「今日はどうしたんだ?」
覗き込んだケージの中にいるのは、黒の雄のラブラドール。麻薬探知犬の彼は、ハンドラーの自分の相棒だ。まだ探知犬になって一年ほどだが、訓練の時から落ち着いた優秀な犬だった。だが、今朝ケージに来ると、ケージの中をうろうろ歩き回り床のあちこちを嗅いでいる——まるで見知らぬところに来たように。
だが、餌の皿を置くと、匂いを嗅いでいつもどおりすぐに平らげたので、体調が悪いわけではないらしい。
「さあ、今日も仕事だぞ」
ケージから出し、空港へ向かう。
リードを引いて税関を行きかう客とスーツケースの間を歩きまわる。朝は心配だったが、荷物を次々に嗅いでまわる様子はいつも通りで安心する。
だが、突然ピタリと止まり、空気の匂いを嗅いだ。何か見つけたのかと緊張する。と、突然リードを引っ張られた。
「ちょ……おい!」
思い切りリードを引くが、若干反応が遅れたせいか引っ張られてしまう。
「止まれ……!」
いつもなら命令すればすぐに止まるのに、今日は言うことを聞かない。
税関エリアを駆け抜けていき、やっと走るのをやめたかと思うと、そこに立っていた男性の脚に飛びついた。
「うわっ……!」
男性が驚いた声をあげた。急いでリードを引くが、前足はなおも宙をかいている。
「し、失礼しました!」
いえ、と言いながら首を振った男性のスーツの袖には四本線が入っていた。パイロット、それも機長だ。
だが、軽く会釈したすきにまたリードを引かれる。鼻をのばし機長の靴とズボンの裾をくんくんと熱心に嗅いでいる。
「あのぅ…」遠慮がちに言う。
パイロットの彼も犬が麻薬探知犬であることに気づいたようだ。顔が強張る。
「……何か、持っておられませんよね?」尋ねながらパイロットのネームプレートの名前を見る。「風信…機長?」
機長はぶんぶんと首を振った。
麻薬を嗅ぎつけた時は、その場でピタリと座るように訓練されているから、今の興奮した様子は明らかにそれとは違う。だが、探知犬がこれだけ反応している以上、無視するわけにもいかないだろう。様子を見ていた職員も近づいて来た。
「すみませんが……一応、別室へいいでしょうか」
パイロットの彼は、なおも訳がわからないという顔で、両脇を税関職員に固められて去って行った。それを追いかけようと引っ張っていた犬は、機長の姿が見えなくなると、哀しそうにクーンと鳴いた。
「いったいどうしたんだお前」
この調子では業務は無理だ。同僚に連絡し、いったん下げることにした。
訳が分からずに税関職員に連れていかれた風信も動揺していた。連れていかれた個室で待っている間に急いで会社へ連絡する。今日は、このあと別のフライトの予定だったが、場合によっては替えてもらわないといけない。電話に出た社員に驚いた様子で聞き返され、どう考えても身に覚えがないと早口で説明する。
「わかりました……今日は南風がスタンバイで空いてる予定だったんですけど、彼も今日はちょっと……」
「南風がどうかしたのか?」
「なんか、朝出勤したら、やけにハアハアしながら驚いた顔で『僕が飛行機の運転するんですか?』とか言うんで、今日は休ませることになりまして」
「え……?」
「まぁ、ほんとに帰してもらえなそうなら他のパイロットにあたります」
休憩室で水を飲ませて落ち着いてきた犬の様子を見ながら、溜息をつく。
「いつもお前は真面目なのに、今日はどうしたんだ?」
こんなに興奮するのを見るのは初めてだった。
無線連絡が入り応答する。他の犬が疲れてきたので交代してほしいという。さっきの機長も特に問題なかったらしい。
「行けるか?」
無線に反応したようにすっくと立ちあがり、早く仕事に戻りたいと言うようにドアの前でぴたりと立つ彼のリードを握ってドアを開けたその途端——
「わっ……!」「ぎゃっ!」
嬉しそうな鳴き声とともに、廊下を通りかかった人に飛びついた。
見上げるとそれはさっきの機長だった。
「な、なんなんだいったい……」
機長はおろおろと足元にまとわりつく犬を見下ろしている。
「な、なにも持ってないって!」
機長は訴えるような目で見つめる。「いま検査されたところです……!」
「え、ええ。わかっています。すみません!」
犬のほうは、尻尾を千切れんばかりに振っている。どう見ても喜んでいるようにしか見えない。
突然、脚の間に体をねじ込んだ犬が股の間に鼻を伸ばしてきたのを見て機長は、ひえっと叫んで飛びのこうとしたが、脚をもつれさせて床に尻もちをついた。
「こら!」首輪に手をかけて思い切り引く。「やめろ、おい! ナンポン!」
「……なんぽん?」
「こいつの名前です。ほんとにすみません! 大丈夫ですか、風信機長」
「あ、ああ、大丈夫」機長は驚いた顔をしながらも、床に座ったまま、おずおずと犬に手を伸ばした。
「なんか、この犬、見覚えがあるような……」犬はフンフンと機長の手を嗅いでいる。
彼がそっと頭を撫でると、うれしそうにクンクン鳴き、ペロリとその手を舐める。こんなに嬉しそうな反応は見たことがなかった。
「なんぽん……いやまさかそんな……」
機長は何か呟きながら犬をじっと見つめている。
「どうかしました?」と尋ねると、彼は我に返ったように首を振った。「いえ、なにも……!」
機長はすっと立ち上がり、軽くスーツを払った。
「で、では私はこれで……」
「は、はい。本当に失礼しました!」
さりげなくついていこう行こうとする犬の首輪をがしりと掴みながら頭をさげる。
フロアに戻ると、客はまばらになっていた。一回り終えて窓際で待機する。犬はすっくと立ったまま窓の外を見つめている。なんとなくその視線を追った彼は、遠くの建物のマークに気づいた。
「南陽航空……?」たしかさっきの機長は南陽航空のマークをつけていた。
犬の横にしゃがみ、その顔を覗き込む。
「おまえ、今日は麻薬探知犬というより、風信機長探知犬だな」
そう言うと、ハアハアと舌を出しながら犬も彼を見た。その顔はどこか誇らしげに見えた。