり具合のようだった。人の行き来ができない程ではないが、普段通りの仕事を外ですることは難しい。そう思っているうちに、家においてある電話が鳴った。今日は安全を優先し、難しいようであれば外仕事は控えること。必要であれば雪掻き等で道や場所を確保してからにすること。龍水も今日については造船工場に顔を出すつもりだったのだが、工場は稼働しないそうだった。
     間もなくして電話がまた鳴った。今度はフランソワから。レストランが休業になる。そこでこの家にきて、昼食を作るそうだ。普段の昼間はレストラン業をやっているので、昼間にフランソワがここへ来ることは久しぶりだった。
     食べたいものを伝えようとしたが、フランソワに今日作るものはもう決まっておりますと言われた。すんなり了承して電話を切った。そういう日もあるのだろう。

     さて、今日いきなり仕事がなくなって、なにをしようかと考える。部屋の暖房であたたまりながら。
     やることがなくて困る、という事態ではなかった。仕事も遊びも、やりたいことが沢山あるので、どれを選択しようかということだ。ウインタースポーツをするには雪が少ない。中で出来る仕事もあるが、龍水がやるべき仕事の多くは人を巻き込まないといけないから、今日はそういう日ではない気がする。趣味の造船のための設計図と模型作りの続きはあるので、それでもよさそうだが。
     いろいろ考えて、顔を洗って、寝室に戻った。
     最近新しく設置した据付の棚に、本が背表紙をみせて幾つか並んでいる。そのうちの二冊を手に取って、窓際に近い椅子にかけ、栞がはさまっている一冊のほうの頁をひらいた。机にはメモとペンがあり、龍水の手によっていくつかの単語が書かれていた。

     目的別にあちこちで建ててある龍水の家のなかでも、港に近いこの家は比較的おおきめに建てられている。仕事に加えて、趣味や娯楽も楽しむための場所だからだった。船については趣味だけではなく実際の仕事用に必要な場合も多い。次の春に向けて、小回りの利く機船の量産を目指しており、この冬はその設計開発にかかりきりだった。それでしばらくはこの家で過ごしていた。
     開発の打ち合わせはオンラインでも出来るようになった。だから便利にはなったが、仕事がなければこの家は急に静かになる。
     窓際で時間を過ごしているうちに、玄関からノックが響いて、それから扉が開かれる音がきこえた。ノックの響きがフランソワだった。わざわざ玄関に顔を出さずともフランソワならば問題ないし、またフランソワ自身もそれがあるべき状態であることを分かっている。
     そのまま顔も上げずに、目の前に広がっている文章に目を通しているうちに、寝室の扉がひらいた。フランソワ、ではない。
    「おはよう」
     顔をあげる。毛皮の上着を脱いできたらしい、羽京が部屋の入り口で手をかるく振っていた。
    「……まさか来るとは」
    「仕事がなくなったからね。フランソワと一緒にきたよ。入っていい?」
    「もちろん」
     律儀に確認して、羽京が部屋にはいってくる。「きみの家はあったかい」と嬉しそうに呟きながら、龍水のいる窓際にやってきた。緑色の瞳が、外を眺めている。
    「科学の復活がすすんでも、雪が降ると仕事がとまるのは同じだね」
    「このあたりはそうだな。人が多くて道路整備も進んでいる街ならば除雪車があるのかもしれないが」
    「たしかに。クロムが閃いてそう。元気かな?」
    「少し前にオンラインで話したぞ。変わっていなかった」
     空いている椅子をかるく指さすと、羽京はそこでやっと座った。龍水の視線の先にあるものを見て、意外そうに目を丸くした。
    「本?」
    「小説だ」
    「へええ」
     いちど栞を挟み、本を閉じた。羽京の前にその本を置き、肘をついて同じものを眺める。
    「世界中の者たちが復活した結果だな。作家もいて、紙で読める本を読みたいと思う者たちもいて、印刷技術もある。オンラインで海外の者と会議をしたときに、この本がずいぶん流行っていると聞いて仕入れた」
    「だから洋書なんだ。どういう本?」
    「冒険書だがミステリーと聞いている」
     ふうん、と呟きが返ってくる。モノクロの表紙にはタイトルロゴだけがあり、写真や絵は入っていない。羽京の手が伸びて、閉じられている本の頁をぱらぱらとめくっている。中はひたすら英語の文章だった。
     ちらりと視線があげられて、龍水も視線で返した。
    「話を理解する分には問題ないのだがな」
    「うん」
    「あまり聞かない単語もある。それで、こうやってメモをとっている」
     机の隅にあるメモを羽京に見せた。読んでいる中で分からない単語が含まれた文章だ。読みやすい本だからと元々きいており、実際その通りではあるのだが、それでも滅多に聞かない単語はあった。それでも話が理解できるので差支えはないのだが。
    「電子辞書がほしいぜ」
    「たしかにね。……たぶんこの単語は“考古学”だよ」
    「ほう」
    「海洋考古学、っていう言葉できいたことがある気がする。違ったらごめん」
    「いや、おそらく正しい。登場人物のなかに学者がいる」
    「僕も読んでいい?」
    「構わないが」
     閉じた本を龍水はまた手に取り、その単語があった頁に戻った。そこにある文章を視線がもういちど追い、小さく頷いた。


     龍水がふたたび読書に戻っているうちに、羽京も本を読み始めていた。龍水がもってきて机においたままの一冊を手に取り、一頁目から読み始めている。この二冊はシリーズもので、羽京が読んでいるものは二冊目なのだが、それぞれの話が繋がっているわけではないと聞いている。読んでも問題はないだろう。
    「読書をしている姿は新鮮だな」
    「きみもね」
    「もともと読書習慣はあったのか?」
     ふふ、と羽京は笑った。
    「全然なかったよ。必要なときに参考書を読んでたくらいかな。あとは図鑑が好き。きみは?」
    「子供のころに冒険物はよく読んだな。実際に海に出るようになってからは殆ど手に取っていないが」
    「ぼうけんもの」
    「十五少年漂流記」
    「……」
    「白鯨」
    「本で読んだことはないなあ」
    「ガリバー旅行記」
    「あ、それは分かる」
    「全て無くなってしまったがな」
    「だね」
     そこで会話がとぎれて、部屋はしばらく、頁をめくる音だけになった。外では、今朝は止んでいた雪がまた少しずつ降り始めていて、空も灰色のままでいる。遠くの空も晴れている様子はなく、雪はこのまま当面やまないだろう。
     食堂のほうから、ときどき音が聞こえる。扉の開け閉めや、水を流す音。フランソワがなにかを作っているのだ。そういえば羽京はフランソワと共に来たのだった。頭の片隅でそれを訊きたいと思う一方、物語の中に没入しかけている自分もいる。今、ここで読む手を止めてしまいたくない。龍水が読んでいる本は、この世界になって新しく出版された本の一冊だった。話の舞台は、石化からの復活を遂げた今の世界。登場人物は、主人公らしい青年とその友人。そして彼らが目覚めた世界で新しく出会った人々。そのなかに恐らくは考古学者もいる。冒険的要素が強く、龍水が好きな類だった。
     辞書が欲しい、と改めて思った。
     洋書を読むのは初めてではない。しかし今でも読むなかで時々わからない単語がでてくる。一度しか出てこない単語もあるし、何度か出てくるものもある。文脈からなんとなく意味を察することができる場合もあったが、これはどうしても分からない、という場合もあった。そういうものは片手で雑にメモをとった。あとで調べるためだ。物語の理解に支障がなさそうなら、そのまま読み進めてもいい。
     二章の序盤まで読んだところで、視線を感じて、顔をあげた。
    「なんだ。読まないのか」
    「なんでもないし、読むけどさあ」
    「退屈か?」
    「全然」
     羽京はいつの間にか本をおいて、こちらを見ていた。その指先が、すっと紙のほうを指さす。
     龍水は分からず、見ているだけになる。乱雑にメモをした紙を羽京がとって、投げ出していたペンを拾った。龍水が書いた英単語の横に、日本語の単語を書き足していた。
    「aggressionは“侵略行為”」
    「……」
    「これは多分“偶然の一致”かな。ほかのも分かるだけ書いてみたよ」
    「知っていたが、英語に強いな」
    「うろ覚えもけっこう多いけどね」
    「いや。頼もしい」
     思わずつぶやいた。羽京が満足そうに笑った。
    「本が退屈なわけじゃないけど、僕はこっちのほうが楽しい」
    「こっち」
     じっと見ると、羽京が先に視線を逸らした。視線の先の、白い景色が瞳にうつっている。
    「きみが楽しそうに本を読んでる姿が良いってこと」
     肘をついて、その手が口元を隠してしまった。照れている、と直感でわかる。
     楽しんでいるなら構わない。龍水も同じように窓の外をみた。
    「俺が読み終わるまで居てくれたらありがたい」
    「それっていつ?」
    「いずれとしか言えんが。あと三冊ある」
    「今日中は無理っぽいね……」
     困ったように羽京は笑っている。ふ、と龍水も笑った。
    「設備の良さは保証するぞ。フランソワがいるうちは手料理も好きなだけ食べられる」
    「うっ」
    「居てくれ」
     羽京と視線があった。瞳のなかがゆれていた。なにか言いたげな顔だったが、少なくとも拒みたいようには見えなかった。
     そのうち、羽京が両手で自分の顔をおおい隠した。そのまま、両掌の隙間から「わかった」と返事がこぼれた。
    「仕事が再開するまでだよ。この天気だと明日の昼くらいまでは休みだろうし」
    「無論だ。貴様がここに滞在することはフランソワにもあとで伝えておく。食事も多めに用意させよう」
    「ああうん。まあ……今日のぶんは伝えなくてもいいよ。フランソワも最初からそのつもりだから」
    「そうなのか?」
     羽京がうなずき、両手をおろした。
     先日、フランソワの食材調達を手伝ったそうだ。お礼にと今日はレストランで好きなものを作ってもらう予定だったが、雪のために開店できなかった。だから今日はフランソワについてきたのだ。食材の運搬も必要だからと。
     今朝のフランソワとのやりとりにも合点がいった。
     ノックがきこえた。フランソワが呼びに来たのだ。 
    「ごはんだ」
     先に羽京が立ち上がった。龍水も本に栞を挟み、席を立った。
    「それで、フランソワに頼んだものとは?」
    「見てのお楽しみってことで」
     仕事のときには見せることのない表情で羽京は返す。
     ひとときの雪につつまれた、わずかな休暇のはじまりだった。



     昼の食事が終わってから、龍水はすぐに部屋に戻って読書を再開した。読むのに頭をつかう本は、あいだが開いてしまうと内容が飛んでいってしまうこともある。午前中の情報を整理したうえで、忘れないうちに続きを読んでしまいたかった。
     羽京も先程と同じ椅子にすわって本を読んでいた。机には追加で持ってきたメモ用紙とペンがあり、すぐには意味の分からない英単語のメモを取っている。英単語の横には、日本語のメモ書きがあり、単語を推測しながら話を読み進めているようだった。龍水もたまに、そのメモ書きを見た。
    「このメモ」
    「ん?」
    「そこの、consoleはコンソールだと思うのだが」
    「ああ、そっか。コンソールだね。そのままだ」
    「だろう。こっちは分かるか。さっき出てきたのだが」
    「……なんだろう。文章どんなかんじ?」
     龍水が指差したところを羽京がのぞきこむ。前後の文章まで読んで、指先で口元にふれながら考えている。思い出そうとしている時の仕草だった。
    「これだけだと名詞っぽいけど、文脈的には動詞だね……ちゃんと思い出せないけど、何々が重要である、みたいな意味なんじゃないかな」
    「失礼いたします」
     ふたりでひとつの文章をみて考えていたら、フランソワが入ってきた。トレーにはポットとふたつのカップが乗っており、飲み物をはこんで来たのだと分かった。
     読書の邪魔にならないように少し隅のほうにそれらを置くフランソワに話しかけたのは、羽京のほうだった。
    「フランソワ、この単語って分かる?」
    「どちらでしょう」
     龍水がとったメモのほうの単語を指さすと、フランソワは小さく頷いた。
    「名詞であれば“蝶番”を意味する言葉ですね」
    「ちょうつがい」
    「扉についている金具だな」
    「はい。日常でそう頻繁に使う単語ではございませんが」
     そう言うとフランソワは、今度はメモのほうではなく、本のなかで使われている言葉のほうを見た。
    「動詞として使われることが稀にございますよ。こちらですとonがついているのですが、それであれば“何々次第である”や“左右される”の使い方ですね。こちらの文章でしたら“科学者や専門家たちの見解次第になる”と訳すのがいいでしょう」
    「あーそうだ。思い出した。高校でやった気がする。ありがとう」
     お役に立ててなによりです、とフランソワは言って、部屋を出て行った。龍水はさっそくふたつのカップに紅茶をそそぎ、自分のぶんに口をつけた。遅れて羽京も同じようにしている。
    「フランソワにも居て欲しいね」
    「そうだが、ここに居させると食事の準備が進まないからな」
    「うーん……」
    「引き続き貴様をあてにしているぞ」
     わかってるよ、と羽京は苦笑いで返してきた。
     外の雪は降ったりやんだりを繰り返し、相変わらず窓の外の景色は鈍い銀色のままだった。

     こうやってふたりで過ごす時間は今までに何度もあったというのに、ここまで会話が少ない日というのは珍しい。仕事であれば今までも有り得たことだが、ふたりとも今は仕事に手を付けず、読みなれない洋書と対峙し続けている。言葉はときどき交わすが、英単語や文章の訳を確認するときくらいだった。本の内容はお互いに話さない。別にそう決めたわけではないが、暗黙の了解がそこにはあった。
     先に一冊を読み終えたのは龍水のほうだった。本の最後、それこそ後書まで目を通し、本を閉じたときの裏表紙まで見て、黙って机に本を置いた。革製の栞もその横にある。
     読み終えた、と報告するのもなんとなく違う気がしたので、黙っていた。
     こちらには目もくれずに本を読み進めている羽京を見ていた。机に軽く身を乗りだして肘をつき、姿勢を少し崩している。物語が佳境なのか、集中をして読んでいることが見ていてすぐに分かった。
     しばらくすると口元に手を置き、なにかを考えている様子になった。龍水のほうは見ない。
     近い距離で、なにも話しかけずに羽京の姿をただ見ているだけというのは不思議な感じがした。いつもなら自然と話題がでてくるし、羽京もそれに応えてくれることが多かった。ふたりで過ごす時の発話の割合は、龍水が七割で羽京が三割くらいだ。龍水のほうが話したいことが圧倒的に沢山あって、羽京はよく聞き役になってくれる。それでいて思ったことは言ってくれるし、羽京の好きなものの話題にひっかかるとよく喋った。
     喋る量以上に、羽京は頭のなかでいろいろなことを考えている。龍水とは異なる視点の、異なる思考回路で。
     だから羽京の喋る量がふえると、龍水は単純にうれしかった。
     しかし今こうして会話がほとんどない空間で、きっと色々なことを考えているであろう羽京を見ていると、今まであまり味わったことのない感情がうまれるのが分かる。音のない世界につつまれて、あたたかな部屋で、言葉もなく同じことをしている。本を読むことを通じて思考と感情の波にのまれて、終わったら同じ陸地にかえってくる。
     海にいる羽京を、龍水はしずかに見ていた。

     ふうう、と羽京が息を吐いた。本が閉じられて、裏表紙がしばらく眺められたあと、それは机に置かれた。
    「読み終わった」
    「こちらもだ」
     さめたカップに手を伸ばして、羽京が残りを飲み干した。
    「ごめん、とっくに終わってたよね。途中から集中しちゃってた。どのくらい読めた?」
    「話を理解するぶんにはまったく問題なかった。こういう類の本のなかでも読みやすい内容だったのかもしれん」
    「確かに、専門的な方向で話が広がるでもなさそうだし」
    「今の時代を舞台にしているのも良かった。世界中が一度すべて石化して、復興が進んでいる現代というのがいい。後世まで読まれてほしいぜ」
    「そうだなあ。何十年も先だと貴重な資料になってるかもね」
     羽京が椅子から立ち上がって、ぐっと伸びをしている。そうしながら外を眺めている。雪はやんでいる。溶け始める様子はないが、大雪になる雰囲気でもなかった。
    「不思議な感じがする。きみがいるのに、あんまり喋ってない感じが」
     龍水は肘をついたまま、羽京を見上げた。視線があう。
    「きみも読み終わったあと、ずーっと静かだったしね。なんだか見られてるとは思っていたんだけど」
    「読書をする貴様の姿は新鮮だったからな」
    「お互い様だよ」
     羽京の表情も目元の様子も、普段と同じになっていた。
     本の世界に没頭し、海の中にいた羽京の余韻のようなものがそこにはある気がした。
     ほどなくしてフランソワがやってきた。焼きたてのクッキーが香りとともに運ばれてきて、羽京の目があっというまに輝いた。



     夜になって、フランソワが羽京のために寝室の用意をした。ご自由に使ってくださいませ、と羽京に告げて、フランソワはその日の仕事を終えて下がった。
     その後の羽京はというと、まだ龍水の部屋にいた。すでに風呂もおえて、龍水が昼間に読み終えた本を読んでいる。まだ中盤までしか進められておらず、夜更かしでもすれば別だが、そうでないなら今日中に読みきれる様子はない。二冊目を読んでいる龍水もそれは同様だった。
    「龍水、今日どこまで読む?」
    「羽京はどうする」
    「……悩んでる」
     ぼそ、と羽京は返したが、普段やらないことを一日やっていたためだろう、目元には明らかに疲れがでている。
     龍水はしばらく考え、窓の外をみてから、部屋の電気を消しにいった。
    「消すぞ」
    「えっ」
     いちど部屋が暗くなり、そして今度はベッド際にある小さなライトをつけた。
    「場所変更だ。俺はこっちで読む。貴様も続きを読むつもりならこちらだ」
    「目が悪くなりそう」
    「一日程度なら問題ない」
     そうだろうけど、と返して、しばらく考える様子をみせてから、羽京もライトのほうにやってきた。すでに龍水はベッドに上がって横になり、布団もかけて読書をする体制になっている。羽京は同じベッドにいったん腰かけた。
    「というか僕もここで寝るの? せっかくフランソワに用意してもらったのに」
    「狭くはないだろう。向こうの部屋は明日使うといい」
    「……。今日はしないからね」
     真面目な顔でいきなりそう言われて、龍水は目を丸くした。羽京のほうをみると、ベッドに上がって、布団の中に入ろうとしていた。龍水がいま使っている布団と同じものだ。
     胸辺りまで布団にはいって、龍水に背中を向けるかたちで横になった。そのまま本を読む姿勢になっている。寝落ちをしても顔に本が落ちてくる心配はなさそうだった。
    「邪魔をするつもりはない」
    「うん」

     部屋は数分前よりもずいぶんと暗くなった。
     沈黙と、紙のこすれる音が満ちる。 
     龍水がいま読んでいる本は、羽京が今日の昼間に読んでいたものだ。物語として直接的な繋がりは存在せず、舞台と主要な人物だけが一冊目から引き継がれている。
     冒険物だがミステリーでもあるといわれ、この本を勧められた。実際にその通りだった。今の時代についてのつぶさな描写が印象的で、しかし科学や専門的な要素はそこまで深堀をされず、どちらかといえば、新しい時代を生きようとする人物たちのドラマが多く描かれていた。きっと今の時代には、こういう本が必要なのだろう。
     シリーズものは、たいてい一冊目では主要な人物たちの紹介がなされる。これも例外ではなかった。二冊目になって、登場する人物が新しくなったり増えたりして、描かれる世界も深く広くなっていく。
    「羽京」
    「ん?」
     かさり、と鳴った。
     頁をめくったのは羽京のほうだった。龍水は一度、読んでいた本を布団の上に置いた。
    「昼間に」
    「うん」
    「この本を最後まで読んだだろう」
    「そうだよ」
    「一度泣いただろう」
     返事はなかった。しばらくは言葉がなく、どれほどか経って、また頁をめくる音がした。
     龍水は目を瞑った。
     あのとき、羽京が自分でそれに気付いていたかどうかは分からない。感情を大きくだして泣いていたわけではないし、声に出していたわけでも増してない。しかし羽京は涙目になって、一瞬だけ目頭からこぼれたものがあったのを龍水は見た。
     声などかけられるわけがなかった。そして、本を読み終わった時に羽京がそれについて何かを話そうとする様子もなかった。
    「きみ、まだ読みきってないでしょ」
    「いずれ読みきる」
     そっか、と羽京は呟いて、本を閉じた。
    「家族のはなしが出てきたんだ」
    「どんな?」
    「石化から復活した人のはなしだよ。本のなかでは名前も出てきてない、その他大勢のうちの一人だけど。主人公たちと出会って、口論になった」
    「……」
    「その人は新しい時代で生きることができているけど、生まれ故郷の街はすごく遠い場所にあるんだ。故郷の人たちはまだ石化したままだし、もちろん街もまったく復興できていない。でね、街に戻ればきっと友達がいるし、親もいるし、自分の小さな子供もいるけど、当然まだ会えてない。自分だけが先に復活して、先に歳を取ってしまって、もしかしたら先に死んでしまうかもしれない。もしもそうなったら、自分の子供は復活したあと、どうやって生きていけばいいんだろう。年をとった親は、だれを頼って生きていくんだろう。そう思うと居ても立っても居られなくなって、たったひとりで生まれた街を目指そうとするんだ。結局まわりに止められるけどね」
    「……」
    「ごめん」
    「なにがだ」
    「先に内容しゃべっちゃって。まだそこまで読んでなかったでしょ」
     龍水は返事をしなかった。
     さっき羽京が話したところなら、もう読んでいた。正確には、口論をするところまでは読んでいた。本文ならばもっと長いが、要約すれば羽京が話した通りだった。
     羽京がなぜそこで心が揺さぶられたのか。きっと羽京が大事にしている価値観や背景がそこにはあるのだろう。龍水はそういう、羽京がもっている背景を今まで訊こうとしたことは無い。龍水自身が自分のそれを人に話したいと思ったことがないからだ。
     しずかな溜息が聞こえた。羽京からだった。
    「僕はもともと物語を読まないから知らなかった。けど物語を通じて知らない誰かの人生に触れる行為は、結局のところ自分の人生にも触れることになるって気付いた。わかる?」
    「わかる」
    「そっか。よかった」
    「……ところで羽京。貴様もしかして子供がいるのか」
     ふ、と吹き出す声がきこえた。
     羽京が笑い声をあげたまま、寝返りをうって龍水のほうに身体をむけた。
    「いるように見える?」
    「今の話だと、いてもおかしくはないと思った」
     また羽京が笑い声をあげた。閉じた本をそのままにして龍水をみている。短い前髪が横に流れて、まるい額がすっかり出ていた。普段は見ない姿だった。
    「確かにそうだろうけど。いないよ。いない。一応いっておくけど、結婚していたこともないからね」
    「まあ、貴様はそういう感じには見えない」
    「うん。でも親はいるよ」
    「どこに?」
    「四国のどこか。たぶん今は、愛媛の海沿いかなあ……」
    「……遠いな」
    「うん」
     どういう返事がいいのか分からない。
     これからも世界中で復興は進むだろうが、いつ会えるのかはまだ分からない。もしかしたらずっと見つからないかもしれないし、見つかっても、もう復活は叶わないかもしれない。
     きっと、今までは考えないようにしてきた問題だった。

     龍水の服が軽くひっぱられた。視線をやると、羽京がまだこちらを見たままで龍水の腕を引こうとしていた。
     意図がわかって、龍水は自分の身体のうえに置いたままだった本を横にやった。布団の中で、羽京の身体を引いて、背中に腕を回した。自分の背中にも羽京の腕がまわってくる。
     それ以上、羽京が自分からくる様子ではなかったので、龍水のほうが腕に力をこめた。胸のあたりが触れ合って、服越しでもあたたかだった。そのまま軽くのしかかった。
    「重いよ。龍水」
    「……」
    「大丈夫だよ」
    「本当か?」
    「べつに僕は、ひとりで生まれた街を目指そうとは思わないから」
    「それは投げ出せない役目があるからじゃないのか」
    「それもあるけどさ」
     羽京の指が、さらりと髪を撫でてくる。耳にも触れてきて、龍水は顔をあげた。間近で視線があって、どちらも逸らそうとはしなかった。ただ羽京の手や指がこちらに触れるだけで、そこには言葉がない。
     困ったように羽京は笑った。
    「今日はだめだなあ。言葉がでてこない。きみと話したいこともある気がするんだけど」
    「同感だな」
     物語を通過したときにある言葉にしがたい複雑な感情を、龍水は何度も味わったことがある。悲しかったり、嬉しかったり、そう単純には喜べなかったりする複雑さがそこにはある。自分の人生に踏みこんでくるような物語なら尚更。羽京にとってはたまたま今日がそれだったのだ。
     羽京のことを少しだけ新しく知った。新しい一面を見た。知ることができた嬉しさがあると同時に、胸の奥を浅く切りつけるような感覚がある。たぶんこれは寂しさだろう。同じものを見ても、感じることは違った。龍水はそれを言葉にはしなかった。
     今ここでひとつになれたら、きっとこんな感覚は溶けて消えてしまう。
     羽京の肩のところに顔をうずめた。うすい皮膚の感触が唇につたわって、温度が同じになっていく。窘められると思っていたのに、意外にも羽京はおとなしかった。それどころか髪を撫でていた手が、その髪のなかにはいってきて、ゆっくりと首筋を撫でていく。
    「続きはまた今度だね」
    「……本の?」
    「本の」
    「貸してもいいが」
    「借りるのはいいや。どうせならきみんちで読みたいし。今日みたいに分からないところを教えあいながら読むの、楽しかった」
    「なるほどな」
     息を吐くようにしてふたりで笑った。今はお互いに触れあっていることが全てで、物語はもうここにはない。
     本を読んでいた時間。静かで、あたたかくて、その空間ごと羽京のことを大切にしたかった。だけど物語の海に没頭する羽京のことを無理にでも引き上げたいという気持ちも確かにあった。息のできる海面にあがって、お互いに感じたことを早く伝えあいたかった。結果それでお互いの違いを知ったとしても。


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    SuzukichiQ

    DONE龍羽ワンライです
    『聞こえた!』 実際のところ、普通の人はどのくらい聴こえるものなんだろうと考えたことがある。
     羽京にとっては生まれたときから自分の聴こえ方が自分にとって普通だったから、感覚的な意味で聴力の良さに気付くのは遅かった。
     両親はたぶん早く気付いていた。幼少期の自分はどうやら言葉の発達が人一倍早かったらしい。歌を覚えるのも物心がつくより前のことだった。それでも普通に育てられたから、まわりと自分の差異が分かってきたのは小学校に上がってからだったと思う。地獄耳と初めて言われたのもそのくらいの時期だった。
     気にしていた時期もあったが、専門機関で検査を受けてからは納得が出来るようになった。どんな小さな音でも聴こえる――ということではなくて、どうやらこの聴力の良さというのは、周囲をよく観察し、洞察する性分と掛け合わさった結果なのだという。その説明は自分のなかにストンと落ちて、以降は地獄耳だと言われても実際そうなんだと思うようになった。疲れていたり周りが見えていないときには他よりちょっと耳がいいくらいの人間だし、高い集中力が必要な環境になれば、拾った音の情報をより多く早く処理できる。それで周りに頼られることも増えた。
    2320

    SuzukichiQ

    DONE1回書きたかったあさぎりゲンの話。五知将揃い踏み。
    カップリング要素はないけどゲンは千空が好き、千ゲンでもゲン千でもない。龍羽生産ラインの気配があるかもしれない。
    空想科学的要素を含みます。
    スワンプマン(仮)【あさぎりゲン+五知将】

     どうやら俺には偽物がいる。

     そのことを知ったのは、仕事が終わって日本に帰国して、数日の貴重なオフを過ごしている最中だった。本職はマジシャンだっていうのに、本格的な復興プロジェクトが動き出してからというものの、相変わらず技術者や政府要人がいる場所に引っ張り出されては交渉役や調整役になっている。重要で責任の重い仕事が終わったあとの休息。開放感が最高だった。遅めの時間に起きて、外に好きなものを食べに行って買い物をして、最近充実しつつある本屋で新しい心理学の本を手に取ってみたりして、夕方になったら仲のいい人と待ち合わせ。
     羽京ちゃんも以前と変わらず俺に負けないくらい忙しい。そんで今もやっぱり美味しいものが大好きなので、仕事終わりに美味しいものを食べに行こうって誘うと大体乗ってきてくれる。今日もそんな感じで、前々から決めていた約束の時間に羽京ちゃんはやってきた。
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    millustacc

    MEMO不死身の🏹と土地を治める🐉の話(たぶんファンタジー)
    ※龍羽
    ※とりあえず序章だけ
    end point木々がざわめく音、遠くから聞こえる波がさざめく音、屋敷に響く僕だけの足音。
    そして三百年に数回、外から来る見知らぬ他人の足音。来て様子を見てみては気味悪がって去って行く。僕に出て行って土地を寄越してほしいのだろうが出て行く気はさらさらない。だってご主人様が帰ってくるかもしれないから。同じ日を繰り返し僕はいつまでもここで待つ。
    ──だけれど、今日は確かな足音がひとつ。屋敷に向かって響いていた。





    成人し、とある土地を治めることになった俺は前任者、またはその土地に住む人々から毎回聞かされる話があった。
    「丘の上には悪魔が住んでいる」「不死身でずっと居着いている」「気味が悪いから出て行ってほしい」どうにかならないかと口々に言われた。しかし悪さはしていないようで気味が悪いだけで追い出すのはいかがなものかと思った俺はまず最初に会うことにした。周りからは一人で行くのは危険だとか言うが付いてくる者を探すだけで時間の無駄だ。あの丘の上からは海が見えるはずだし新しい御宿にするのも悪くない。俺は早く会って話をして行動し、ことを進めたい。時間は有限なのだ。
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